日本歴史地名大系 「真庭郡」の解説 真庭郡まにわぐん 面積:八二三・四五平方キロ落合(おちあい)町・久世(くせ)町・勝山(かつやま)町・美甘(みかも)村・湯原(ゆばら)町・中和(ちゆうか)村・八束(やつか)村・川上(かわかみ)村・新庄(しんじよう)村明治三三年(一九〇〇)旭川左岸の大庭(おおば)郡と右岸の真島(ましま)郡が合併して成立した。県北部に位置し、東は苫田(とまた)郡富(とみ)村・鏡野(かがみの)町、久米(くめ)郡久米町・旭(あさひ)町、南は御津(みつ)郡加茂川(かもがわ)町、上房(じようぼう)郡有漢(うかん)町・北房(ほくぼう)町、西は阿哲(あてつ)郡大佐(おおさ)町、鳥取県日野(ひの)郡日野町・江府(こうふ)町、北は同県東伯(とうはく)郡関金(せきがね)町・三朝(みささ)町に接する。旭川の本流とおもな支流の下和(したお)川・鉄山(かねやま)川・新庄川・月田(つきだ)川・目木(めき)川・河内(こうち)川・備中川に沿って平坦部があり、それぞれの合流点に集落が成立している。北は蒜山(ひるぜん)三座の南に蒜山高原が開け、旭川に沿って西から川上・八束の二村、その南は中国山地の脊梁部となり、新庄川の上流に北から新庄・美甘の二村、下和川に沿って中和村、鉄山川と旭川に沿って湯原町が位置する。郡南東部に盆地が東西に続き、久米・津山の平野部に接続する。西から月田川・新庄川・旭川に沿って勝山町、旭川・目木川に沿って久世町、旭川・河内川・備中川に沿って落合町がある。勝山・久世・落合の三町が行政・経済・交通などの中心をなす。郡の南から西にかけては吉備高原の北の縁辺部にあたる。風土的には勝山以南と以北に分けられ、一般に中国山地・蒜山高原地域は山中(さんちゆう)と称された。しかし江戸時代には山中三触、三坂(みさか)峠以北の次樽(つぎたる)村(現湯原町)ほか二一ヵ村の大庭郡湯本触(ゆもとふれ)、三家(みつえ)村(現同上)ほか一六ヵ村の真島郡三家触、小童谷(ひじや)村(現同上)ほか四ヵ村の同小童谷触(作州記)の呼称があった。〔原始・古代〕蒜山盆地は美作における先土器文化の最も豊かな地域で、八束村戸谷(とだに)遺跡・中和村フコウ遺跡などがある。縄文時代には蒜山盆地・真庭盆地などに遺跡が散在し、落合町西原(にしばら)遺跡・宮の前(みやのまえ)遺跡などが知られる。弥生時代になると遺跡の数も大幅に増え、同町下市瀬(しもいちぜ)遺跡からは弥生時代終末期の井戸に伴って小型銅鐸が出土し、同町中山(なかやま)遺跡では総計二六七基の土壙墓を主体とする遺構が検出された。古墳時代は落合町の旭川岸丘陵上にある郡内最大の前方後円墳川東車塚(かわひがしくるまづか)古墳(全長約六五メートル)をはじめとして、蒜山盆地の八束村四(よ)つ塚(づか)古墳群(円墳)など、中小の古墳が築かれた。久世町三崎の五反(みさきのごたん)廃寺は白鳳時代に創建され、平安時代まで存続した寺院で、出土瓦の文様が他の寺院跡では発見されない特殊なものとして知られる。「続日本紀」天平神護二年(七六六)一二月二九日条ほかにみえる白猪臣(大庭臣)との関係が想定されており、「日本書紀」欽明天皇一六年七月四日条などに記される白猪(しらい)屯倉を大庭郡に比定する説もある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by