野沢村(読み)のざわむら

日本歴史地名大系 「野沢村」の解説

野沢村
のざわむら

[現在地名]佐久市大字野沢

東ははら村、南は鍛冶屋かじや村・本新町ほんしんまち村・取出町とりでまち村、北は跡部あとべ村・三塚みちづか村に接する。千曲川を渡ってきた佐久甲州道(現国道一四一号)は村を東西に貫いてやがて北に分岐する富岡とみおか(現国道二五四号)と丁字路をつくり南へ抜けていく。村は佐久甲州道を中心にして広がり、かつ野沢平のざわだいらの要となっている。佐久甲州道も富岡道もそれぞれ岩村田いわむらだ八幡やわた村(現北佐久郡浅科あさしな村)において中山道と連絡する。

嘉暦四年(一三二九)三月の鎌倉幕府下知状案(守矢文書)に、諏訪社上社五月会、御射山等の頭役として一一番五月会分に「左頭、佐久郡伴野庄桜井・野沢・臼田郷」とみえるのが初見。また、同年同月の諏訪社上社の大宮御造栄之目録(諏訪大社上社文書)にも玉垣六間の造営負担の郷村として「野沢・桜井・下県・賀津(ママ)・宇原・春日・県沢」が一括記載される。

野沢村
のざわむら

[現在地名]野沢温泉村大字豊郷とよさと

本村の地域は、東は現下水内しもみのちさかえ村、南は現下高井郡やまうち町・木島平きじまだいら村、西は千曲川、北は市川いちかわ村と接する。村の中央を毛無けなし山に源を発する湯沢ゆざわ川が流れ、野沢はこの渓流に沿って、湧出する温泉を中心に発達している。なお、南方赤滝あかたき川寄りに枝村の中尾なかおがある。

この地は、中世「湯山ゆやま」と称されたこともあるが、「野沢」の初出は、武田晴信が市川藤若にあてた弘治三年(一五五七)六月一五日の書状(市川良一氏蔵)で、「景虎(長尾)野沢の湯に至つて陣を進め、その地へ取り懸るべき模様云々」と記されている。

野沢村
のざわむら

[現在地名]三郷村大字ゆたか 野沢

あずさ川左岸、梓川扇状地の扇央、温堰ぬるせぎ沿いに南北に延びた集落。寛永一九年(一六四二)までは長尾ながお村の内にあって、慶安四年(一六五一)の検地に初めてその名を現す。若干の欠年代(天明・文政)があるが、宝永六年(一七〇九)以降、明治三年(一八七〇)に至る免状によれば、村高はこの間三九一石から四九二石に増加しているが、一〇〇石以上の損免のあった年は、正徳四年(一七一四)、同五年、享保二年(一七一七)、同四年、同五年、同六年、同八年、延享三年(一七四六)、文化五年(一八〇八)、同一〇年、天保七年(一八三六)、同九年、明治二年などである。

野沢村
のさわむら

[現在地名]五戸町扇田おうぎた 野沢

五戸村の南、浅水あさみず川の中流右岸に位置する。東は豊間内とよまない村、西は扇田村、南は八戸藩領斗賀とが村・剣吉けんよし(現名川町)に接する。永禄一〇年(一五六七)頃と推定される七月二一日付の根城南部氏宛南部晴政書状(遠野南部文書)に「ぬさ浅水口」とある。戦国時代より三戸南部氏の配下に入り、野沢城には一族の野沢氏が在城していたとされる(奥南旧指録)。野沢氏は二〇代南部信時の三男与九郎重義が野沢氏を称したものという(同書)

野沢村
のさわむら

[現在地名]階上町赤保内あかぼない 野沢

八戸はちのへ城下(現八戸市)の南東、階上岳北麓の丘陵地に位置し、北を道仏どうぶつ川が東流する。東は道仏村、西は鳥屋部とやべ村、北は赤保内村に接する。

元和四年(一六二七)知行目録に「四拾六石四斗壱升九合 野沢」とあり、藩政当初は盛岡藩に属し、根城南部氏に給されていた。寛文四年(一六六四)八戸藩の創設とともに同藩領に編入。元禄五年(一六九二)当村はじめ鳥屋部村・赤保内村および久慈くじ惣郷(現岩手県北東部)の検地が行われたが、増高となった当村と鳥屋部・赤保内の三ヵ村の百姓から検地打直しの願いが出されている(「御勘定所日記」同年二月一〇日・二六日条)

野沢村
のざわむら

[現在地名]青森市野沢

あら川の中流河谷の山村。

寛文四年(一六六四)の高辻帳に高一〇〇・六石と記される。貞享四年(一六八七)検地帳に田方九町四反九畝四歩、畑方九町七反一畝一六歩、田畑屋敷合せて一九町二反二〇歩、村高九二・六四石とある。田九町余のうち下々田が五町余、畑九町余のうち下畑および下々畑がそれぞれ三町余あり、生産力の低い村であった。

野沢村
のざわむら

[現在地名]世田谷区野沢一―四丁目・下馬しもうま三丁目・同六丁目

馬引沢うまひきざわ村の南にある。荏原えばら郡に属する。西端の上馬引沢村との境を矢倉沢やぐらさわ往還(大山道新道)が北東から南西へ通る。南の上馬引沢村とふすま(現目黒区)の境を品川用水が流れるが、当村内への引水はしていない(風土記稿)。もともとは下馬引沢村の秣場で、荏原郡六郷ろくごう領沢田の農民七右衛門と、葛飾郡東葛西ひがしかさい領の農民次郎右衛門が協力して開墾し、一村とした。次郎右衛門はもと野村氏であったので、その「野」と沢田の「沢」を合せて村名としたという(風土記稿)

野沢村
のざわむら

[現在地名]鹿沼市野沢町

小藪こやぶ川の西岸に位置。南境を小倉おぐら川が東流、小藪川を合せる。東は亀和田かめわだ村・いそ村、西は半田はんだ(現上都賀郡粟野町)。慶安郷帳では田一四二石余・畑九八石余。寛永一二年(一六三五)から阿部重次領となり、慶安元年(一六四八)武蔵岩槻藩領。貞享元年(一六八四)下総古河藩領(紀氏雑録続集)。元禄郷帳では旗本畠山領、以後幕末まで同じ。天保年間(一八三〇―四四)の家数二三(改革組合村)壬生みぶ楡木にれぎ宿の定助郷となり、享保一七年(一七三二)の勤高四四四石(「楡木宿助郷高書上」鈴木清一文書)

野沢村
のざわむら

[現在地名]宇都宮市野沢町・宝木町たからぎちよう

南は上戸祭かみとまつり村、西は野沢新田。日光街道に沿う台地上にある。かま川の水源地をなす沢が入込んでいる。近世は宇都宮藩領。慶安郷帳に田方八五石余・畑方一四三石余とある。元禄九年(一六九六)徳次郎とくじら宿大助郷一八ヵ村の一つとなる(「徳次郎宿助郷帳」柿沼渉文書)。正徳年間(一七一一―一六)の宇都宮領村々諸割物高付覚帳(五月女久五文書)では山家人足青草勤高二〇六石余、堰川除用水溜往還人馬勤高二七五石余。天保年間(一八三〇―四四)の家数一五(改革組合村)

野沢村
ひのさわむら

[現在地名]小国町樋の沢

中島なかじま村の北西、南流する折戸おりと川右岸に位置する。同川支流樋ノ沢川が合流する。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高一一一石余、免一ツ、家数三(うち役家一)・人数一一、役木として桑をあげる。蒲生氏高目録帳では日野沢とあり、村柄は下。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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