百科事典マイペディア 「今川氏」の意味・わかりやすい解説
今川氏【いまがわうじ】
→関連項目井伊氏|今切渡|大宮|蒲御厨|守護所|初倉荘
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足利氏の一族で,駿河を本拠として遠江・三河にも進出した守護大名,戦国大名。足利義氏の子吉良長氏の次子国氏が三河国幡豆郡今川荘を領して今川氏を称したことに始まる。今川氏発展の基礎を作った範国は,足利尊氏に従って行動し,鎌倉幕府滅亡後,遠江・駿河両国守護や室町幕府の引付頭人に任じられた。以後,駿河守護職は今川氏によって世襲され,範氏,氏家,泰範,範政と伝えられた。また,範国の次子貞世(了俊)は長く九州探題として活躍した。範政は1416年(応永23)の上杉禅秀の乱で活躍したが,その後継問題とからんで国人層の反乱が起こった。反乱の鎮定後,長子範忠が家督を継ぎ,享徳の乱では征東大将軍として足利成氏を破った。その子義忠は,応仁の乱に際して東軍として上洛し,帰国後,遠江経略に力を注いだが,76年(文明8)討死した。その結果,再び家督争いが起こったが,伊勢長氏(北条早雲)の調停で義忠の子竜王丸が家督を継ぎ,氏親と名のった。氏親は,印判状発給,駿府市街の整備,遠江・三河進出,領内検地などを行い,この時代に今川氏は戦国大名化した。1508年(永正5)には遠江守護職を獲得し,26年(大永6)には戦国法として著名な《今川仮名目録》を制定した。氏親の死後,氏輝が継ぎ,その死後,36年(天文5)義元が継いだ。義元は領国の安定化を図るいっぽう,周辺の後北条氏,松平氏,織田氏と戦い,駿河・遠江・三河3ヵ国を支配した。53年(天文22)には《仮名目録追加》を制定し,翌54年には武田氏,後北条氏と同盟を結んだが,上洛を期して西上中であった60年(永禄3)5月19日,尾張桶狭間で織田信長の奇襲にあって敗死した。子の氏真(うじざね)は,武田氏,松平氏の攻撃にあって後北条氏のもとへ逃れた。後に徳川家康に保護され,子孫は高家(こうけ)として命脈を保った。
執筆者:佐伯 弘次
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
室町・戦国時代の足利(あしかが)氏支流の大名。足利義兼(よしかね)(源義家(みなもとのよしいえ)曽孫(そうそん))の孫吉良長氏(きらながうじ)の次男国氏(くにうじ)が、三河国幡豆(はず)郡今川庄(いまがわのしょう)(愛知県西尾市)を領し今川を称したことに始まる。国氏の孫範国(のりくに)は元弘(げんこう)・建武(けんむ)の動乱期に足利尊氏(たかうじ)に従軍し、その戦功により駿河(するが)・遠江(とおとうみ)両国の守護職(しゅごしき)を与えられ、発展の基礎をつくった。その子了俊(りょうしゅん)(貞世(さだよ))は、引付、侍所の頭人、九州探題として足利政権の確立に寄与した。以後代々駿河国守護として室町幕府の鎌倉府監視の任にあたり、上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱、永享(えいきょう)の乱、結城(ゆうき)合戦などに幕府軍として出陣、活躍した。応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱(1467~77)では東軍にくみし、西軍の遠江国守護斯波(しば)氏と対立した。守護から戦国大名への転換を遂げたのは氏親(うじちか)のときで、遠江国をあわせた強力な領国体制を形成、その子義元(よしもと)はさらに三河を領国に加え、東海一の戦国大名として全盛期を築いた。1560年(永禄3)義元が尾張(おわり)攻略の過程で織田信長に桶狭間(おけはざま)で討たれると、家勢はしだいに衰退し、1569年徳川氏により滅ぼされた。子孫は江戸時代高家(こうけ)として存続した。
[久保田昌希]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
中世,東海地方の武家。清和源氏。足利氏の支族。鎌倉中期に,足利義氏の孫国氏が三河国今川荘(現,愛知県西尾市)を支配したことに始まる。国氏の孫範国は足利尊氏に従い,遠江・駿河両国の守護に任じられた。その子貞世(了俊)は,侍所頭人・九州探題として活躍。以後,駿河国守護を世襲して,東海地方の要所を支配,室町幕府の東国政策に重要な役割をはたした。氏親のとき,遠江もおさめて戦国大名となり,家法「今川仮名目録」を制定,領国支配の体制を整えた。子の義元はさらに三河を支配下におき,東海第一の大名となった。1560年(永禄3)上洛の途中,織田信長によって桶狭間で敗死。その子氏真以後勢力は衰え,69年,領国を後北条・武田・徳川各氏に奪われて大名としての地位を失った。江戸時代,子孫は高家(こうけ)となった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…また安倍城には興良(おきよし)親王を擁した狩野貞長がおり,宗良(むねよし)親王も一時立ち寄るなど,遠江につぐ東海地方における南朝方の拠点であった。南北朝期の駿河国守護職は,石塔義房が初代であるが,1338年(延元3∥暦応1)今川範国が補任されて以降は,戦国期の氏真に至るまで代々今川氏に相伝された。駿河守護今川氏は室町幕府将軍家と密接な関係にあり,明徳の乱や応永の乱で泰範は駿遠両国の兵を率いて将軍義満のもとに馳せ参じた。…
…同時にこのころから飛驒へも侵入し,金刺氏などの旧族を滅ぼして領有した。 この間,隣国の駿河の今川氏,相模の後北条氏とは同盟関係を保ち,婚姻関係を結んでいた。信玄は長男の義信に今川義元の娘を妻として迎えていたが,67年に義信が反逆罪で刑死すると,その妻を今川氏真のもとへ帰し,駿河との同盟関係を絶った。…
…西国の場合,海上交通の占める割合が高く,それほど発達していない。東国でもっとも早く伝馬制が確認できるのは駿河の今川氏領であり,永正年間(1504‐21)には宿駅の設置と公用伝馬の徴用がみられる。今川氏の文書によると,公用伝馬を使用する場合は1日5疋を限度に,1里10銭を支払うことが義務づけられている。…
…しかし北朝方の遠江守護今川範国らの活躍で諸城が落とされ,南朝方の抗戦も終わった。遠江国守護職は範国の後,一時仁木氏,千葉氏らにも変わるが,主として今川氏がおさえ,斯波義重から今川泰範,そして1419年(応永26)に斯波義淳が任ぜられて以降,室町期には斯波氏が世襲した。しかし斯波氏は越前,尾張の守護を兼ね,遠江を本拠としなかったため,今川貞世(了俊)や仲秋系の遠江今川氏の勢力が根強く残った。…
…通称は次郎兵衛尉。戦国大名今川氏の御用商人で,駿河府中の今宿を拠点に東海道の流通を支配した。1552年(天文21)以前より,今川氏の商人頭として国内・他国の商人の統制と伝馬の発着を担当した。…
…題名は《太平記》を批判するという意味である。しかし,これは後人の命名で,了俊の意図がそこにあったわけではなく,父範国から聞いた今川氏の歴史や応永の乱時の了俊の立場を子孫に伝えることに,著作の目的があった。内容は,今川氏の出自,今川氏の先祖の事跡,特に鎌倉幕府の滅亡から南北朝動乱期における今川氏一族の活躍,今川氏の守護職や所領の由来,将軍足利義満に対して謀反を図る鎌倉公方(くぼう)足利満兼や大内義弘と了俊の関係などが書かれている。…
…古代以来遠江国の中心地として国府が置かれ,また国分寺が創建されるなど早くから発展し,中世の紀行文などにも〈遠江国府〉〈見附の府〉〈見つけのこう〉などとしてしばしば現れ,宿駅でもあった。南北朝期に遠江守護今川範国が居館を築いて以降,室町・戦国期には見附城(見附端城(みつけはじよう)ともいう)として,今川了俊(貞世)に始まる遠江今川氏(堀越氏を称する)の拠点の一つともなった。徳川家康が居城を岡崎から浜松に移す前,一時見附城の普請を行ったともいわれるが,その後廃城となった。…
※「今川氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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