日本歴史地名大系 「湯岡城跡」の解説
湯岡城跡
ゆのおかじようあと
「若狭国税所今富名領主代々次第」は文和二年(一三五三)七月のこととして「代官幡津次郎左衛門尉、三宅中村六郎左衛門尉二人、稲岡ノ城郭をかまへて楯籠る処に、国人等押寄合戦たひたひありて、同廿七日に二人ながら城中を落了」とあり、南北朝争乱期、南朝方の若狭守護山名時氏の代官が居城したが国人一揆により落城したことを記す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
「若狭国税所今富名領主代々次第」は文和二年(一三五三)七月のこととして「代官幡津次郎左衛門尉、三宅中村六郎左衛門尉二人、稲岡ノ城郭をかまへて楯籠る処に、国人等押寄合戦たひたひありて、同廿七日に二人ながら城中を落了」とあり、南北朝争乱期、南朝方の若狭守護山名時氏の代官が居城したが国人一揆により落城したことを記す。
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