狛野庄(読み)こまののしよう

日本歴史地名大系 「狛野庄」の解説

狛野庄
こまののしよう

古代の大狛おおこま(和名抄)に立荘されたと考えられ、最終的な荘域は北河原きたがわら北側を西流する鳴子なるこ以南から上狛かみこま南端木津きづ川河岸までの範域、すなわち近世の上狛村・椿井つばい村を中心とした地域である。史料により上狛庄とも出、室町期には南庄(上狛)北庄(椿井)に分れていた。

地名狛野は「続日本紀」天平神護元年(七六五)八月一日条にみえ、時代は下るが、「枕草子」の「野は」の段にも記され、「公任集」に

<資料は省略されています>

とある。このほか奈良街道が通ることからか、狛野原・狛渡・狛山など当地辺りを詠んだ歌は多く、催馬楽には「山城の狛のわたりの瓜つくり」とうたわれる。

狛野庄は安和二年(九六九)七月八日付法勝院領目録(仁和寺文書)に「相楽大狛庄田地八町三段百十歩□□□田畠」とみえ、「件田畠并八町余、為充御堂并僧房等之修理料、沽渡井手已講了」と注されている。また八町余は「七条上船穂東里」「六条波曾瀬里」「七条籾村里」「六条祝薗里」にわたって所在することが記されるが、このうち祝園ほうその里は西方木津川対岸(現精華町の祝園神社鎮座地一帯)をさすと考えられる。

また文治五年(一一八九)二月五日付僧賢珍田地譲状(「山城国古文書」内閣文庫所蔵)に「狛野私領一処事東南院御庄之内」、建久二年(一一九一)五月一九日付西大寺所領荘園注文(大和西大寺文書)に「山城国 下已呂波里狛野庄畠七町百八十歩之内一町一段百六十歩左馬寮収公」、嘉禄元年(一二二五)一一月五日付官宣旨案(東大寺文書)に「三論供田狛野庄」などとみえ、諸大寺領が入り組んでいた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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