日本歴史地名大系 「猿和田村」の解説 猿和田村さるわだむら 福井県:丹生郡清水町猿和田村[現在地名]清水町和田(わだ)清水尻(しみずじり)村の南西にあり、東は志津(しづ)川を隔てて竹生(たこう)村。享禄二年(一五二九)五月日付の大谷寺所々神領坊領目録(越知神社文書)に、各々「在所三富内」として「弐段 分米壱石五斗坪付鳥居之前ニ在作職猿和田村辻左衛門」「七段 分米拾弐石在坪猿和田地蔵堂之前ニ在之」とみえ、室町時代には大谷(おおたに)寺(跡地は現朝日町)の所領があった。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では三戸部(みとべ)郷に含まれる。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となり、元禄一〇年(一六九七)には葛野藩領、その後再び幕府領、明和元年(一七六四)には三河国西尾藩領、天保郷帳の段階ではみたび幕府領となっている。 猿和田村さるわだむら 新潟県:五泉市猿和田村[現在地名]五泉市猿和田阿賀野川の形成した扇状地が早出(はいで)川の氾濫原と接する付近に位置し、北を天正古(てんしようふる)川が流れる。南は中川新(なかがわしん)村、西は土堀(つちぼり)村に接する。正保国絵図に一〇〇石余とあり、村上藩領であった。寛文一三年(一六七三)の村上御領分組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では笹堀組に属し、貞享元年(一六八四)の郷村高辻帳には高一五七石六斗余とある。宝永七年(一七一〇)幕府領、正徳元年(一七一一)高田藩領、天保元年(一八三〇)沼津藩領となり、安政二年(一八五五)の沼津領村々明細書上帳(五泉郷土史)には高一九五石六斗余(田高一三三石七斗余・畑高六一石九斗余)、反別二二町七反余(田九町七反余・畑一二町九反余)、家数三二(本百姓二六・水呑五・寺一)、人数一三四(男七三・女六〇・僧一)とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by