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丹羽長秀 にわ ながひで

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美術人名辞典の解説

丹羽長秀

武将。別姓惟住、幼名万千代、通称五郎左衛門。長政の子。尾張生。織田信長に仕えその老臣の一人。姉川の戦石山本願寺合戦・長篠の戦争に活躍。本能寺の変では豊臣秀吉と共に明智光秀を討つ。賤ヶ岳の戦には秀吉に属す。越前国足羽郡北庄城主。天正13年(1585)歿、51才。

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デジタル大辞泉の解説

にわ‐ながひで〔には‐〕【丹羽長秀】

[1535~1585]安土桃山時代の武将。尾張の人。織田信長に仕え、近江(おうみ)の佐和山城主。本能寺の変後は豊臣秀吉を助け、山崎の戦い賤ヶ岳の戦いに功を立て、越前北ノ庄城主となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

丹羽長秀 にわ-ながひで

1535-1585 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)4年生まれ。織田信長につかえ,近江(おうみ)(滋賀県)佐和山城主となる。信長の死後,羽柴(豊臣)秀吉とともに明智光秀をやぶり,清洲(きよす)会議では秀吉を支持。賤ケ岳(しずがたけ)の戦いでも秀吉にしたがい,越前(えちぜん),若狭(わかさ)と加賀半国を領有した。天正(てんしょう)13年4月16日死去。51歳。通称は五郎左衛門。
【格言など】御用にもたち候はで,口惜しく候へども,それも,はや,是非に及ばず候(遺書)

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朝日日本歴史人物事典の解説

丹羽長秀

没年:天正13.4.16(1585.5.15)
生年:天文4(1535)
安土桃山時代の武将。長政の子。尾張国児玉村(名古屋市西区)生まれと伝える。幼名万千代,通称五郎左衛門。父の死後織田信長に仕え,信長の養女(姪)と結婚。元亀2(1571)年,近江国佐和山城(滋賀県彦根市)を守る浅井氏家臣磯野員昌を降伏させた功で同城主となる。天正1(1573)年,信長の命で琵琶湖用の大型船を建造,同3年に惟住の姓を与えられ,翌4年には安土城普請の指揮に当たっている。信長の進める天下統一戦のほとんどに参加して各地を転戦した。同10年6月,四国に向かうため織田信澄と共に大坂まで出陣していたとき本能寺の変を聞き,備中国から駆け戻ってきた羽柴(豊臣)秀吉と合流して,明智光秀を破った。清洲会議で若狭一国と近江国高島・滋賀2郡を領することとなり,坂本城(大津市)に移って,秀吉,柴田勝家,池田恒興らと共に織田家を支えた。翌11年の賤ケ岳の戦では秀吉方に属して勝家倒滅に武功を上げ,越前国の大部分と加賀国能美郡が与えられて北庄(福井市)に移ったが,その2年後に没した。秀吉が「丹羽」「柴田」から1字ずつとって羽柴姓としたことからもわかるように秀吉と長秀の関係は深く,秀吉は病床の長秀の要請で医師竹田定加を派遣し,長秀も秀吉宛に遺書を書いて形見の品を贈り,跡目を全面委任するなどふたりの間の絆は終生固かった。「暫くの内もなくては叶わず,おしなべて上下へ渡る人」と評された(『翁草』)。

(河村昭一)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

にわながひで【丹羽長秀】

1535‐85(天文4‐天正13)
安土桃山時代の武将。織田信長に仕える。柴田勝家と並び称される勲功の臣で,浅井・朝倉との合戦に功績があり,近江佐和山を拝領して居城とした。長篠の戦には一翼の大将として軍功をあげ,翌1576年(天正4)惟住(これずみ)の称号を得た。本能寺の変後,羽柴(豊臣)秀吉とともに明智光秀を討ち,ついで柴田勝家,佐久間盛政と戦った。戦後,秀吉より越前・若狭両国と加賀半国を与えられ,越前北ノ庄の城に住した。【西田 真樹】

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大辞林 第三版の解説

にわながひで【丹羽長秀】

1535~1585) 安土桃山時代の武将。尾張の人。織田信長に仕えて、佐和山城主。一時、惟住これずみ氏を称す。本能寺の変後、豊臣秀吉とともに明智光秀を討った。柴田勝家が滅びると、越前北庄城城主。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

丹羽長秀
にわながひで

[生]天文4(1535).尾張
[没]天正13(1585).4.16. 越前
安土桃山時代の武将。近江佐和山城主。長政の子。通称,五郎左衛門。羽柴越前守,一時,惟住氏を称した。織田信長に仕え,姉川の戦い長篠の戦いなどに功があった。天正 10 (1582) 年四国征伐に出陣のおり,本能寺の変が起り,豊臣秀吉と合流して明智光秀を破った。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

丹羽長秀
にわながひで
(1535―1585)

安土(あづち)桃山時代の武将。織田氏の老臣。尾張(おわり)国児玉(こだま)(名古屋市西区)に生まれる。幼名万千代、通称五郎左衛門(ごろざえもん)。奉行人(ぶぎょうにん)。名古屋市北区楠(くすのき)町味鋺(あじま)の長秀宅跡は現在県史跡。1571年(元亀2)浅井長政(ながまさ)の旧属城近江(おうみ)佐和山(さわやま)(滋賀県彦根市内)を守る。76年(天正4)惟住(これずみ)の姓を与えられ一時これを称す。82年信長は、三男神戸信孝(かんべのぶたか)に長秀をつけて、四国遠征の軍をおこす。信孝らは大坂城に集結。本能寺の変後は、羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉に協力し、惟任(これとう)(明智(あけち))光秀(みつひで)を撃破。信長の孫三法師(さんほうし)(のち秀信)を織田氏の後継者とすることに同意。柴田勝家(しばたかついえ)らとともに政務をとる。賤(しず)ヶ岳(たけ)の戦いでは秀吉に従い、勝家の挙兵を攻め自殺させる。越前北庄(えちぜんきたのしょう)(福井市)に鎮し、若狭(わかさ)と加賀半国の大名となる。室は織田信広の女(むすめ)[奥野高広]

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世界大百科事典内の丹羽長秀の言及

【溝口秀勝】より

…尾張溝口の生れ。幼年より丹羽長秀に仕えたが,1581年(天正9)織田信長よりじきじきに5000石を与えられ,若狭高浜の城主となった。83年羽柴秀吉が柴田勝家を攻め,北陸を平定するにあたっての功により,4万4000石をあてがわれて加賀大聖寺の城に移った。…

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