牛奥村(読み)うしおくむら

日本歴史地名大系 「牛奥村」の解説

牛奥村
うしおくむら

[現在地名]塩山市牛奥、東山梨郡勝沼かつぬま中原なかはら

下萩原しもはぎわら村の南にあり、東の牛奥山麓から西へおも川中流の左岸に及ぶ山沿いの村落。北牛奥・鹿伏戸かぶと(甲戸)・南牛奥・中原の四集落からなる。地名は古く牛を牧した所であることによるともいい(甲斐国志)、地内に牛池うしいけうし鼻木はなぎなどの小字がある。永禄三年(一五六〇)一二月一七日の武田信玄印判状(桑原彦次家文書)に「漆弐拾盃 牛奥」とみえ甲斐国内の漆衆に対し、当地など漆の生産地から五日のうちに計一六〇盃の納入が命じられている。天正一〇年(一五八二)一一月二日には栗原内記に、本領のうち山を含めた牛奥分一六貫四〇〇文(定納二〇貫九五〇文)などが安堵された(「徳川家印判状写」御庫本古文書纂)。慶長古高帳では高三九七石余、幕府領。ほかにかよい大明神領三石余があった。寛永一〇年(一六三三)旗本酒井領(「訴訟書」樋口兼其家文書)、その後幕府領(慶安二年「免割」同文書)、明暦三年(一六五七)の牛奥山山論の一二ヵ村願書(同文書)に右馬頭領とみえるので、慶安四年(一六五一)から寛文元年(一六六一)まで徳川綱吉領であったと考えられる。次いで旗本萩原領となり(寛文四年「成箇割付」同文書)、宝永二年(一七〇五)甲府藩領、享保九年(一七二四)幕府領石和代官支配、延享三年(一七四六)以降田安家領(田安領知村高記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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