改訂新版 世界大百科事典 「牧野氏」の意味・わかりやすい解説
牧野氏 (まきのうじ)
東三河の国人領主。戦国末期に松平氏の家臣となり,近世には一族の各家は将軍家の門閥譜代家臣として大名や上級旗本となる。出自は紀氏で,武内宿禰の後胤阿波民部丞成能,田内左衛門尉成直親子が阿波守に任じて以来,子孫相うけて讃岐国に住んでいたが,田内左衛門成富が応永年中(1394-1428)細川氏に従って三河国に移り,宝飯(ほい)郡牧野村(現,愛知県豊川市)に住んでから牧野を称したという。戦国期には氏勝家と定成(さだしげ)家の2流があった。氏勝家は牛窪(うしくぼ)に築城し,3代成定(なりさだ)は今川義元に属していたが,1566年(永禄9)より徳川家康に属し,4代康成は90年(天正18)家康の関東入国のときには上野国勢多郡大胡(おおご)2万石を与えられた。5代忠成は1620年(元和6)越後国頸城(くびき)郡長嶺城主(のち長岡に移る)で7万4000石余を領した(長岡藩)。忠成は,34年(寛永11)次男武成(のち康成)に1万石,四男定成に6000石を分知する。康成の子孫は与板から小諸に移され,定成の子孫は1863年(文久3)1万1000石高となり,三根山藩(のち峰岡藩と改称)を称した。4代康成の三男義成(のりなり)も別家して5000石の旗本となるが,儀成の次男成貞はわずか500石の奏者役から5代将軍綱吉の側用人(そばようにん)として7万3000石関宿城主まで立身し,子孫は笠間藩8万石を領した。定成家は,初代定成が今川氏真に属していたが1565年より家康に属し,2代康成のとき5000石の旗本,3代信成は下総国関宿城主1万7000石,4代親成は丹後国田辺3万5000石の大名となった。維新後いずれも子爵。
執筆者:所 理喜夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報