20世紀日本人名事典 「瀬川昌耆」の解説
瀬川 昌耆
セガワ マサトシ
明治・大正期の医師
- 生年
- 安政3年4月17日(1856年)
- 没年
- 大正9(1920)年12月21日
- 出生地
- 江戸
- 学歴〔年〕
- 東京大学医科〔明治15年〕卒
- 学位〔年〕
- 医学博士〔明治33年〕
- 経歴
- 宮城医学校(東北大学医学部の前身)教諭となり、明治19年同校長に就任し宮城病院院長を兼務。21年ドイツ留学し専ら病理解剖学・生理化学・黴菌学を修め、傍ら内科学・小児科学を研究した。留学中、フリードリヒ帝立小児病院長ア・バギンスキーに師事、帰国後、24年第一高等中学校医学部教授となり、間もなく県立千葉病院司療医長となった。31年東京・本所に小児科専門の江東病院を設立、更に神田駿河台に東京小児科病院(のち瀬川小児病院)を建てて両病院で自ら診療に従事、また南葛飾病院院長を兼ねた。小児病に関する多数の著書があり、「病児及虚弱児の養育法」が最も著名である。古堂、渋紙庵と号し茶道・漢詩もよくした。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報