長岡藩(読み)ながおかはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「長岡藩」の意味・わかりやすい解説

長岡藩
ながおかはん

越後(えちご)国長岡(新潟県長岡市)に城を置き周辺を領有した譜代(ふだい)藩。江戸後期、3人の藩主老中に任じられた。領主牧野(まきの)氏の祖貞成(さだなり)は1529年(享禄2)三河牛久保の城主となり、今川義元(よしもと)に属したが、長子成貞(なりさだ)のとき徳川家康に臣従した。1590年(天正18)家康の関東入部に伴い、成貞の子康成(やすなり)(徳川十七将の一)が上州大胡(おおご)(群馬県前橋市大胡町)2万石に封じられた。大坂夏の陣の翌1616年(元和2)康成の長子忠成(ただなり)は越後頸城(くびき)郡長峰(ながみね)(現、上越(じょうえつ)市吉川(よしかわ)区)5万石に移封、居城の構営中、1618年に再転して長岡6万4000石に封じられた。所領は古志(こし)、三島(さんとう)、蒲原(かんばら)郡にわたった。1619年の福島正則(まさのり)の改易に際し、その妻が徳川家康の養女・忠成の実妹であったので、1620年、妻子の扶助料として栃尾(とちお)郷1万石を加増され、やがて開発地を含めて7万4000石余となった。

 初代忠成の創業46年を経て、3代忠辰(ただとき)の治世48年間に藩制が整備された。9代忠精(ただきよ)は7歳で襲封し、のち幕閣に列し寺社奉行(ぶぎょう)、京都所司代(しょしだい)などを経て、化政(かせい)期(1804~30)を中心に二度老中の座に着き、学芸もよくした。忠精の四子忠雅(ただまさ)が10代を継ぎ、ペリー来航(1853)の際は老中次席として条約に署名した。彼の代に藩の宝庫新潟町が上知(あげち)された。11代忠恭(ただゆき)は1863年(文久3)老中として外交を担当したが、公用人河井継之助(つぎのすけ)の勧めで辞任した。後を継いだ忠訓(ただくに)は戊辰(ぼしん)戦争の際公武合体を念じ、局外中立を守ろうとしたが果たせず、長岡城は陥落した。城地没収後2万4000石で再興されたが、1871年(明治4)廃藩。柏崎(かしわざき)県を経て、同年11月新潟県に編入。

[剣持利夫]

『長岡市役所編『長岡市史』(1931・北越新報社)』『今泉省三著『長岡の歴史』(1968・野島出版)』

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改訂新版 世界大百科事典 「長岡藩」の意味・わかりやすい解説

長岡藩 (ながおかはん)

越後国(新潟県)古志郡長岡に藩庁を置いた譜代小藩。1618年(元和4)4月,すでに長岡城下の町づくりを始めていた蔵王(堂)城主堀直竒(なおより)が越後村上に移封された後をうけて入部した牧野忠成により創始され,明治の廃藩まで牧野氏の支配が続いた。藩祖忠成は徳川家康の重臣であった康成の子で,1616年7月に上州大胡(おおご)から越後長嶺(現上越市,旧吉川町)城主に封ぜられたが,長嶺には入城しないまま直接長岡に入り,6万2000石を領した。さらに20年には栃尾郷など1万石を加増され,古志,山東(三島),蒲原(かんばら)の3郡にわたり7万4000石を領知した。新田開発も進められ,34年(寛永11)次男康成に1万石(与板藩),四男定成に6000石(のちの三根山藩)の新墾田を分与した。忠成の治世は46年間に及ぶが,幕府の重臣として江戸に在勤し,江戸城西丸の修築などの政務に従事していたので,実際に長岡の領地に入ったのは入封12年後の1630年である。

 その後,3代忠辰(ただとき)は諸士法制を整え,殖産興業策を進めて藩体制の基礎を固めた。9代忠精(ただきよ)は所司代から老中に栄進し,藩においても古義学を取り入れ,藩校崇徳館を設立して文教政策を進めた。続く忠雅,忠恭(ただゆき)も老中として幕閣に重きをなしたが,信濃川の洪水や飢饉のほか1843年(天保14)新潟湊の上知もあって財政は疲弊し,一揆が頻発した。68年(明治1)戊辰戦争の北越戦争に際して家老上座・藩軍事総督の河井継之助は新政府軍と戦って敗れ,みずからも戦傷によって失意のうちに世を去った。12代忠訓(ただくに)はいったん領地を没収され,忠毅(ただかつ)が2万4000石で再興を許されたが,財政は破綻し,70年廃藩,柏崎県に合併された。
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百科事典マイペディア 「長岡藩」の意味・わかりやすい解説

長岡藩【ながおかはん】

越後国長岡(現新潟県長岡市)に藩庁を置いた譜代中小藩。1618年牧野忠成(ただなり)が6万4000石(6万2000石とも)で入部し,創設された。以後一貫して藩主は牧野氏で,領地は越後国古志(こし)・三島(さんとう)・蒲原(かんばら)の3郡にあった。長岡城の建設に着手したのは堀直竒(なおより)で,同氏が越後村上に移されたあと,上野国大胡(おおご)から入部した忠成が引き継ぎ完成した。1620年忠成は1万石を加増され,1621年には家中の屋敷割,翌年には町割がなされた。忠成は新田開発を推進し,1634年に次男康成(やすしげ)に1万石(与板藩),4男定成(さだしげ)に6000石(のちの三根山藩)の新田を分知した。3代忠辰(ただとき)は諸士法制を定めて藩体制の基礎を固めた。9代忠精(ただきよ)は中興の英主といわれ,幕府老中などを務めた一方,藩校崇徳(そうとく)館を設立し,人材を育成した。続く忠雅(ただまさ)・忠恭(ただゆき)も老中として幕閣に重きをなしたが,信濃川の洪水や1843年に領地であった新潟湊が上知になるなどして藩財政は疲弊し,一揆も頻発した。1868年戊辰戦争北越戦争に際し,家老上座・藩軍事総督の河井継之助(かわいつぐのすけ)は新政府軍と戦って敗れ,負傷のため没した。12代忠訓(ただくに)はいったん領地を没収されたが,忠毅(ただかつ)が2万4000石で再興を許された。1870年廃藩。
→関連項目新潟奉行

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藩名・旧国名がわかる事典 「長岡藩」の解説

ながおかはん【長岡藩】

江戸時代越後(えちご)国古志(こし)郡長岡(現、新潟県長岡市)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩校は崇徳館(そうとくかん)。1618年(元和(げんな)4)、新しく長岡城をつくり始めていた蔵王堂(ざおうどう)城主堀直竒(なおより)が移封(いほう)されたあと、徳川家康(とくがわいえやす)の重臣だった牧野康成(やすなり)の子、忠成(ただなり)が6万2000石で入封、以後明治維新まで牧野氏13代が続いた。牧野氏は外様(とざま)大名の多い越後を抑える役を期待され、初代忠成のときに7万4000石まで加増、藩体制は3代忠辰(ただとき)のときに確立した。9代忠精(ただきよ)など江戸後期の3人の藩主は、いずれも老中を勤めている。幕末の戊辰(ぼしん)戦争では、藩政改革を進めていた家臣河井継之助(つぐのすけ)の主導で奥羽越(おううえつ)列藩同盟に参加したが、新政府軍に敗れた。1871年(明治4)の廃藩置県により、柏崎(かしわざき)県を経て、1873年(明治6)新潟県に編入された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長岡藩」の意味・わかりやすい解説

長岡藩
ながおかはん

蔵王 (ざおう) 藩ともいう。江戸時代,越後国 (新潟県) 長岡地方を領有した藩。慶長3 (1598) 年堀親良が3万石で封じられ,蔵王堂城を居城としたのに始る。その後一時高田藩領となったが,元和2 (1616) 年に堀直寄が8万石で入封,長岡城を築城した。同4年に牧野忠成が6万石で入封,同6年には1万 4000石を加増された。歴代藩主は内政,新田開発 (幕末には実収 14万石) ,信濃川通船権の独占に基づく商業の振興に努めた。 15代忠訓は河合継之助を登用して藩政改革を行い,奥羽越列藩同盟軍の一員として薩長軍に抗戦した。その子忠毅は2万 4000石に減封されて廃藩置県にいたった。牧野氏は譜代,江戸城帝鑑間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「長岡藩」の解説

長岡藩

越後国、長岡(現:新潟県長岡市)を本拠地とし、周辺を領有した譜代藩。藩祖は徳川家康の重臣、牧野康成の子の忠成。幕末の北越戦争では奥羽越列藩同盟に参加したが新政府軍に敗れた。

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世界大百科事典(旧版)内の長岡藩の言及

【新潟[県]】より


[沿革]
 県域はかつての越後・佐渡両国全域にあたる。江戸時代末期,越後には高田藩,新発田(しばた)藩,長岡藩をはじめ,三根山,村上,村松,椎谷,与板,糸魚川(いといがわ),黒川,三日市の11藩が置かれていたほか,新潟をはじめとする天領,預地,旗本領飛地が入り組んでおり,金山のあった佐渡は天領であった。1868年(明治1)越後の旧天領を管轄するため新潟裁判所が置かれ,まもなく越後府,新潟府と改称して北部を,新設された柏崎県が南部を管轄した。…

【牧野氏】より

…氏勝家は牛窪(うしくぼ)に築城し,3代成定(なりさだ)は今川義元に属していたが,1566年(永禄9)より徳川家康に属し,4代康成は90年(天正18)家康の関東入国のときには上野国勢多郡大胡(おおご)2万石を与えられた。5代忠成は1620年(元和6)越後国頸城(くびき)郡長嶺城主(のち長岡に移る)で7万4000石余を領した(長岡藩)。忠成は,34年(寛永11)次男武成(のち康成)に1万石,四男定成に6000石を分知する。…

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