物部影媛(読み)もののべの かげひめ

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「物部影媛」の解説

物部影媛 もののべの-かげひめ

日本書紀」にみえる女性。
物部麤鹿火(あらかひ)の娘。仁賢(にんけん)天皇11年,小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)(武烈天皇)に求婚され海柘榴市(つばきいち)(奈良県桜井市金屋(かなや))であう約束をする。市で尊にあったとき平群鮪(へぐりの-しび)とちぎっていたことを知られ,鮪は乃楽(なら)山で大伴金村(おおともの-かなむら)に殺され,影媛は悲しみの歌をのこしたという。
格言など】あをによし乃楽(なら)の谷(はさま)に鹿(しし)じもの水漬(みづ)く辺隠(へごも)り水灌(みなそそ)く鮪の若子を漁(あさ)り出(づ)な猪(い)の子(「日本書紀」)

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朝日日本歴史人物事典 「物部影媛」の解説

物部影媛

生年生没年不詳
5世紀末,大連物部麁鹿火の娘。武烈天皇が太子であったとき,影媛を妃に望み仲人をつかわし,会う約束をさせた。しかし,影媛はすでに平群真鳥の子鮪と深い関係にあったので,海石榴市(桜井市大字三輪付近)で開かれる歌場で待ち合わせるようにし,鮪と影媛が歌を詠みかわして相思相愛の仲であることを太子に見せつけた。怒った太子は,その夜乃楽山(奈良丘陵)で鮪を殺させた。その場にいあわせた影媛は,深い悲しみと憤りを歌に詠んだという。『日本書紀』によれば,この事件はそれまで絶大な権勢を誇っていた平群氏が武烈天皇と大伴氏に滅ぼされる契機となるものであった。

(明石一紀)

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