大伴金村(読み)オオトモノカナムラ

デジタル大辞泉 「大伴金村」の意味・読み・例文・類語

おおとも‐の‐かなむら〔おほとも‐〕【大伴金村】

古代の中央豪族。5、6世紀のころの武烈継体安閑宣化天皇時代の大連おおむらじ欽明天皇のとき、朝鮮半島経営の失敗により失脚。生没年未詳。

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精選版 日本国語大辞典 「大伴金村」の意味・読み・例文・類語

おおとも‐の‐かなむら【大伴金村】

  1. 大和時代の豪族。武烈天皇以下五朝の大連(おおむらじ)。談(かたり)の子。室屋の孫。皇位を左右する勢力を誇ったが、のち朝鮮半島の経営に失敗して失脚。生没年不詳。

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改訂新版 世界大百科事典 「大伴金村」の意味・わかりやすい解説

大伴金村 (おおとものかなむら)

5世紀末~6世紀前半ころの大和朝廷の豪族。生没年不詳。室屋の孫,談(かたり)の子で磐(いわ),咋(くい),狭手彦(さでひこ)の父。《日本書紀》によると,武烈・継体・安閑・宣化4朝の大連(おおむらじ)をつとめた。仁賢天皇死後,大臣の平群(へぐり)氏を滅ぼして武烈を即位させたとされるが,《古事記》では平群氏はこれより前,清寧天皇の死後,意祁(仁賢)・袁祁(顕宗)両皇子によって討たれたことになっている。武烈の死後,金村は群臣とはかり,応神天皇5世の孫の男大迹(おほど)王を越前から迎えて継体天皇とした。6世紀初めの継体朝には,朝鮮南部の任那(加羅)諸国への百済,新羅の進出をめぐって外交が複雑な動きを示し,金村は百済の要請に応じて任那4県--上哆唎(おこしたり),下哆唎(あるしたり),娑陀(さた),牟婁(むろ)の百済による領有を承認した。また九州の豪族が新羅と結んでおこした磐井(いわい)の乱には,大連物部麁鹿火(あらかび)が将軍となって赴き鎮定したが,《古事記》では金村も鎮定に遣わされたとしている。次の安閑朝では,《日本書紀》では屯倉(みやけ)が多く設定されたとされ,金村も,天皇に奏請して皇后・妃のための屯倉を置き,また摂津の三島県主や大河内直に屯倉や钁丁(くわよぼろ)を献上させるなどの活動をしている。金村の活動は宣化朝まで続くが,欽明朝に入ると蘇我氏の台頭などのために勢力を失い,物部尾輿らに任那4県割譲の非を指弾されて失脚し,住吉の宅に引退したとされている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大伴金村」の意味・わかりやすい解説

大伴金村
おおとものかなむら

生没年不詳。5世紀末から6世紀前半にかけての豪族。武烈(ぶれつ)・継体(けいたい)・安閑(あんかん)・宣化(せんか)朝の大連(おおむらじ)。大伴談(かたり)の子。仁賢(にんけん)天皇の死後、平群(へぐり)氏を滅ぼし、武烈天皇を即位させた。武烈の死後、皇位継承者がなかったため、金村は群臣と諮って、応神(おうじん)天皇5世孫という継体天皇を越前(えちぜん)より迎えた。512年(継体天皇6)百済(くだら)が任那(みまな)の4県の割譲を望んだのを認め、527年の筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)磐井(いわい)の反乱に際しては、大連物部麤鹿火(もののべのあらかい)とともに戦って平定した。その後、安閑期には屯倉(みやけ)の増設に尽力したが、540年(欽明天皇1)欽明(きんめい)天皇の難波(なにわ)行幸に従ったとき、物部尾輿(おこし)らに先の任那4県割譲の責任を糾弾されて失脚し、住吉(すみのえ)の宅に引退した。大伴氏はこれ以降しだいに衰退した。

[鈴木靖民]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大伴金村」の意味・わかりやすい解説

大伴金村
おおとものかなむら

大伴氏の最盛期を築いた古代の政治家。室屋の孫。談 (かたり) の子。仁賢天皇死後,太子 (武烈) と対立した平群 (へぐり) 氏を打倒し,武烈天皇の擁立に成功。大連 (おおむらじ) となる。武烈天皇に継嗣がなく,越前の大迹王 (おおとのおう) を擁立して継体天皇を即位させた。しかし,新羅遠征には失敗し,国内では筑紫国造磐井の乱 (527) が起るなど苦境に立った。また百済の要求を入れて任那4県を割譲し,百済と結んで高句麗,新羅に対抗しようとしたが,かえって任那の離反,新羅の侵攻を招いた。その後,安閑,宣化,欽明天皇の時代にも大連として権勢を保ち,屯倉 (みやけ) の設置などに努めたが,欽明1 (540) 年朝鮮政策の失敗を物部尾輿 (もののべのおこし) らに非難されて失脚し,以後大伴氏の勢力は衰えた。

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百科事典マイペディア 「大伴金村」の意味・わかりやすい解説

大伴金村【おおとものかなむら】

5世紀末―6世紀中ごろの武将。生没年不詳。彼の時大伴氏は最盛期にあったが欽明天皇の時,朝鮮半島の経営に失敗し物部尾輿(もののべのおこし)の弾劾(だんがい)で失脚。
→関連項目大伴氏大連物部麁鹿火物部尾輿

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大伴金村」の解説

大伴金村
おおとものかなむら

生没年不詳。6世紀の有力豪族。室屋(むろや)の孫。談(かたり)の子。磐(いわ)・狭手彦(さでひこ)・咋(くい)の父。雄略天皇の死後,平群臣真鳥(へぐりのおみまとり)・鮪(しび)父子を討ち,武烈天皇を即位させ,大連(おおむらじ)の地位についた。武烈の死により皇嗣が絶えたが,継体天皇を擁立し,引き続き安閑・宣化・欽明朝に仕えた。新羅(しらぎ)による任那(みまな)地方の併呑や筑紫国造磐井(いわい)の乱など,内外ともに激動の時期で,欽明朝に至り物部尾輿(もののべのおこし)らから外交政策の失敗を糾弾され失脚した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大伴金村」の解説

大伴金村
おおとものかなむら

生没年不詳
5〜6世紀,大和政権で勢威をふるった大連 (おおむらじ)
仁賢天皇の没後大臣 (おおおみ) 平群 (へぐり) 氏を倒し武烈天皇擁立に成功,大連 (おおむらじ) として国政を担当した。武烈没後皇嗣がたえると,継体天皇の擁立に成功し,続いて安閑・宣化天皇を支持して,欽明天皇を支持する蘇我・物部氏と対立した。512年任那 (みまな) 4県を百済 (くだら) に割譲する失政により失脚,物部尾輿 (おこし) にその地位を奪われた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大伴金村」の解説

大伴金村 おおともの-かなむら

?-? 5世紀末-6世紀前半の豪族。
大伴談(かたり)の子。武烈天皇・継体天皇の即位実現に功があり,宣化(せんか)天皇にいたる4朝の大連(おおむらじ)となり,政権をにぎった。筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)磐井(いわい)の乱の鎮圧,屯倉(みやけ)の増設などで功績をあげるが,欽明天皇元年(540)百済(くだら)(朝鮮)への任那(みまな)(朝鮮)4県割譲の責任をとわれ失脚した。

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世界大百科事典(旧版)内の大伴金村の言及

【大伴氏】より

…日本古代の中央有力豪族。姓は連(むらじ)で,684年(天武13)以後宿禰(すくね)となった。伴(とも)は朝廷の各種の職務を世襲的に奉仕する集団で,大伴とは,伴の大いなる者,あるいは多くの伴を支配する伴造(とものみやつこ)の意であろう。記紀の伝承では,天孫降臨のおり,遠祖天忍日命(あめのおしひのみこと)が武装して先導し,神武東征のおりにも,遠祖日臣命(道臣命)が大和への道を先導したという。おそらく4~5世紀の大和政権の発展期に,朝廷の諸機能にたずさわる伴の管理者として成長し,ことに軍事的統率者として頭角を現したものと思われる。…

※「大伴金村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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