福井城下(読み)ふくいじようか

日本歴史地名大系 「福井城下」の解説

福井城下
ふくいじようか

足羽あすわ川北岸の福井城を核としてできた近世の城下町。城を中心に広大な武家屋敷が広がり、周辺の西部・北部に町屋がつくられた。川南は北陸街道に沿って帯状に町屋が並び、中下級武士の居住区もあったが、城下の中心は川北であった。南端の赤坂あかさか口から北辺の加賀かが口御門まで一里一五町(北庄から福井への改称や近世の通史的事象の記述は、「福井市」の項を参照)

〔城下の形成〕

天正三年(一五七五)越前国主となった柴田勝家が、足羽川北岸北庄きたのしように築城したことに始まる。当時の本丸は現柴田しばた神社付近と推定され、主要な武家屋敷地は後の松平氏時代の大名だいみよう広路一帯と考えられる。神明社縁起は城北の神明社境内地にも侍六、七十人の屋敷割が行われたと記している。町方は戦国期朝倉氏の居城があった一乗谷から多くの社寺や住民を移して町割を行った。天正六年一二月二〇日付の柴田勝家掟書(法興寺文書)によれば、すでに「一乗引越し」とよばれた一乗町が一街区をつくっている。魚屋うおや町・神明之しんめいの町・しお町・はま町の名も記録に残り、当時の北庄城下町は城の西、かた町・呉服ごふく町一帯が主要街であったことをうかがわせる。天正九年四月、布教のため北庄を訪れた宣教師ルイス・フロイスは、本国宛の書翰(耶蘇会日本年報)に「当市は又安土の二倍もあるということである」と述べている。

天正一一年の柴田氏滅亡後、丹羽氏・堀氏・青木氏が相次いで北庄城主となったが、慶長五年(一六〇〇)一二月、結城秀康が封じられ、越前松平藩(福井藩)が成立した。秀康の結城ゆうき(現茨城県結城市)よりの転封で、家臣・寺社・町人・職人の多くが北庄に移り、「結城引越し」とよばれる。秀康は入国とともに永代にわたり北庄城下の地子銭を免除するなど町人に種々の特典を与え、世に「中納言様の御みやげ」と称された。

北庄の西部主街は柴田氏時代の町屋地区で、慶長年間北庄四ツ割図は、この旧市街の北側に堀と土居、西側の町端に「堀、土居拾弐間」を記す。すなわち旧市街は堀と土居で市邑を包む邑城形式であった。慶長六年の北庄城拡張と並行して、城北の松本まつもと村にも新市街を建設、秀康の故地結城が邑城形態であったためか、北庄でも新市街を含めた総曲輪の構築を始めた。しかし同一二年の秀康の死去で、松本加賀口付近の曲輪の完成だけで計画は中止になった。

城下の区域は、太閤検地の際の町村名でいえば北庄町・石場いしば町・木田きだ村・松本村・三橋みつはし村・城之橋じようのはし(村)に相当する。秀康は城下の拡張建設にあたり町方(町人居住地区)のみに地子を免じた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の福井城下の言及

【福井[市]】より

…北陸本線と越美北線の分岐点の福井駅を起点として福井鉄道福武線(1925)が武生,鯖江方面へ,京福電鉄越前本線(1913)が勝山方面へ,三国芦原(みくにあわら)線(1928)が芦原温泉方面へ通じる。【島田 正彦】
[福井城下]
 初め北ノ庄といい,1575年柴田勝家が入り,朝倉氏の故地一乗谷をはじめ領内各地から寺社や商工人を移住させ,城下町を建設して発展した。町の規模は安土の2倍,天守は九層と伝える。…

【蓑虫騒動】より

…参加者が顔に墨やすすを塗り,破れ蓑や破れ笠を着けていたことから,藩側は侮蔑と恐怖をもって,百姓側は誇りと自覚をもって,それぞれ蓑虫と称したと思われる。敦賀郡を除く越前(福井県嶺北地方)では,(1)1748年(寛延1)福井城下,(2)68年(明和5)福井城下,(3)79年(安永8)丸岡藩領,(4)86年(天明6)勝山藩領,(5)1811年(文化8)勝山藩領,(6)28年(文政11)勝山藩領(他領へ波及),(7)33年(天保4)福井藩領などの一揆,打毀に蓑虫の言葉が使われ,ほとんど百姓側の勝利に終わった。 このうち(2)は参加者2万人といわれ,越前で最大のものである。…

※「福井城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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