朝日日本歴史人物事典 「玉手弘通」の解説
玉手弘通
生年:弘化1.5(1844)
明治期の実業家。大和国(奈良県)高市郡に高取藩士中村幸次(郎)の第4子として生まれる。11歳で多武峯の僧正に入門。17歳のとき,僧正が死去したのち,越智家を相続して越智剣平と改称し,武術修行に励む。幕末には勤王運動に身を投じ,また大和国越智伊賀守の一門玉手郷城主玉手又太郎(または又四郎)の絶家を相続し,玉手鎮次郎橘弘通と改名。戊辰戦争期以降は維新政府に仕えたが,明治4(1871)年末に大阪府に転籍し,秋津屋の屋号で商業を開始。17年,石油取引業者を糾合した大阪石油会社の社長に就任。大阪商船,大阪電灯などの会社の創立・経営にも参加し,坩堝やペンキの製造でも成功。堂島米商会所頭取,大阪商法会議所副会頭も歴任。<参考文献>宮本又次「玉手弘通」,同編『上方の研究』5巻
(阿部武司)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報