湯山
ゆやま
春近領志久見は初め中野氏が地頭職をもっていたが、しだいに市河氏に蚕食された。「湯山」は「野沢」の古名で郷内の最も魅力ある所であったので、永く中野氏に伝領され、その間幾度か係争が起こっている。「湯山」の初出は延応二年(一二四〇)正月二四日中野馬入道妙蓮(能成)が妻女の尼妙性に「志久見郷湯山之屋敷」を譲っている。ところが正応三年(一二九〇)一一月一七日中野泰重が中野仲能・小田切実道と「志久見郷湯山」を争い、弘安元年(一二七八)九月七日また中野忠能後家蓮阿・市河重房と仲能の女釈阿の遺領「志久見郷湯山」につき争論し、鎌倉幕府下知状を受けているが、いずれも「湯山」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の湯山の言及
【水上[村]】より
…九州山地の中央部,球磨川の最上流域に位置し,県の最高峰[市房山](1722m)が宮崎県境にそびえる。球磨川が村域中央を南流し,湯山川との合流点に多目的ダムの市房ダムがある。中心集落は国道388号線が通じる岩野。…
※「湯山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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