中村(読み)ナカムラ

デジタル大辞泉 「中村」の意味・読み・例文・類語

なかむら【中村】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「中村」姓の人物
中村彰彦なかむらあきひこ
中村歌右衛門なかむらうたえもん
中村岳陵なかむらがくりょう
中村翫右衛門なかむらかんえもん
中村勘九郎なかむらかんくろう
中村勘三郎なかむらかんざぶろう
中村鴈治郎なかむらがんじろう
中村吉右衛門なかむらきちえもん
中村吉蔵なかむらきちぞう
中村錦之助なかむらきんのすけ
中村草田男なかむらくさたお
中村憲吉なかむらけんきち
中村雀右衛門なかむらじゃくえもん
中村修二なかむらしゅうじ
中村真一郎なかむらしんいちろう
中村彝なかむらつね
中村汀女なかむらていじょ
中村惕斎なかむらてきさい
中村富十郎なかむらとみじゅうろう
中村仲蔵なかむらなかぞう
中村登なかむらのぼる
中村白葉なかむらはくよう
中村元なかむらはじめ
中村紘子なかむらひろこ
中村不折なかむらふせつ
中村文則なかむらふみのり
中村正直なかむらまさなお
中村正䡄なかむらまさのり
中村光夫なかむらみつお
中村武羅夫なかむらむらお
中村雄二郎なかむらゆうじろう

なかむら【中村】[高知県の旧市名]

高知県南西部、四万十しまんと川下流にあった市。応仁2年(1468)一条教房いちじょうのりふさが土佐の国司として居を構えた地。米・イグサの産地。平成17年(2005)西土佐村と合併し四万十市となる。→四万十

なかむら【中村】[名古屋市の区]

名古屋市の区名。豊臣秀吉の生地。

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精選版 日本国語大辞典 「中村」の意味・読み・例文・類語

なかむら【中村】

  1. [ 1 ]
    1. [ 一 ] 愛知県名古屋市の行政区の一つ。JR東海・名古屋鉄道・近畿日本鉄道・地下鉄の名古屋駅があり、名古屋市の玄関口として都心部の一部を形成。豊臣秀吉の生地で、豊国神社がある。
    2. [ 二 ] 高知県南西部、四万十市の地名。旧市名。四万十(しまんと)川の下流域に発達。中世、幡多本庄と呼ばれ、一条氏が国司として土佐国を統治した地。木材加工、醸造などの工業が行なわれる。土佐くろしお鉄道が通じる。昭和二九年(一九五四)市制。平成一七年(二〇〇五)西土佐村と合併して四万十市となる。
  2. [ 2 ]なかむらりゅう(中村流)」の略。

なかむら【中村・仲村】

  1. [ 一 ] 姓氏の一つ。
  2. [ 二 ] ( 中村 ) 歌舞伎俳優の姓の一つ。

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日本歴史地名大系 「中村」の解説

中村
なかむら

[現在地名]中村市百笑どうめき町・一条通いちじようどおり一―五丁目・大橋通おおはしどおり一―七丁目・ひがし町一―三丁目・丸の内まるのうちさくら町・小姓こしよう町・上小姓かみこしよう町・ほん町一―五丁目・しん町一―五丁目・きよう町一―五丁目・於東おひがし町・山手通やまてどおり東下ひがししも町・四万十しまんと町・弥生やよい町・羽生小路はぶしようじさかえ町・天神橋てんじんばし愛宕あたご町・中村・中村町

四万十川(渡川)うしろ川の合流点の上流、両川に挟まれた村。東からは中村街道が、西からは宿毛すくも街道が通じる。四万十川沿いに縄文から弥生時代にかけての遺跡がある。山手通の中村貝塚は縄文晩期の貝塚であり、百笑町の久山ひさやま遺跡・吹越山ふきこしやま遺跡、羽生小路の岩崎山いわさきやま遺跡、古城こじよう山の古城山遺跡はいずれも弥生時代の遺跡である。江戸時代には「土佐州郡志」が「東抵安並佐岡二村、西抵具同入田二村、南抵不破宇山界、北抵岩田村界、東西八町南北十七町余、中村土居、沿山有土居址、其下聚落曰上町・下町」と記すように、村内に一条氏時代以来の系譜を引く中村町(上町・下町)があり、郷分とは別に目代が置かれてその支配下にあった。

古代には「和名抄」東急本にみえる宇和うわ郷に属したものと考えられるが、同郷の所在比定については異説もある。鎌倉時代初め九条家領幡多はた庄が成立すると当地一帯はその中心となった。幡多庄が一条家領となって以降の弘安四年(一二八一)五月日の前摂政鷹司兼平家政所下文案(「蠧簡集」所収金剛福寺文書)に記される金剛福こんごうふく(現土佐清水市)領供田畠六町のうちに「中村内観喜丸名壱丁」「同村内曾根村灯油畠壱丁」、香山こうさん寺領供田畠五町余のうちに「中村内小塚大坪壱丁」、永仁六年(一二九八)三月日の大輔房心慶田畠宛行状(同文書)に「本郷内中村観音寺」、嘉元三年(一三〇五)三月七日の前摂政家別当右馬権頭源某袖判御教書(同文書)に「幡多庄中村内観音寺」、建武二年(一三三五)四月七日の権少僧都心慶下知状(同文書)に「同村(中村)内早代長田一丁」「同村内中津町壱丁」「同村内芋生灯油壱丁」などとみえる。


中村
なかむら

[現在地名]西宮市中殿町なかどのちよう中須佐町なかすさちよう中前田町なかまえだちようじよう堀町ぼりちよう森下町もりしたちよう両度町りようどちよう芦原町あしはらちよう神明町しんめいちよう櫨塚町はぜつかちよう末広町すえひろちよう分銅町ぶんどうちよう越水町こしみずちよう室川町むろかわちよう柳本町やなぎもとちよう青木町あおきちよう河原町かわはらちよう能登町のとちよう大畑町おおはたちよう平木町ひらきちよう北昭和町きたしようわちよう南昭和町みなみしようわちよう甲陽園若江町こうようえんわかえちよう甲陽園本庄町こうようえんほんじようちよう甲陽園日之出町こうようえんひのでちよう甲陽園山王町こうようえんさんのうちよう甲陽園東山町こうようえんひがしやまちよう甲陽園西山町こうようえんにしやまちよう五月さつきおか新甲陽町しんこうようちよう甲陽園目神山町こうようえんめがみやまちよういち谷町やちよう六軒町ろつけんちよう神原かんばら奥畑おくはた

広田ひろた村の南にある武庫むこ郡の村。南は西宮町に接し、村域中央部を御手洗みたらし川、東端を津門つと川が南流する。永禄九年(一五六六)六月、越水こしみず城を攻撃した足利義親(義栄)の武将篠原長房が「東の方は広田・中村・津門」などに陣取っており(細川両家記)、当村も戦乱の舞台となった。近世中期、それまで越水城から西宮に入っていた山陽道は、広田村で曲折し当村を経て西宮に向かうルートに変更され、集落はこの新山陽道沿いに形成された。慶長国絵図に村名がみえ、村高八六二石余。正保郷帳も同高。元和三年(一六一七)以前は幕府領。同年七月尼崎藩領となり、寛文四年(一六六四)より尼崎藩青山氏分家の幸通系の旗本青山氏、幸正系の旗本青山氏、幸高系の旗本青山氏の交錯領となる(兵庫史学)。寛文九年頃の尼崎藩青山氏領地調(加藤家文書)によると高八六二石余のうち丹後守(幸通)分二〇〇石、藤右衛門(幸正)分三八二石余、藤蔵(幸高)分二八〇石余。


中村
なかむら

[現在地名]南郷町中村甲なかむらこう中村乙なかむらおつ南町みなみまち東町ひがしまち西町にしまち

現南郷町の北東部に位置する。東・南は日向灘に面し、北西は津屋野つやの村、北は下方しもかた(現日南市)。村の北東部には古くから良港として知られた目井めい(目井浦)があり、また村の南部の栄松くだりまつ(下り松とも記し、「さがりまつ」とも読む。現在の呼称は「さかえまつ」)も当村および潟上かたがみ村・贄波にえなみ村にかけて湾入する外浦とのうらに面して、外浦湊の一画を担っていた。このため村内には商工業や漁業に従事する者も多く、「日向地誌」では全四八九戸のうち農間に商業に従事する者四九、工業に従事する者三七、漁業に従事する者一二二。西方谷之口たにのくち村を経て橋之口はしのくち村に至る道(榎原往還)や津屋野村境の南郷川に架かる土橋から関戸口せきどぐちを通って南の脇本わきもと村に至る道(外浦往還)などが通る。ほかに南郷川の土橋から八社大明神(現中村神社)みやこえ輿御前こしのおんまえ(輿宮、現輿乃御前神社)を経て目井津に至る道、関戸口から南下して栄松に至る道、関戸口の南、目井の仮屋から北東へ向かい、目井越を経て目井津へ至る道など各枝道も発達しており、陸運の便はよかった(日向地誌)。地内に中世の目井城跡・南郷城跡などがある。

貞和三年(一三四七)五月二七日の島津貞久軍勢催促状(重久文書)に「飫肥南郷目井浦」とみえ、同浦から四国・中国の南朝方海賊船三〇余艘が、大隅国肝属きもつき内之浦うちのうら王崎(現鹿児島県内之浦町)へ向かっている。天文一六年(一五四七)一一月一三日に日高源右衛門の心変りで目井城を失った島津方は、同月二二日目井での小競合いで肝付大炊が討捕らえられている(「北郷忠相等三代日帳写」都城島津家文書)


中村
なかむら

[現在地名]杵築市中

八坂やさか川下流域の西方にあり、本庄ほんじよう村と新庄しんじよう村の中間にある。中世は八坂川の両岸の広い範囲であったが、近世は八坂川の西岸のみ。嘉暦元年(一三二六)七月一日の八坂下庄領家下文(諸家文書纂所収野上文書)に「豊後国八坂下庄中村友貞名内専当園田畠事」とある。康永三年(一三四四)七月六日の八坂下庄中村内忠氏知行坪付注文案(秋吉文書)に「豊後国八坂下庄中村内薬丸・延道并守末半名」とあり、村内に薬丸やくまる名と延道のぶみち名それに守末もりすえ名が存在した。忠氏は伴忠氏すなわち秋吉新兵衛尉忠氏(忠義)のことで、この年これらの名を戸次氏に寄進し、その半分の権利を留保した。忠氏は秋吉あきよし名の名主で、秋吉・薬丸・延道・守末などに所領をもつ秋吉一族の惣領であったが、南北朝時代の動乱のなかで、名の権益を保持するために八坂下庄の経営に関係していた戸次氏に権利の一部を寄進せざるをえなくなったのであろう。このうち薬丸名は秋吉氏の庶子である薬丸氏が名主であり、康永の頃は忠氏の叔父の薬丸美濃守能房が名主であった。薬丸氏の流れは戦国時代まで続くが、天文六年(一五三七)薬丸若狭守親守が甥の秋吉新次郎伴忠続に薬丸名を渡し、薬丸名は完全に秋吉惣領家に吸収された(同年三月一五日「薬丸親守譲状」秋吉文書)。薬丸は薬師丸やくしまると同一の名という説もあるが、名の比定場所や所有関係もまったく異なっており、別の名田である。


中村
なかむら

[現在地名]雄勝町あきみや 中村

役内やくない川中流に沿う諸村からなり、南は役内村、北は寺沢てらさわ村に接する。

「柞山峯之嵐」に「草井崎の砦は中村の郷にあり、南西は大沢越に新庄領村山郡及位村との境、小野寺の臣菅内記、同勘四郎等之を守る」とあるが、「奥羽永慶軍記」によれば、文禄二年(一五九三)最上義光の家臣佐々木典膳の手によって落城したという。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に中村一千四一三石とある。享保一四年(一七二九)の雄勝郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に「正保両村高を纏役内中村、同絵図中村一村を記」とみえ、役内村を含む高であった。

宝永二年(一七〇五)の雄勝郡村々御黒印高牒(秋田県庁蔵)によれば、高は本田八二三石五斗二升九合、新田一九六石八斗五合で、合計一千二〇石三斗三升四合(当高一千八六石九斗九升四合)


中村
なかむら

[現在地名]姫路市元町もとまち西新町にししんまち片田町かただまち船橋町ふなはしちよう二―六丁目・東雲町しののめちよう一―六丁目・花影町はなかげちよう一―四丁目

飾東しきとう郡に所属。姫路城の南西、船場せんば川の西に位置する。「なかのむら」とも称された。中世はひめ山の南麓から西が中村であったとみられる。正応五年(一二九二)三月二五日の沙弥光智別当職等譲状(正明寺文書)に「播磨国(府カ)中姫道村」とみえる。姫道ひめじ村は姫山の里ともいわれ、江戸時代の中村およびその周辺一帯をさしていたと考えられている。文亀二年(一五〇二)二月彼岸日の母里秀友下地寄進状(同文書)では、称名しようみよう(正明寺)に寄進された下地のうちに「弐段 分米壱石弐斗内 中村六郎衛門」とみえる。天正四年(一五七六)の播磨府中めぐり(智恵袋)には姫山の東から二反(一二間の意か)南にある地は「宿分院の五反西より山の下り口列家百計、姫山の里といふ。又中の村云。岡といふ所迄間切ず」と記される。

後世の注が本文に入っているが、天正七年の播磨国衙巡行考証(智恵袋)をもとに中村全域を想定すると、惣社(射楯兵主神社)の西辺りから大名だいみよう町などの北側(現在の大手前公園から姫路聾学校辺りか)を西に進んで船場川を渡り、北西は西光寺(柿山伏付近か)、西は願道寺がんどうじ(西新町一帯)、南は福中村境(船場小学校南を含む辺りか)までの範囲であったようで、西光寺から東の総社までを下中村、西野にしの(材木町辺りか)の「南一町下に四五十のかまど有」と記される付近(景福寺の前、吉田町辺りか)を上中村とよんだらしい。


中村
なかむら

[現在地名]川内市中村町

平佐ひらさ天辰あまだつ村の北東にあり、北は川内川を隔てて斧淵おのぶち(現東郷町)。同川支流樋脇ひわき川が南から西方を北西流する。建長二年(一二五〇)一二月日の入来院内村々田地年貢等注文(入来院文書)に「中村しやうこもり」とある。同所に副田そえだ(現入来町)塔之原とうのはら(現樋脇町)・「ひさくゝち」をとくに加えた地の反別は四三町三〇中、うち荒田三町三反・皆損六反四〇・佃一反・寺田六反・神田三反・雑色免四反・沓細工の免三反で、残る田三七町三反四〇中のうち損二一町余・得田一六町四反。「しやうこもり」は現庄込しようごもりに比定される。正嘉二年(一二五八)九月には渋谷(入来院)重賢が請所としていた「中村庄籠」などの所当米四七石余に軽物四石六斗余を加えて早く納めるよう、薩摩国衙から入来いりき院留守所に命じられ(「薩摩国司庁宣」同文書)、永仁六年(一二九八)七月二〇日の異国要害石築地配分状案(同文書)では、中村は楠本くすもと三分一の一尺六寸を加え三丈八尺六分の築造を来月二〇日以前に終えるよう命じられている。嘉暦二年(一三二七)一〇月二八日には、新田宮執印職知行内の入来院中村内字曾越そごえ一町の地が代銭四〇貫文で永代を限り東郷尼御前に売渡されている(「沙弥教忍同道恵連署田地売券案」新田神社文書)


中村
なかむら

[現在地名]鹿児島市中山町ちゆうざんちよう魚見町うおみちよう自由じゆうおか一―二丁目・希望きぼう丘町おかちよう小原町おばらちよう

永田ながた川中流の小盆地および周辺山地からなる。東は宇宿うすき村、南は上福元かみふくもと村。至徳四年(一三八七)二月一八日の平忠信寄進状(旧記雑録)谷山たにやま郡のうち「中村」とみえ、谷山忠信は当地の水田一町を母祖友の菩提のため皇徳こうとく寺に寄進している。応永二四年(一四一七)一一月二日、守護島津久豊は当村などを伊作勝久に宛行い(「島津存忠宛行状」伊作氏系図)、同三二年三月二〇日、大寺元幸は中村のうち松木まつき薗一ヵ所および大翠のうち水田二反を父幸春の菩提料として、また同年六月二〇日には吉田兼清が父清正の菩提料として中村のうち森田もりた五段・権現堂前五段、三隅園みすみぞの一ヵ所をそれぞれ建忠けんちゆう寺に寄進した(「大寺元幸寄進状」旧記雑録など)。永享四年(一四三二)五月一三日の守秀坪付(同書)に「谿山中村之内三町はきあいの門」がみえ、同一一年二月一八日の島津持久袖判証状(薩州持久系図)によると、平田重宗によって「谷山中村之内水田一町」が鹿児島福昌寺に寄進されている。


中村
なかむら

[現在地名]南区むつみ町一―二丁目・平楽へいらく八幡はちまん町・中村町一―五丁目・山谷さんや唐沢からさわ東蒔田ひがしまいた町、中区石川いしかわ町一―五丁目・打越うちこし

東は横浜村・北方きたかた(現中区)、西は堀之内ほりのうち村・蒔田村。南は山を境に根岸ねぎし(現中区)と接し、北は中村なかむら(大岡川)を隔てて吉田よしだ新田村に対する。吉田新田埋立以前は北は内海で、対岸は太田おおた村と戸部とべ(現西区など)であった。寛文七年(一六六七)に完成した吉田新田の埋立に、村内大丸おおまる山から長さ一六〇間、高さ二五間の土砂を使用したという。新田完成後、南の海岸に水路を設けたのが中村川である。中村川は、蒔田村から北の吉田新田との境を流れ横浜村に達する。

中世以前は横浜村・堀之内村と一村で石川村と称したという(風土記稿)。石川村については康応元年(一三八九)八月三日付行有坊地充行状(県史三)に現れる。近世は幕府直轄領から元禄四年(一六九一)旗本佐野領との二給となる。


中村
なかむら

[現在地名]伊丹市中村・小阪田おさかでん

猪名いな川の左岸に位置し、西桑津にしくわづ村の北西にあたる。永仁二年(一二九四)一二月一四日の藤原景政等連署田地寄進状(多田神社文書)によると、景政は成道寺に寄進した「中村宮前字大南一反半」などの田地から得られる加地子米五斗を毎月一五日法華読誦・四八巻転読の僧膳供料として多田ただ(現川西市)に寄進している。永正一六年(一五一九)には細川家内訌により、越水こしみず(現西宮市)に籠る細川高国派の河原林(瓦林)政頼を包囲した細川澄元軍は中村にも陣取ったが、翌年一月澄元派の伊丹国扶は中村口を攻撃、敵の首五〇余りを討取っている(細川両家記)

文禄三年(一五九四)九月一七日石川久五郎によって検地が行われたが、検地帳は紛失した(享保六年「村明細帳」中村文書)。慶長国絵図に村名がみえ、高四四一石余。寛文七年(一六六七)巡見使が廻村した際に願出て、堤の外に田畑七反の開発を行った(前掲村明細帳、「中村絵図」同文書)。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では幕府領建部与十郎預地。寛永三年(一六二六)大坂城代阿部正次領、慶安元年(一六四八)幕府領に戻り、同二年大坂定番安部信盛(武蔵岡部藩)領。


中村
なかむら

[現在地名]玉名市中

南境を菊池川が西流し、西をさかい川が流れる。北は立願寺りゆうがんじ村、東は繁根木はねぎ村・亀甲かめのこう村、西は中尾なかお村、野口のぐち(現玉名郡岱明町)に接する。南を東西に三池みいけ往還が通る。建武二年(一三三五)四月三日の菊池武吉寄進状写(阿蘇家文書)に「大野別符内中村」の田地一二町がみえ、阿蘇御嶽大明神御宝殿の三十講料所として寄進された。同日付の坪付写(同文書)によればこの一二町は中村のうちの下池尻・橋爪・下金田・兵庫町・倉光・福増・樋渡・奈木町・佐奈伊岸下・上河原田・新開・木船前などにあった。貞和五年(一三四九)二月八日の壱岐守輔重寄進状(清源寺文書)に「玉名郡大野庄内中村高瀬清源寺敷地事」、応永一七年(一四一〇)一一月八日の高瀬武楯寄進状案(寿福寺文書)には、「大野別符中村内繁根木山寿福寺稲荷大明神」ともみえることから、中世の中村は高瀬たかせや繁根木を含む広い範囲をさしたらしい。

応安八年(一三七五)三月一六日の近江守平某寄進状(清源寺文書)によれば、高瀬清源たかせせいげん寺に修造免として中村内の「おちそい」「まつもと」「小別当まち」などの田地計一町が寄進されている。


中村
なかむら

[現在地名]北島町中村

きた村・太郎八須たろうはちず村の南に位置し、東は吉野川(現今切川)を挟み中島なかしま浦・加賀須野かがすの(現徳島市)なべ川を挟み広島ひろしま(現松茂町)。東方に枝村の老門ろうもん村・出来須できず村がある。文禄三年(一五九四)四月二六日の諸役免許申付書(御大典記念民政資料)に「坂東郡之内らうもん荒地」とみえ、蜂須賀家政は同地近辺の新田開発を奨励し、諸役を一五年間免除している。慶長二年(一五九七)の分限帳によれば、五七八石余が吉浦弥太郎の知行分。元和四年(一六一八)の老門村新開検地帳(三木博夫家文書)では新開分の田二町八反余・畠二畝余。寛永二一年(一六四四)の中村新開検地帳(北島町史)では田六反余・分米三石余、畠一町余・分米九石余。正保国絵図では高六〇二石余で、中村のうちとして老門村の記載がある。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方三八一石余・畠方二二〇石余、日損と注記され、枝村として老門村を記す。


中村
なかむら

[現在地名]豊田町大字中村

豊田平野の中央に位置する村で、東北部は殿敷とのしき村、東部は稲光いなみつ村に接し、北・西・南を木屋こや川が囲み、川を境に北は矢田やた、西は阿座上あざかみ、南は手洗たらいの各村に接する。長府藩領で豊浦郡豊田筋に属した。

西市町にしいちまち紅粉屋家の正保四年(一六四七)の文書に中村とみえる。豊浦藩明細書に総石高一千四一六石余、うち田方が六八町余で一千三四一石余、畠方は五町余で七八石余、家数四五、人口一七三人とある。村内東部山本やまもと川の西に沿って、条里遺構が南北に四区画、東西に三区画歴然と現存。そのほか水路・農道・畦にその跡が散在し、山本筋やまもとすじ正町筋しようまちすじ横縄手よこなわてと直通路の地名と、イナガつぼなかつぼ坪田つぼたやなぎつぼなどの条里区画地名が残る。


中村
なかむら

[現在地名]名張市中村

夏見なつみ村の西に位置し、集落はおもに丘陵部に立地、その一帯および東南部山地に古墳が多い。田地はおもに平坦部に開け、釜石かまいし川が村の西南方を流れる。天永元年(一一一〇)一二月一三日伊賀国名張郡々司等勘注案(東大寺文書)所載の貞観六年(八六四)正月一九日の存疑藤原倫滋申文に「中村」がみえる。「和名抄」の名張郡三郷の一である名張郷は、後世の簗瀬やなせの前身としての名張ではなく、いわゆる「古名張」で現在の中村を中心とした一帯である。中村の四至は、天喜四年(一〇五六)二月二三日の散位藤原実遠所領譲状案(東南院文書)に「東限山 南限矢川 西限宇陀川 北限供御川」とあり、長承元(二か)(一一三二)正月一三日の藤原中子荘園相博状案(三国地志)では北限を「(公カ)田縄手」としている。現在地に比定すれば、青蓮寺しようれんじ山・赤目あかめ川・宇陀うだ川・青蓮寺川(夏見から瀬古口に流れる部分)に囲まれた地域に相当し、丈六じようろく長屋ながやだん星川ほしかわ・中村・瀬古口せこぐち・青蓮寺の大部分が含まれる。


中村
なかむら

[現在地名]大山田村中村

河北かわぎた村の西に位置する。服部はつとり川が当村の東南より西北に流れ、また永田ながた川は当村東方山間の渓流を集め、西流して服部川に入る。集落は東部山麓に沿って形成されている。伊賀街道は服部川に沿って西南部を通る。当村は鳳凰寺ぼおうじ村と並んで古墳群の多い村で、中央部丘陵地のかきひろに一―二号墳、その南の石谷いしだにに一―二〇号墳、その西の南浦みなみうらに一―四号墳、南浦の南の日本田にほんだに一―四号墳、その西の角部かくべに角部古墳、南浦の西北の平坦部に辻堂つじどう古墳がある。ほとんどが円墳で、横穴式石室の確認できるもの十数基がある。当村は「和名抄」の「竹原郷」に属したが、江戸時代は中村郷(宗国史)一〇ヵ村の東端にあたり、通常「山田中村」と称した。隣村鳳凰寺村の東部、いわゆる東山ひがしやま地域に当村の飛地があり、その耕作のため、しばしば鳳凰寺村ならびに平田ひらた村・富岡とみおか村と山論を引起した。


中村
なかむら

[現在地名]河南町中

下河内しもかわち村・馬谷まだに村の西にあり、北東部は白木しらき村・下河内村との錯綜地。うめ川支流天満てんま川の上流域を含む台地上に位置する。古代仲村なかむら庄の地で、北東部の字大野おおのは、元慶七年(八八三)九月一五日の観心寺勘録縁起資財帳(観心寺文書)に載る仲村庄の田地の所在地「七条大野里」にあたると考えられ、大野千軒の古伝もある。観応三年(一三五二)九月二〇日の田北泰直譲状案(大友家文書録)に「相伝所領てんはく所職等事 在 かはちの国東条中村西方 地頭□」とみえ、天正四年(一五七六)三月二三日の下水分社算用状(喜志宮文書)にも「中村」が載る。当村北西部には字百田ももたがあり、「河内志」の「中属邑一」をさすかといわれる(大阪府全志)

正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高一千二〇九石余、幕府領、小物成として山年貢米二石余。


中村
なかむら

[現在地名]北野町中

現北野町域の西部中央、筑後川支流の旧陣屋じんや川下流右岸に位置し、西は今山いまやま村に接する。村内に北野天満宮がある。厨子田ずしだ遺跡で中世の水田遺構、茶屋屋敷ちやややしき遺跡で江戸時代の集落遺構が発掘された。中世は北野庄のうち。応永二四年(一四一七)閏五月一八日の北野天満宮領目録(歴世古文書)にみえる「大嶋薬師院 修正 修理免田畠三反十丈」は当地に比定される。天文七年(一五三八)大友義鑑が鰺坂あじさか庄のうち「中村」の一五町を豊後宇佐郡の恵良盛綱に宛行っているが(同年八月一六日「大友氏奉行人連署奉書」恵良文書/大分県史料八)、この中村は当地の可能性がある。同一二年同所は盛綱から子息信勝に譲渡された(同年四月一六日「恵良盛綱譲状」同上)。天正一三年(一五八五)頃、大友家宿老戸次道雪らが長増山城(現久留米市)勤番の城料として中村一五町など六ヵ所を高良こうら(現久留米市)大宮司宗崎氏に宛行っている(正月二五日「大友家老臣連署知行宛行状」筑後将士軍談所収宗崎文書/久留米市史7 資料編古代・中世)


中村
なかむら

[現在地名]瀬峰町大里おおさと

とみ村の南方一帯、小山田おやまだ川右岸に立地する。南は遠田とおだ大嶺おおみね(現田尻町)、西は高清水たかしみず(現高清水町)と接する。「続日本紀」神護景雲三年(七六九)三月一三日条によれば、「新田郡人外大初位上吉弥侯部豊庭」が「上毛野中村公」の姓を賜っており、新田にいた郡が現瀬峰町一帯を含む地域に比定されるところから当地をこれに関連づける説がある。また「和名抄」の新田郡と栗原郡の部にみえる仲村なかむら郷の遺称地とする説もある。

寛永一八年(一六四一)の検地帳(瀬峰町教育委員会蔵)によれば、反別一三四町一反余・一一八貫五七四文で、竿答人五九、うち肝入一・寺一、ほか蟻坂丹波家中九など一一。正保郷帳に田九二貫八四七文・畑八貫七二四文とあり、水損・旱損と注され、ほかに新田二四貫五六文。


中村
なかむら

[現在地名]新居浜市上原うわばら一―四丁目・御蔵おくら町・土橋つちはし一―二丁目・中村一―四丁目・中村松木なかむらまつぎ一―二丁目・本郷ほんごう一―三丁目・政枝まさえだ町二―三丁目・横水よこずい町・中萩なかはぎ

石鎚いしづち山脈の一支峰つじみね(九五七・九メートル)の北麓、石鎚断層崖下の扇状地上に位置し、南は一〇〇メートルを超える高燥の台地をなし、北方に向かって緩傾斜し、ひがし川を隔てて金子山かねこやま丘陵に達する。東は尻無しりなし川、西は東川をもって萩生はぎゆう村に接する。東西に短く南北に細長い村。江戸期を通じて西条藩領。

村の中央部の台地に、横山よこやま古墳群がある。村名は新居郡の中央に位置することに由来するか。


中村
なかむら

[現在地名]大郷町中村

大谷おおや郷の中央、吉田川南岸に位置する。南部は丘陵、北に台地が張出し、その先は吉田川の氾濫原。西境を山崎やまさき川が北流し、東部を川内かわうち村から出る沢川が北流する。北・東は糟川かすかわ村、南は川内村・成田なりた村、西は鶉崎うずらさき村。北向きの台地上に集落が街状に集中し、道は高城たかぎ(現宮城郡松島町)から吉岡よしおか(現大和町)に通ずる脇街道と、大松沢おおまつざわ村から成田村、利府りふ(現宮城郡利府町)に抜ける仙台城下道が中央で交差する。先史時代は品井しない沼の入江がこの舌状台地の裾まで入込み、中世頃は大部分野谷地であったと推定される。東部の沢川西岸の屋鋪前やほまえの台地突端一帯に縄文中期の土器を出土する遺跡がある。


中村
なかむら

[現在地名]保原町 磐前通いわまえどおり内町うちまち上野崎かみのざき五丁目ごちようめ三丁目さんちようめ下野崎しものざき・中村町・野崎のざき東野崎ひがしのざき実町みのりちよう弥生町やよいまち四丁目よんちようめ

下保原村の南の平坦地に位置し、同村から家並が続く。村名は下保原村と南の市柳いちやなぎ村の中間にあたることによるといわれ(信達二郡村誌)、両村とともに保原町を構成していた。寛文一一年(一六七一)下保原村から分村して成立したという(同書)。米沢藩領時代の古高六四三石余、幕府検地による新高五九九石余(古高新高帳)。領主の変遷は下保原村と同じ。文政六年(一八二三)の村明細帳(保原町史)によれば、本新田畑計六一三石余のうち田方が約三分の二を占める。小物成は糸釜役永六三〇文余・綿役永三三二文・漆役永四〇文・酒役永一九文・紅花役永一〇文余・柿木役永六文。


中村
なかむら

[現在地名]葛生町中

秋山あきやま川中流域左岸の段丘上にあり、西は上多田かみただ村、東は都賀つが小野寺おのでら(現下都賀郡岩舟町)、南は下多田村(現田沼町)、北は都賀郡葛生町。中世は佐野庄に含まれた。文永九年(一二七二)二月八日の佐野増綱譲状(小曾戸文書)に「なかむらのうちにみなミにそうねんハうかやしき」とみえ、当地の屋敷が「くわんのうこセん」に与えられている。正和五年(一三一六)二月二一日の性智鳥居戸五郎次郎売券(同文書)によれば、鳥居戸五郎次郎は中村郷内の五反の地を五年の年季で佐野増綱に売渡している。しかし性智がこれを押領したため増綱は幕府に訴え出た。元応元年(一三一九)五月二三日の鎌倉幕府問注所裁許状(武沢文書)によれば、この増綱の訴えに対して幕府は三村親氏に調べさせたところ、増綱の訴えのとおりとして、性智に対し過料を支払うよう命じている。


中村
なかむら

[現在地名]中央町中

東は石原いしはら村・椿つばき村、西は松野原まつのはら村・木早河内きそがわち村、南は払川はらいかわ村・野中のなか村、北は長尾野ながおの村に山林で境する山間の村。釈迦院しやかいん川が村中央を貫流する。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると高一五七石八斗余、うち田方八六石八斗余・畠方七一石余。中山手永に属し、「国誌」に「中園村針俣村荒谷村等ノ小村アリ」とみえる。釈迦院川に沿った中地区と津留つる川沿いの中園なかぞの地区とに分れる。前者には前田まえたを中心に後谷うしろたに鳥越とりごえ南鳥越みなみとりごえ滝合たきあい山田やまだ上原うえはる立岩たていわ丸山まるやま釘又くぎまたむかい城平じようびら下笹谷しもささのたに・上笹谷・切通きりどおし木留きとめ林平はやしびら山神やまのかみという小字がある。


中村
なかむら

[現在地名]能美町中町なかまち

高田たかた村の南に位置する。北は江田島えたじま湾に面し、東は真道しんどう(新蔵山・新造山)の尾根が南北に延び、西には宇根うね山がある。その中央に南北に開けた小平地と沿岸部の新開地に集落が展開する。「予章記」の貞治二年(一三六三)四月二二日の記事にみえる「中村十郎左衛門尉久枝」は、能美氏の一族が地名を姓としたものであろう。山野井氏の先祖能美縫殿允仲次への、大永五年(一五二五)六月一三日付の大内義興の下文(山野井文書)は「可令早領知安芸国能美島中村内拾六石地能美左近将監先知行事」と記し、この頃当地は大内氏の領地であった。天文一五年(一五四六)四月二八日付の毛利元就隆元連署下文(「閥閲録」所収児玉三郎右衛門家文書)によれば「中村分入江之内、末宗半名」が毛利氏より家臣児玉就忠に給されている。


中村
なかむら

大野庄四ヵ村の一つで現大野町南部・西部の平井ひらい川およびその支流酒井寺さかいじ川流域に比定される。延応二年(一二四〇)四月六日の尼深妙惣配分状(志賀文書)に中村とみえる。同日大友能直後家尼深妙が子息らに所領の配分を行った際、大野庄内中村地頭職は女子犬御前に、中村内保多田ほただ名は帯刀左衛門尉(時直)後家に譲与された。なお建久二年(一一九一)三月一一日の深山八幡社神領坪付境注文案(上津八幡社文書)に「中村 田口名 二月神事免」とあるが、同注文案は年号には検討の余地があるとされる。豊後国弘安図田帳によれば、中村は七六町、地頭職は戸次三郎重頼とある。鎌倉時代後期には、領家三聖さんしよう(現京都市東山区)と地頭との間で下地中分が行われたらしい(年欠「三聖寺領文書惣目録」天理図書館蔵三聖寺文書)



なかこしきむら

[現在地名]上甑村中甑

上甑島中央部に位置し、東は中野なかの村、西は中甑湾に面し、南は江石えいし村、北は小島おしま村。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では上甑島のうち。元禄国絵図に上甑村のうちとして村名がみえる。「三州御治世要覧」によれば延享(一七四四―四八)頃の高二五二石余。宝暦八年(一七五八)の検地名寄帳(原口虎雄筆写本)によれば田一三町九反余・畠一町四反余・屋敷二町余、惣合籾大豆五三九俵一斗余、うち籾五二三俵二斗余・大豆一五俵二斗余、高一九六石余、男一六七・女一四〇、馬一七、船五艘(うち八石積船一、四石積船・三石積船各二)、地引網一張、門数六、ほかに浮免二。旧高旧領取調帳では高二五二石余。


中村
なかむら

[現在地名]飯豊町中

現飯豊町の北東端に位置し、北は九野本くのもと(現長井市)、南西は萩生はぎゆう村。地内に伊達家臣中村日向守の居館であったと伝えるあら館跡がある。「伊達正統世次考」永正六年(一五〇九)五月一一日条に「下長井中村郷」とみえ、郷内の地が陸奥国伊達郡泉沢いずみさわ(現福島県伊達郡保原町)の替地として湯村信濃に与えられた。天文七年(一五三八)の段銭古帳には「中むら」とあり、段銭二三貫七五〇文。同二二年の晴宗公采地下賜録によると、中村(郷)のうち、「長ゑひけん」には「寿阿ミふん、きり田千かり」が与えられたほか、布施備後守に「万年斎知行之とをり不残、留塚あふミのふん三けん、めの村図書助分一間、うちや大郎ゑもんふん、山さき在家、新やま在家」、我妻備中には「まこ九郎やしき」、守屋監物には山神社を添えて「いちのつほ在家」、大石長門に「かはやしき」がそれぞれ与えられ、備後守は棟役・田銭・諸公事を免除された。


中村
なかむら

[現在地名]御嵩町中

中央を可児川が西流し南と北は丘陵地。東は御嵩村、北は丘陵を境に錦津にしきつ(現加茂郡八百津町)、西は顔戸ごうど村。可児川沿いに中山道が走る。嘉禎三年(一二三七)六月二二日に書写が終わった願興がんこう寺蔵大般若波羅蜜多経の奥書に「供養檀那中村上地頭源康能」とみえる。慶長郷帳では中見竹なかみたけ村とみえ高一千六二四石余、仙石左門領。慶長一四年(一六〇九)には大久保長安によって検地が行われた(尾張地方古義)。中御嶽村と記されることもある(慶長一五年「鈴木左馬助等連署状」愚渓寺文書)。元和元年(一六一五)尾張藩領となる。正保郷帳では田一千三三〇石余・畑二九六石余・山年貢一二石・無地高八斗余。


中村
なかむら

[現在地名]浅羽町中

長溝ながみぞ村の南に位置する上輪かみわ一九ヵ村の一村。「親元日記」によると、寛正六年(一四六五)に幕府は今川範将の遺領を御料所としたが、遠江では四ヵ所のうちに「中村」が含まれていた(同年八月二日条)。正保郷帳によれば横須賀藩領。田方一四四石余・畑方八七石余、福性寺領二石。元禄郷帳では高四五六石余。国立史料館本元禄郷帳によれば旗本皆川領と浜松藩領。「遠淡海地志」では三三九石余が皆川領、一一五石余が同藩領、ほかに用知ようち(現用智院)領二石。家数五〇余。皆川領の変遷は米丸よねまる村に同じ。浜松藩領一一五石余は中村ながれ新田(中村新田)とよばれる飛地で、太田おおた川の西、和口わぐち(現磐田市)の北側にある。


中村
なかむら

[現在地名]旭区中宮なかみや一―四丁目・生江いくえ一―二丁目・高殿たかどの二―五丁目、都島みやこじま内代うちんだい町三―四丁目

荒生なぎう村の東に接する南北に細長い村で、北は淀川。平安時代以降榎並えなみ庄を形成したと考えられる。また承安五年(一一七五)藤井中納言が伊勢神宮に寄進したという「摂津国、中村御厨、卅七丁」(神鳳鈔)を当村にあてる説もある(東成郡誌)。中村御厨については「経俊卿記」文応元年(一二六〇)八月条に、大炊寮と中村御厨との間で大炊寮領中村御稲田をめぐって相論のあったことがみえ、中村御稲については「師守記」貞治元年(一三六二)にもみえる。鎌倉末期、伊勢外宮権禰宜度会行文は、中村御厨の口入料三貫六〇〇文を子の行古に譲渡しているが(年月日欠「度会行文処分状」櫟木文書)、同御厨の詳細については場所なども含めて明らかではない。


中村
なかむら

[現在地名]土居町中村

現土居町の平野部の中央に位置し、東を津根つね村、西を土居村、南を小林こばやし村、北を藤原ふじわら村に囲まれた往還沿いの集落。古子ふるこ川が村の東部を南北に流れる。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇摩郡の項に「中村」と村名がみえる。

「和名抄」にみえる宇摩郡津根郷に属したとされ官道の近井ちかい駅を当地とする説がある。江戸時代には津根八日市一柳氏領などを経て、宝永元年(一七〇四)幕府領となって幕末に至る。


中村
なかむら

[現在地名]五個荘町中

簗瀬やなぜ村の南東にあり、北流する愛知えち川沿いの小村。村名は小幡おばた三郷の中心によるとも、佐々木氏の家臣中村掃部にちなむともいわれる。応永三二年(一四二五)からの小幡商人と保内商人との争論の最中の同三三年一二月一一日、中村とのうの下二郷の商人計一二名は、争論を起こしている小幡庄田しようでんの商人と行動をともにしないことを誓約した。この時の下二郷の商人は米・塩・呉服・魚を商っている者たちであった(「法仁等連署請状案」「下二郷小幡商人連署請状案」ともに今堀日吉神社文書)。慶長三年(一五九八)七月の御蔵入目録(浅野家文書)に「おはた内 中村」とみえ、高五五石余。


中村
なかむら

[現在地名]焼津市中港なかみなと一―六丁目・駅北えききた一丁目・同三―五丁目

焼津村の北、瀬戸せと川の河口右岸に位置し、東は駿河湾に面する。益津ましづ郡に属する。寛永一〇年(一六三三)旗本大久保領となり幕末に至る(「寛政重修諸家譜」・国立史料館本元禄郷帳・旧高旧領取調帳など)。元禄郷帳では高三八五石余。当村の藤兵衛は天正年間(一五七三―九二)徳川家康と武田勝頼との合戦の際、瀬戸川・安倍あべ川の郷導として家康が瀬戸川を渡るのを助けた功により川守の姓を与えられたという(駿河記)。寛文一〇年(一六七〇)大久保領西七ヵ村(中村・小浜村・花沢村・馬場村・中里村・坂本村・方野上村)関方せきがた村は東海道丸子まりこ宿(現静岡市)の助郷を命じられたが、負担が過重になるとして従来どおり岡部おかべ宿(現岡部町)助郷を道中奉行に願出ている(「訴状」山田家文書)


中村
なかむら

[現在地名]小野市中町・二葉町ふたばちよう

小野町の東に位置し、加古川左岸の標高約五〇メートルの河岸段丘面南端に立地する。東はおく村。南の段丘下には万勝寺まんしようじ川が加古川に向かって流れる。これと並行して東方の谷間集落からの街道が村中を通過して小野町に入る。地名の由来は、万勝寺川の河口付近からみて上流を中村・奥村とよんだことによるという(加東郡誌)。室町時代には奈良東大寺領大部おおべ庄の内。永享七年(一四三五)一一月日の大部庄領家方名寄帳(東大寺文書)に「ナカムラ三郎大夫」が惣相田二町三段四五で、「シツサウ坊」惣相田七段二五内の一段二〇を耕作することがみえる。文安四年(一四四七)一〇月日の大部庄領家方内検帳(同文書)には「中村左衛門太郎」が二六筆で合計二町六反五五代を有し、うち一反二〇は実相坊分とある。


中村
なかむら

[現在地名]敦賀市中・

舞崎まいざき村・余座よざ村の南東に位置し、木ノ芽道が通る。南出みなみで中出なかで奥出おくでの小村がある。康暦二年(一三八〇)六月三日付尼道善田地売券(西福寺文書)に「中村」とみえる。「敦賀志」に当村は元亀以前は気比けひ宮社家平松美作守の弟、中村兵庫の堡地であり、兵庫は元亀元年(一五七〇)に織田信長の朝倉攻略に遭い、天筒てづつ山で戦死したと記される。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では井川いがわ村に属したか。正保郷帳で中村とみえ田方四一一石余・畠方三二石。


中村
なかむら

[現在地名]福知山市字中

由良川の右岸、おにじようの西南麓にある。村の東方は古期洪積層の隆起扇状地で、その北部は開析されて広い水田となっている。集落の西方を由良川が北流するが、川に近い所は微高ながら自然堤防地で水利が悪く、桑園となっており、水田はむしろ山側に多い。

上中かみなかで弥生式土器が発掘され、川谷川の谷を上った所には数基の古墳がある。下中しもなかには式内社庵我あんが神社が鎮座、古くから開けた地と思われる。古代には「和名抄」に記す奄我あんが郷、中世には奄我庄の地。

江戸時代の中村については「丹波志」に「中村 高九百石 古大河村ト云、此地水源鬼ケ城ヨリ下ル、凡ソ拾七八丁ノ谷、字石原谷ト云、中村ノ内曲岩ト云所ニテ大河ニ合ス」とある。


中村
なかむら

[現在地名]佐治村中

佐治川上流部にあり、東は尾際おわい村。北に伯耆国河村かわむら中津なかつ(現三朝町)への山越しの道があり、三徳みとく(現同上)へも近道であった(因幡志)。拝領高一六石余、本免四ツ一分。寛政一一年(一七九九)の智頭郡下構村々高物成等覚(竹本家文書)では朱高一八石余に対して今高三四石余、物成八石余、山役二斗八升余・川役一石余・漆役一石三斗余が課されていた。「因幡志」による家数一五。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高三〇石余、竈数一二。寛永九年(一六三二)の細尾村年貢免状(竹本家文書)によると、山役として葺板計二万枚を納入する八ヵ村の一つに数えられている。


中村
なかむら

[現在地名]和歌山市中

名草なくさ郡に属し、梅原うめはら村の東に位置する。東は栄谷さかえだに村。貴志中きしなかと通称する。村中を淡島街道(旧南海道)が東西に通じ、北へは葛城(和泉)山脈の孝子きようし峠を越えて和泉国に至る街道(現国道二六号)が延びる。この街道を笠路かさじ(笠道)ともいう。集落は孝子峠に至る三笠みかさ谷の谷間にあった。この三笠谷から笠路の名が生じたとされる。三笠谷から発して村域西部を流れる宮谷みやだに(現大年川)と、平井ひらい村の山中から村域南部を西流するふる川はともに土入どうにゆう川に合流するが、貴志・楠見くすみ諸村の用水路の役割を果した。


中村
なかむら

[現在地名]鹿児島市荒田あらた二丁目・鴨池かもいけ一―二丁目・紫原むらさきばる一―二丁目・同六丁目・下荒田しもあらた三―四丁目・郡元こおりもと一丁目・上荒田町うえあらたちよう唐湊とそ一―四丁目・郡元町こおりもとちようなど

荒田村の南に位置し、東は海、西に武岡たけおか丘陵が迫る。甲突こうつき川と田上たがみ川に挟まれた低平地。文和三年(一三五四)五月二五日の一色範氏宛行状(島津家文書)に鹿児島郡内「中村」とみえ、九州探題一色範氏から鹿児島郡郡司職とともに当村の鹿児島郡司矢上氏の庶子家の所領が島津貞久に与えられている。貞治二年(一三六三)四月一〇日、貞久は当村などの郡司職を娘禰々に譲り、その死後は子息氏久の知行とすると定めている(「島津道鑑譲状案」同文書)


中村
なかむら

[現在地名]韮山町中

現韮山町域の南部、内中うちなか村を囲むように位置する。「増訂豆州志稿」では、狩野かの川の支流「江川」がこの村の北西を流れ、その内側の意味より「江中村」もしくは中村と称したという。古くは後の枝郷坂本さかもと皆沢みなざわ山田やまだ鳴滝なるたきだいなどと合せての称と考えられる。暦応二年(一三三九)四月五日の足利直義寄進状(案、北条寺文書)には円成えんじよう寺に寄進された北条ほうじよう五箇郷の一つとして「南中村」がみえ、原木ばらき山木やまき中条ちゆうじよう肥田ひた(現函南町)と並記されることから、当地のうちと考えられる。


中村
なかむら

[現在地名]久居市中村町

雲出くもず川支流の榊原さかきばら川下流の右岸にあって、布引ぬのびき山地から東へ延びる一〇〇メートル級の尾根との間のわずかな平地に位置し、東はもり村に接する。本里ほんざとといわれる中心集落から東方に枝村上津前こうづまえがある。文禄検地帳(久居市中央公民館保管)表紙に「七栗郷之内中村」と記し、七栗ななくり郷に属していたことを明らかにする。またこの検地帳の総高は七一九・二八一石であるが、これは大鳥おおどり村一八一・六六四石を含む旨が記載されており、この当時大鳥村はまだ中村から完全に独立していなかったことが知られる。


中村
なかむら

[現在地名]真岡市中・松山町まつやまちよう

鬼怒川左岸の沖積氾濫原とその東の段丘上にある。東は寺内てらうち村、南は若旅わかたび村。「吾妻鏡」文治四年(一一八八)三月一七日条などにみえる摂関家領中村庄の中核をなしたと考えられる(→中村庄。享徳元年(一四五二)一〇月四日には熊野大先達宗俊から、鎌倉鶴岡八幡宮における関破却の衆会に参集するよう中村などへの連絡が命じられている(「法印宗俊廻状」小野寺文書)。また当村内の字中里なかざとは文安六年(一四四九)六月一三日の年記をもつ大般若経奥書(熊野神社蔵)に「中村庄下中里」とみえる。天正一三年(一五八五)一一月二二日の夜明け、中里で鬼怒川を渡る上三川かみのかわ城主成田左馬佐の軍勢と、久下田くげた(現芳賀郡二宮町)から追撃してきた水谷蟠龍の軍との間で合戦が行われた(那須記)


中村
なかむら

[現在地名]飯田市中村

現飯田市の西方、東に傾斜した伊賀良いがら扇状地上に位置する。古代は「和名抄」所載の輔衆ふす郷に属したものと推定され、やがて伊賀良庄の内となった。近世初期には飯田藩に属したが、寛文一二年(一六七二)より、村の東は一時幕府領の時期を経て、天和元年(一六八一)より高須たかす藩領となった。村高の三分の二強がこれに属したので大中おおなか村とよばれた。西は引き続き飯田藩領で、小中こなか村とよばれて区別された。村高は正保四年(一六四七)が九六一石余(信濃国絵図高辻)、元禄一五年(一七〇二)は一千七四石余(信濃国郷帳)


中村
なかむら

[現在地名]茅野市湖東こひがし 中村

北はかみ川を境に塩沢しおざわ村と接し、東はせりさわ村に境する。西部に昭和五〇年(一九七五)以降中大塩なかおおじお団地が造成されている。

村名の初見は嘉禎三年(一二三七)の奥書をもつ「祝詞段」に「中村ニ大法師小法師氏神明神」とある。また、永禄九年(一五六六)八月の武田信君等奉書案(金子文書)に「御射山祭之時大祝殿宿之事、任旧規六ケ所之郷人可造営之由、被仰出者也、仍如件」と、武田信玄が諏訪社上社御射山祭の大祝宿所の造営を命じている六郷の中に「中村之郷」の名がある。

このように中村は中世以来の古い郷村で、天正一三年(一五八五)の山役覚(福沢区有)には埴原田はいばらだ福沢ふくざわ・中村の三ヵ村より上納する入会山「渋之沢左右之原山」の山役を記し、「中村 矢崎与五右衛門長田治部左衛門 一斗三升二勺一才」と村名の下に知行者氏名、その下に山役すなわち山年貢の額が記されている。


中村
なかむら

[現在地名]喜多方市松山町鳥見山まつやままちとりみやま

高畠たかばたけ村の東、押切おしきり川の左岸に位置する。五目組に属し、北東は天井沢あまいざわ村。本村の北に堰根せきね(関根)、南方には下中村・百目どうめの各端村がある。天文一二年(一五四三)新宮しんぐう熊野社(現熊野神社)の大祭で行われた田楽相撲の記録を同一四年一月吉日に書写した相撲田楽日記(新宮雑葉記)の番付第八番に中村とみえ、当村も同田楽相撲へ参加していた。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高七二六石余。享保一六年(一七三一)の五目組村々書上(福島県史)によると高八九五石余、反別は田方六四町二反余・畑方二四町九反余、家数・人数は本村が三七軒・一四〇人、関根が一六軒・八七人、下中村が一九軒・一〇一人、百目が一六軒・八四人、馬四五・御小荷駄二を飼育し、漆木役六七八本、山役金一両二分・同銀一三匁二分、紙役銀二五匁七分五厘などが課せられていた。


中村
なかむら

[現在地名]相馬市中村

南を北東流する宇多うだ川、北を東流する小泉こいずみ川に挟まれ、中央部から南西部に相馬藩の中村城下が形成されている。中村城のある辺りは丘陵で、城下はほぼ平坦地にある。東は百槻どうづき村・南飯淵みなみいいぶち村・北飯淵村、南は中野なかの村、西は西山にしやま村・小野おの村、北は小泉村・黒木くろき村。浜街道が中野村から宇多川に架かる宇多川大橋を渡って城下に入り、小泉川を越えて小泉村に至る。中野村と西山村との境を流れてきた宇多川は中野村、さらに百槻村との境をなしながら、南飯淵村と北飯淵村の境に向かう。小泉川はその支流を合せて小野村および黒木村、小泉村との境をなしたのち、同村の村央に流れ込んでいるが、かつての河道は現在よりも南にあり、安政三年(一八五六)に流路の付替えが行われている(奥相志)


中村
なかむら

[現在地名]綾部市小畑おばた

さい川の支流小畑川の上流域で、東北は新庄しんしよ村、南は小西こにし村、西は金谷かなや峠を経て丹後国加佐郡南山みなみやま(現大江町)に至る。「丹波負笈録」は中村の小字として田畑たばた奥村おくむら金屋かなや松原まつばらをあげている。現在、田畑は小畑町内の中村に、奥村と金屋(金谷)本城奥ほんじよおくに、松原は日向ひなたに含まれる。小畑四箇の一。綾部藩領。

中世は小幡おばた庄に属したものと思われる。

「巡察記」は村の様子を次のように述べる。

<資料は省略されています>

松原の高源こうげん寺裏山に城跡があり、「丹波志」は波々伯部弾正古城と伝える。室町後期に小畑中村城主波々伯部源内左衛門義信なる土豪がいたことが近世の「横山硯」にみえ、また塩見家文書(「丹波志」所引)には波々伯部三郎左衛門尉や波々伯部兵庫助などの名があり、村内に波々伯部氏が勢力を振るっていたことが考えられる。


中村
なかむら

[現在地名]大社町杵築北きづききた

越峠こえど村の西に位置し、杵築六ヵ村の一つ。西に日本海が広がる。江戸時代は杵築大社(出雲大社)領で国造北島家の支配下に属し、北支配といわれた(杵築旧懐談)。半農半漁の村で、門前町杵築の一角を形成している。中世は杵築のうちに含まれていた。鎌倉中期頃の作成と推定される杵築大社并神郷図(千家家蔵)によると、養命ようめい寺前の参詣道沿いに民家が密集した状況が描かれ、当時の杵築市庭と推測されている。康永二年(一三四三)六月八日の国造出雲清孝知行宛行目録(千家家文書)に中村とみえる。天文二年(一五三三)頃の作成とみられる中村新町周辺絵図(佐草家蔵)からは、市街地化の進行がうかがえる。


中村
なかむら

[現在地名]西郷町中村

現西郷町の北端部に位置し、北東部は海に臨む。中村川が北流、入江に注ぐ。慶長一二年(一六〇七)一二月の中村検地帳(横地家文書)では田一一町余・一二二石余、畑一四町六反余・二二石余、屋敷一町三反余、家数四一のうち役百姓三六、ほかは寺・神主・大夫・公文・役人各一。正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田一三七石余・一二町八反余、畑二七石余・二〇町三反余、ほかに新田畑二六石余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)三六匁・漁請役一〇匁七分・柄油一斗五升役三匁・和布一〇束役二匁・海苔一斗二升役二匁四分・核苧一貫一九〇目役三匁一分・牛皮二枚役丁銀五匁、漆一升五合役は米一石三斗余で代納している。


中村
なかむら

[現在地名]北区山田町中やまだちようなか

東下ひがししも村の東に接し、西流する志染しじみ川両岸の河岸段丘を中心に、南・北の山地にわたる細長い村域をなす。有馬ありまと播磨三木を結ぶ道が志染川沿いに通り、藍那あいな村を経てひよどり越で兵庫へ出る道がある。中世八部やたべ郡山田庄のうち。長禄二年(一四五八)三月二四日の森四郎五郎大夫・同女房連署田地売券(山田文書)によれば、中村居住の森夫妻は年貢納入のため田地一反を同村の四郎兵衛に現米三石で売却している。また天文九年(一五四〇)一一月二六日の三木蓑原ノ弥六田地売券(同文書)によると、弥六は山田庄内中村赤坂にある七〇刈の田地を山田の均蔵主に直米四石三斗で永代売却し、慶長三年(一五九八)四月七日に中村にある四〇刈の田地が福地村大郎兵衛らから岡文右衛門尉に売却され、この田地はのちに中村くろも七郎右衛門尉に引渡されている(「福地村大郎兵衛尉等連署田地売券」同文書)


中村
なかむら

[現在地名]徳島市国府町中こくふちようなか

府中こう村の南にあり、東は早淵はやぶち村。伊予街道が府中村から入り、西の観音寺かんのんじ村へ向かう。寛文四年(一六六四)まで以西いさい郡に属した。慶長二年(一五九七)の分限帳には「中村かう」とみえ、八八九石余が長江源右衛門知行分。同九年の検地帳(国府町史資料)によれば高四八五石余、反別は田二五町余・畠二〇町四反余。寛永二一年(一六四四)の打直し検地帳(同書)では田二三石余(二町余)・畠九石余(一町四反余)・桑三四本の計三三石余が打出されている。正保国絵図では四八五石余。寛文四年の郷村高辻帳では田方三一九石余・畠方一六五石余。文化三年(一八〇六)の名東郡中地高物成調子帳(四国大学凌霄文庫蔵)によれば中村組に属し、高四九三石余、うち蔵入分六石余・給知分四八七石余。


中村
なかむら

[現在地名]善通寺市中村町・中村町一丁目

下吉田しもよしだ村の西、金倉かなくら川中流域西方に位置する。古代仲村なかむら(和名抄)、中世仲村庄の遺称地。多度たど郡に属し、寛永国絵図には中村郷とみえる。脇に中村郷が別記され、善通寺・伏見ふしみ在岡ありおかをも含む郷高は二千九九七石。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では一千二八六石余、うち新田悪所一八石余。同一八年の小物成は綿五四匁(山崎領小物成帳)。元禄一一年(一六九八)の家数は一五六・人数八一六、牛四八・馬一三。溜池はしん池ほか二ヵ所、出水一四ヵ所(同年「弘田組明細帳内書抜」鎌田博物館蔵)。寛保二年(一七四二)段階の新池は水掛高一二〇石余、井手の総延長は七九〇間。


中村
なかむら

[現在地名]大屋町中

夏梅なつめ村の東に位置し、集落は大屋川右岸を走る大屋道に沿って発達。東は樽見たるみ村。中世には三方みかた郷内で、永禄三年(一五六〇)一一月二一日付で三方大蔵丞正秀が定めた三方郷東西堺注文(三方文書)に「中村」と所見し、当村と樽見村との境は「東ハ阿弥陀林通道、上ハかつらの木、北ハうをかはな也」、当村と夏梅村との境は「東ハすゝ谷上ハ中尾、北ハつきあいか谷也」と記される。ともに大屋川の流域にある樽見村の西、夏梅村の東に、両村と境を接して当村が位置していたことが判明する。近世の領主の変遷は夏梅村に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)に村名がみえ、高二〇八石余。


中村
なかむら

[現在地名]落合町中

現町域の北部中央、南流する旭川右岸に位置する。耕地は同川流域に広がり、西方は山地となっている。北は富尾とびのお(現久世町)、南の福田ふくだ村境を当摩たいま川が東流、当地で旭川に注ぐ。大山往来が南北に通り、栗原惣兵衛の居城と伝える手谷てだに城跡がある(作陽誌)

正保郷帳では田高三八四石余・畑高八八石余(ただし都合高は四六二石余)。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によると村位は下、改出高九八石余・開高九石余。


中村
なかむら

[現在地名]櫛引町中田なかだ

関口せきぐち村の北、ともに北流する青竜寺しようりゆうじ川に西を、うち川に東を画された地にあり、北西は丸岡まるおか村。北接する下中村に対し、上中村とも称された。東西を川に挟まれるため地名が生じたという(櫛引町史)。丸岡村から松根まつね村方面に向かう通称八百刈はつぴやくがり道が縦断し、この道は東南端の追分おいわけで六十里越街道・大鳥おおとり街道と合する(山添村史)。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録には「高二九九石 丸岡内中村」とみえる。


中村
なかむら

[現在地名]岸和田市山直中やまだいなか

包近かねちか村の南、牛滝うしたき川の中流域、山直谷の中央部に位置する。牛滝川は村の西を北流し、牛滝街道が村内を南北に縦走する。山直中村とも称した(一村別旧領主并石高)。古代の和泉郡山直やまたえ(和名抄)に含まれ、中世は同郷内に成立した中村庄の地。

村高は文禄三年(一五九四)の検地高四四〇石余(延宝七年「検地帳」畠中家文書)。慶長九年(一六〇四)の山直郷中村指出帳(東京大学史料編纂所蔵)では四三九石余、うち一一七石余は永荒、毛付高三二二石余(うち二九石余は畑分)


中村
なかむら

[現在地名]當麻町大字当麻

当麻村東に所在。近世文書では「平田支配郷中村」「中村平田」とも記す。慶長郷帳の村高二九五・六三石、幕府領(代官大久保長安)、元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領、延宝七年(一六七九)幕府領、明治維新に至る。

享保八年(一七二三)の和州葛下郡中村指出帳(当麻の熨斗家文書)によると総反別一九町八反五畝一五歩、村高三六九・五三八石で、うち七三・九〇八石は郡山藩主本多下総守(政勝の誤りか)時代の「増高無地」であるという。家数二四(高持一六、水呑八)、人数一〇九、医師一、大工一、請酒屋二、牛三。


中村
はしなかむら

[現在地名]桜井市大字箸中

三輪山西麓、巻向まきむく川流域、しば(岩田村)北方に立地。「日本書紀」崇神天皇一〇年九月九日条に「乃ち大市に葬りまつる。(中略)箸墓と謂ふ」とみえ、同書天武天皇元年七月壬申の乱条に「是の日に、三輪君高市麻呂・置始連菟、上道に当りて、箸陵はしのはかのもとに戦ふ」の記述がある。また五條市二見ふたみ生蓮しようれん寺蔵大般若経(五〇五巻)に「永保元年辛酉四月十五壬申日為結縁奉書写畢、隠岐守長清 平群姉子 大和国城上郡箸墓郷内承暦寺御経」と記す。


中村
なかむら

[現在地名]春日町東中ひがしなか

北端を竹田たけだ川が流れ、西は長谷はせ村、南は佐中さなか峠を越えて多紀たき小坂こさか(現篠山市)。康応二年(一三九〇)二月二二日の春日部庄玉泉坊引檀那願文(熊野本宮大社文書)によれば、春日部かすかべ庄内の庄官や住人が紀伊熊野本宮に願文を捧げており、そのなかに中村十郎大夫の名がみえる。領主の変遷は野上野のこの村に同じ。正保郷帳に村名がみえ田高六五三石・畠高一〇一石、芝山・柴山・日損所あり。天和三年(一六八三)の高五〇二石余、小物成は夫役・柴役・糠藁・竹の銀納あり(「亀山藩知行高並小物成帳覚」氷上郡志)。「丹波志」によると今高六四〇石、家数一三五。天保郷帳では高六五三石余。宝永二年(一七〇五)より小豆を将軍家に献上、煮ても腹割れしないことから大納言小豆と名付け特産とした(大納言小豆の由来碑)


中村
なかむら

[現在地名]山鹿市中・大宮おおみや町・栗林くりばやし町・はら

菊池川右岸の十三部じゆうさんぶ台地南崖部一帯に立地し、東は古閑こが村、西は竹林寺ちくりんじ村、北は下吉田しもよしだ村・久原くばる村と接する。「田尻親種参府日記」天文一六年(一五四七)一〇月二六日条に「廿六日夜、山鹿中村へ御一宿候、はいろ 同宿主、かたひら 同女房」とあり、親種が豊後への途中で当地に一泊し、宿主やその女房に給物をし、翌日に隈府わいふ(現菊池市)に向かっている。弘治二年(一五五六)一一月、小原鑑元との合戦の賞として「山鹿郡中村之内城分六町」が吉弘中務少輔に預け置かれる(同一九日「大友義鎮領地預ケ状案」大友家文書録)


中村
なかむら

[現在地名]金沢市中村町・御影町みかげまち増泉ますいずみ一―二丁目・新神田しんかんだ一丁目・大和町だいわまち元菊町もとぎくちよう

増泉村の北、犀川下流南岸に位置する。対岸北方に飛地向中むこうなかがある。城下西方に接していたことから、村地の一部が御用屋敷として召上げられたり、武士や町人の相対請地となることがしばしばみられた(改作所旧記)。正保郷帳では高三三六石余、田方一八町九反・畑方三町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高四〇二石・免五ツ八歩(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数一〇・百姓数八(高免付給人帳)


中村
なかむら

[現在地名]木島平村大字穂高ほたか

岳北地方のほぼ中央に位置し、北は犬飼いぬかい、南は南鴨みなみかもはら村、東は稲荷いなり和栗わぐり、西は小見おみ及びたる川を隔てて天神堂てんじんどう(現飯山市)に囲まれている。

中世には犬甘中村いぬかいなかむらと称していた。この地名の初出は、至徳四年(一三八七)六月、信濃守護斯波義種の代官二宮種氏が市河甲斐守頼房に与えた二宮種氏宛行状(市河文書)のなかの「信濃国高井郡犬甘北条いぬかいきたじよう・同中村、依有遺所(由緒)、上裁落居之間、預申候之処也、仍之状如件」である。


中村
なかむら

[現在地名]稲美町中村

北山きたやま村の南に位置する。くもり川が村内で国安くにやす川を合せる。合流してからは北西へ流路をとり沖積面を形成するが、その沖積面上と西側の中位および高位段丘面にかけて位置する。慶長国絵図に村名がみえる。天満大てんまおお池から取水する池郷の一つ。正保郷帳によると田方四七三石余・畑方五〇石余。天保郷帳では高七四一石余。明治一四年(一八八一)の戸数二〇四・人数一千一八(地種便覧)。中村組大庄屋の小山氏は三木城主別所長治の子孫と伝えられ(小山家家譜)、小山五郎右衛門は蛸草新たこくさしん村の開発に尽力した。


中村
なかむら

[現在地名]甲府市中村町・荒川あらかわ一―二丁目・下河原町しもがわらちよう池田いけだ三丁目・新田町しんでんちよう

金竹かねたけ村の西にある。かつては長塚ながつか(現敷島町)に属していたともいわれ、長塚古墳(現在は消滅)も当村地内にあったという(甲斐国志)。村名は郷の中間に位置したことによるともいう。天正一〇年(一五八二)八月九日の窪田右近助(長次)宛徳川家康印判状(窪田文書)に「中村之郷水上宗富分」八貫文がみえ、本領として安堵されている。また翌一一年四月二〇日、興因こういん寺に安堵された寺領のうちに「中村明楽寺分」三貫文が含まれる(「徳川家康判物」西山梨郡志)


中村
なかむら

[現在地名]高野口町上中かみなか下中しもなか

紀ノ川中流域右岸の洪積台地上にある。東は田原たわら村、北は九重くじゆう村。文永九年(一二七二)一〇月一〇日の入寺道慶御影堂陀羅尼田寄進状(又続宝簡集)に「政所河北方北山中村内檜懸壱段作人久住之正介」とみえる。高野山領官省符かんしようふ庄上方に属する村で、応永三年(一三九六)五月日付の官省符上方惣田数分米目録・官省符上方惣畠数分麦目録(同集)によると、当時の田数は一〇町六反二七〇歩、畠数八反三〇歩、在家一三宇(下地八反二四〇歩)であった。


中村
なかむら

[現在地名]山梨市中村

下栗原しもくりばら村の東、上栗原村の北にあり、笛吹川の支流おも川左岸の平地に広がる。古くは当村は上栗原村・下栗原村と一村であったとされ、村名は上栗原村と下栗原村の間にあることに由来するという(甲斐国志)。天正一一年(一五八三)四月二〇日の徳川家康判物(西山梨郡志)に中村とみえ、同村の明楽寺分三貫文などが興因こういん(現甲府市)に本領として与えられているが、現甲府市にも中村があり、いずれとも断定しがたい。


中村
なかむら

[現在地名]栃尾市中

西谷にしだに川と支流まえ川の合流点付近の谷底平地に集落がある。北の西谷川下流は西野俣にしのまた村、南の上流は森上もりあげ村。南東前川上流は木山沢きやまざわ村。草分家のうち最も古いといわれる彦兵衛家(千野姓)の先祖は伊勢から来住したという。市域では千野姓が集中的に存在する。文明年間(一四六九―八七)の長尾・飯沼氏等知行検地帳(上杉家文書)には長尾能景の被官に千野平年・千野小五郎の名がみえる。

慶長三年(一五九八)の堀検地の検地帳(米山忠氏蔵)表紙には「古志郡高波庄中村」と記す。


中村
なかむら

[現在地名]白浜町中

西は海に面し、北は吉田よしだ村・才野さいの村、東はしば村で、富田とんだ浦の中心的な村。小名中芝なかしばは村の東部にあり、富田川に沿う。戦国時代は富田川西北に進出した吉田氏の勢力下にあったと伝える(続風土記)。慶長検地高目録によると村高三三五石余。元和五年(一六一九)以降和歌山藩田辺領。富田組に属した。加子米は一六・二一石(「御領分加子米高帳」田中家蔵)。漁業は元禄元年(一六八八)古座こざ(現東牟婁郡古座町)の吉三郎ら三兄弟により地引網が始められ、のち人口の増加に伴い漁網も増加し、寛政年間(一七八九―一八〇一)鯛・鰆・鰹・鯖・鰯・・鰤漁も発達し、従来の地引網から大網に発展した(日本漁業経済史)


中村
なかむら

[現在地名]安八町中・外善光そとぜんこう

東は長良川、南は中村川、西を揖斐いび川に囲まれ、一村で中村輪中を形成する。揖斐川の対岸はまき村、北は森部もりべ輪中。枝村に善光・四屋よつやがあり(濃陽志略)、善光は森部輪中善光村の富田某が開発にあたったため中村善光分と称し、現在外善光に比定される。「名森村史」によると粟津文書のなかに「蓮如様野寺本証寺下濃州安八郡大榑庄敬泉寺休怡」とあり、当地の真宗大谷派敬泉きようせん寺の存在が知られ、当地は大榑おおぐれ庄の庄域であったと考えられる。

慶長郷帳に村名がみえ村高一三〇石、元和二年(一六一六)の村高領知改帳では幕府領。


中村
なかむら

[現在地名]大野城市中一―三丁目・中・乙金おとがな一丁目・川久保かわくぼ一―三丁目・大池おおいけ一丁目・御笠川みかさがわ一―二丁目・同四―五丁目

筒井つつい村の北、御笠川右岸にある。南西は山田やまだ村。北に御陵ごりよう(五領)から大浦谷を通って糟屋かすや吉原よしはら(現志免町)へ越える道があり、日守峠といった(続風土記拾遺)。村名は仲村とも記される(享和二年「明細記」近藤家文書など)。小早川時代の指出前之帳では山田のうちに含まれる。


中村
なかむら

[現在地名]松崎町那賀なか

桜田さくらだ村の東、那賀川中流右岸に位置する。那賀郡に属する。慶長三年(一五九八)には田一二町三反余・畑屋敷一一町四反余(伊豆南西海岸)。江戸時代初めは幕府領、元禄一一年(一六九八)旗本真田領、文化八年(一八一一)に旗本前田領となり幕末に至る(韮山町史)。元禄郷帳では高二九六石余。「掛川誌稿」では高二八三石余、戸数五二・人数二四六。南郷なんごう村との間では享保六年(一七二一)に山論出入があり(「証文」土屋家文書)、天明元年(一七八一)には芝間切開論争があった(「取替申一札」同文書)


中村
なかむら

[現在地名]度会町南中村みなみなかむら

脇出わきで村の南で一之瀬いちのせ谷の最奥部、一之瀬川上流にある。「神鳳鈔」に内宮領「一瀬御薗」とある故地で、その中心地ともいわれる。貞治二年(一三六三)八月二八日付六郷之老若宛の伊勢大神宮領壱瀬御園郷内之事(輯古帖)にみえる四至は、「東ハ限 奈(井カ)瀬横峰」「西ハ高山神之久岐之住ハタ」「南ハ限 志摩根」「北ハ限 峯 東ヘハカラス山、北ハシラタキマテ、タニヲカキルナリ、カゲ山ノウサキヲカキル也、ホリキリマテ、ヒカウワクロイシマテ」とある。


中村
なかむら

[現在地名]那賀町麻生津中おうづなか

飯盛いいもり山の北側山麓に広がる一帯の、麻生津川下流域に集落が点在する。北は北脇きたわき村、東は横谷よこたに村、南は飯盛山を境に中番なかばん(現粉河町)、西は西脇にしわき村。村域内に縄文から弥生時代にかけての石鏃が出土した中遺跡と、中古墳がある。この古墳について「続風土記」は「村の北民家の軒の北にあり、六七十年前初めて土崩る中に入りて求る、皿二十人前あり、家の常器に用ひて今は悉破れ失せたりといふ、後又土上に掩ふ石崩れて其内に入ことなりかたし、土を起すこと六尺余、格別大なる墳に非す、其所を上田の壇といふ」と記す。


中村
なかむら

[現在地名]姫路市白浜町しらはまちよう

飾東しきとう郡に所属。海岸部に東西に細長く延びる砂堆上に発達した村で、東は宇佐崎うさざき村、西は松原まつばら村。北部のさんつぼ上十かみじゆうつぼなどに条里の遺構が残っていたが、昭和四八年(一九七三)からの土地区画整理事業によって消滅した。慶長国絵図に「中村」とみえる。江戸時代を通して姫路藩領。正保郷帳や寛延四年(一七五一)の酒井忠恭領知目録(酒井家史料)などでは村名に「松原」の注記が付いているが、これは正保郷帳で「町之内」と注記される飾東郡の中村と区別するためと考えられる。


中村
なかむら

[現在地名]立川町肝煎きもいり

立谷沢たちやざわ川中流右岸に位置し、北は中島なかじま村枝郷興屋こうや、南はさわ村、東は板敷いたじき山麓。立谷沢七ヵ村の一村。明治三年(一八七〇)の村絵図(鶴岡市郷土資料館蔵)によれば、上中村・下中村で構成される。正保郷帳に村名がみえ、田一一七石余・畑七石余。寛政四年(一七九二)の肝煎重助控(斎藤文書)によれば高七三石余、免四ツ五分。


中村
なかむら

中世にみえる地名で、「和名抄」にみえる宇多うだ仲村なかむら郷の遺称地とされる。建武二年(一三三五)七月三日に結城宗広は勲功の賞として陸奥国宇多庄を与えられるが(「後醍醐天皇綸旨」結城神社文書)、宗広はその支配のために熊野堂くまのどう城に一族の中村六郎広重を入れたといわれる。「奥相志」によると、広重はかつて結城ゆうき中村(現茨城県結城市)を本貫地としていたとされるが、当地中村の住人あるいはその一族とみる説もある。


中村
なかむら

[現在地名]城陽市大字中

現城陽市の南、椎尾しいのお山の西麓に位置する。西から南にかけて綴喜郡奈島なしま市辺いちのべの両村に接し、北を長谷はせ川が流れる。久世郡に属する。

「和名抄」記載の綴喜郡中村郷を、この地にあてる説もあるが、郡の相違などからにわかに断定しがたい。安永七年(一七七八)の山城州大絵図には、綴喜郡の市辺村と奈島村十六じゆうろくの中間に中村が記載され、また久世郡長池ながいけ村の南、綴喜郡境付近に、もう一つ別の中村を記す。前者はいわゆる古く中村郷とされた綴喜郡の中村を表し、後者が江戸期を通じての久世郡中村を示すともいえる。


中村
なかむら

[現在地名]岐阜市中

中西郷なかさいごう村の東で、ほぼ三角形の小村。集落は村の南東隅にある。慶長郷帳および元和二年(一六一六)の村高領知改帳に中野村とみえ、高三二七石余、奥平忠隆(加納藩)領。正保郷帳では中村とみえ、田二五〇石余・畑七六石余。なお岩瀬文庫本正保郷帳では厚見あつみ郡に記載される中村が村高から当村にあたるとみられる。宝暦五年(一七五五)加納藩領から幕府領となり、同九年から大垣藩預所。


中村
なかむら

[現在地名]渋川市中村

渋川村の東南にある。利根川右岸に面した平坦地で、中央を佐渡奉行街道が通る。「寛文朱印留」に村名がみえ一部が安中藩領。寛文郷帳では田方二一五石余・畑方一〇二石余、安中藩領・三河中島藩領の二給。元禄郷帳では前橋藩領が三〇二石余、水沢みずさわ(現北群馬郡伊香保町)領が二石余で、残りの二二石余は不明。享保一七年(一七三二)の検地帳(中村区有文書)によると同年前橋藩領のうち二二石余(三町四反余)を旗本萩原藤七郎知行として分給した。家数は三で除地として天台宗延命えんめい寺分一反余があった。以降幕末まで支配は変わらなかったと考えられ、安政二年(一八五五)には萩原領の家数四・人数一六(「渋川村組合村柄書上帳」堀口文書)


中村
なかむら

[現在地名]貝塚市麻生中あそなか

鳥羽とば村の南東にある南郡の村。半田はんだ村から南下した熊野街道が村域西部を通って水間みずま街道と交差。集落は水間街道に沿って立地。天正一二年(一五八四)三月、紀伊根来衆・雑賀衆の一揆の際、中村城は一揆方についたため、同月二一日岸和田城(現岸和田市)の軍に落されている(宇野主水日記)。慶長九年(一六〇四)の検地による村高は五九四石余(元和五年「万事入用留」要家文書)


中村
なかむら

[現在地名]岡崎市中村町

占部うらべ(用水)の右岸に位置し、東は川を境に永井ながい村、西は下三しもみ村、南は定国さだくに村、北は国正くにまさ村に接する。またこの中村、隣の定国を通って西尾にしお(現西尾市)に至る道に沿って集落が展開する。

かつてこの中村を含めて国正・定国・正名しようなの四ヵ村は一郷を構成して占部郷といわれ、その郷名は一説によると貞観八年(八六六)卜部日良麿が三河権守に任命されてこの地の開墾にあたったことに由来するという(六ッ美村誌)


中村
なかむら

[現在地名]藤岡市中

森新田もりしんでん村の東、東は森村、南は上栗須かみくりす村・篠塚しのづか村と接する。「名跡考」「名跡志」は「和名抄」の小野おの郷に比定する。応永二五年(一四一八)四月一三日、「高山御厨中村郷内田畠在家小林修理号香津海跡」は関東管領上杉憲実によって郷内宝光ほうこう寺に寄進される(「関東管領家奉行人連署奉書写」蜷川親治氏所蔵文書)。永禄二年(一五五九)の「小田原衆所領役帳」に垪和又太郎が上州で給された地に「五拾貫文 森之内中村郷」とある。


中村
なかむら

[現在地名]宮代町百間もんま 中・ひがし宮東みやひがし川端かわばた一―四丁目・東姫宮ひがしひめみや一―二丁目

東村の西、百間村の南西にあり、南は内牧うちまき(現春日部市)。東村を隔てて古利根川岸に沿って飛地があり、小名を川端という(風土記稿)。地形は台地と低地が入組み複雑で、比高は二―三メートル。川端は古利根川の自然堤防上にあって標高は八メートルほど。

当村はもと百間村のうちにあったが、元禄八年(一六九五)に旗本池田領分が分村したという。


中村
なかむら

[現在地名]和束町大字中

和束川流域のほぼ中央に位置し、村は川の両岸にまたがる。村の北部を信楽しがらき街道が通る。「京都府地誌」は地勢を「東南は童仙房の山脈ヲ負ヒ、西北ハ鷲峰ノ山脈ニ対ス、和束川東ヨリ西ニ流レ村ノ中央ヲ横断ス、川ノ東南ハ水田少ク山地多シ、正北ハ之ニ反シテ水田井然タリ」と記す。村内の字地名に市場いちば式部しきぶ古京こきよう知数保ちすうほ的場まとばおにじよう両神りようがみ花折はなおれなどがある。

江戸時代には和束郷の一村で、高二四六・三六石、禁裏新御料(享保一四年山城国高八郡村名帳)。明治一〇年代の調べでは田一七町余、畑三町余、戸口は六七戸、三一七人、物産として製茶があった(京都府地誌)

信楽街道から分れて笠置かさぎ(現笠置町)に通ずる道の和束川に架かる橋をいわい橋とよぶが、「京都府地誌」は「祝井橋ハ旧ト石ヲ以テ架ス、元弘元年八月、後醍醐帝笠置山ニ幸セラルヽニ当リ、人民俄ニ円木ヲ連ネテ橋ヲ架シ因テ鳳輦ヲ通スルヲ得タリ、其恙ナキヲ悦ヒ祝井橋ト称ス、故ヲ以テ今ニ至ルマテ官費修繕ニ係ル」と後醍醐天皇にかかわる伝承を記す。


中村
なかむら

[現在地名]亀岡市千歳ちとせ町 中

北は出雲いずも村、南は江島里えじまり村、西は馬路うまじ村で、東は山に沿う。人家は村内を南北に通る道の東方山側に多い。また集落は中とその北方の北中(通称北舎)とに分れている。北舎きたや背後の北舎峠を越えると七谷ななたに川沿いに出、さらに上流へさかのぼると愛宕あたご山麓の山城国はら(現京都市右京区)を経て水尾みずお(現右京区)から嵯峨さがへ出る。この峠道は愛宕神社への参拝道として桑田郡北部・船井郡および篠山ささやま(現兵庫県多紀郡)方面の人々に大正(一九一二―二六)頃までよく利用された。「ひたち帯」の著者安藤朴翁も元禄一〇年(一六九七)この峠を越えて嵯峨へ出ている。

長禄三年(一四五九)の出雲神社文書に「中村」とみえる。


中村
なかむら

[現在地名]山北町北中きたなか

南から大毎おおごと川、東からにごり沢が流れ、村の北西で合流し勝木がつぎ川となる。北は濁沢を隔て北黒川きたくろかわ村。南東にじようヶ峰(三三〇・九メートル)がある。出羽街道が南北に通り、北西へ川沿いに勝木村を経る脇道が分岐する。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「大川分黒河之内中村 上」とみえ、本納二二三石五斗九升・縄高三四一石八升四合六勺、家二九軒、「大沢ヨリ七里」とあり、出羽街道に沿って家が並ぶ。


中村
なかむら

[現在地名]赤碕町中村

太一垣たいちがき村の南に位置し、立子谷たつこだにに属した。拝領高は二九一石余、本免は四ツ三分。竹運上銀二四六匁を課されており(藩史)、羽田氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高三〇〇石余、竈数二八。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三四八石余、竈数四四。享保二〇年当村の本谷ほんだに大藤谷おおふじだにへの入会をめぐって、当村・西井手上にしいでのうえ村など四ヵ村と以西谷いさいだに五ヵ村との間で相論が起きている(在方諸事控)。かつては上中村に高取たかとり神社、下中村に中村神社があったが、大正六年(一九一七)に太一垣の成美なるみ神社に合祀された。


中村
なかむら

[現在地名]流山市中・宮園みやぞの三丁目

八木やぎ台地の中央部、前平井まえひらい村の南に位置する。耕地は南東部のさか川沿いの低地に開け、東は芝崎しばさき村。元和四年(一六一八)の年貢掟(吉野家文書)に村名がみえる。寛永二年(一六二五)の旗本本多正貫の領知目録写に「中村百十石」、同年の旗本興津宗能宛知行宛行状に「中村百拾石」とある。元禄一一年(一六九八)前出の本多正貫領分は旗本一色領となり、同一三年頃の下総国各村級分では高二二四余石、旗本興津・一色・朝比奈の三氏相給。


中村
なかむら

[現在地名]砺波市庄中しようなか

開発かいほつ村の東にあり、北は下中条しもなかじよう村、東は庄川を挟んで権正寺ごんしようじ村。同川対岸宮森みやもり村の者が移って開いたという(越中志徴)。慶長一〇年(一六〇五)の前田利長知行所目録(加越能文庫)には利波となみ郡開発のうちとして中村四四石余がみえ、同所など二千石が神尾之直に宛行われた。正保郷帳では高二五三石余、田方一六町四反余・畑方四反、水損所との注記がある。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一六二石、ほかに寛文二年より同六年までの新田高四五石があり、免はともに四ツ五歩。


中村
なかむら

[現在地名]堺市中村町・石原いしはら町一―三丁

南花田みなみはなだ村の南東に位置する。村の南部を竹内たけのうち街道が東西に通る。河内国八上やかみ郡に属する。天台伝南岳心要(金剛寺蔵)の奥書に「正安元年五月十二日、於河内国八上郡中村法明寺、書写畢」とみえる。なおこれより前の保元三年(一一五八)一二月三日の官宣旨(石清水文書)に宮寺領の河内国分として「中村庄」がみえるが、この中村庄を当地とする説、また石川郡中村(現南河内郡河南町)に比定する説があり不詳。


中村
なかむら

[現在地名]練馬区中村北なかむらきた一―四丁目・中村一―三丁目・中村南なかむらみなみ一―三丁目・向山こうやま一丁目・貫井ぬくい一丁目

中荒井なかあらい村の西、千川せんかわ上水の南に沿う。多摩郡境に位置し、西と南は多摩郡上鷺宮かみさぎのみや(現中野区)、北は上練馬村。田園簿に村名がみえ、田三二石余・畑四三石余、ほかに野米二四俵余。旗本今川領で、以後変わらず幕末に至ったとみられる(旧高旧領取調帳など)。畑の産物は大根・芋・茄子など(「地誌調写置」長谷川家文書)


中村
なかむら

[現在地名]珠洲市若山町中わかやままちなか若山町宇都山わかやままちうつやま

大坊だいぼう村の西に位置する。若山郷のほぼ中央にあり、当村を含む下流の一〇村を里十箇さとじつかといい、上流の山十箇やまじつかと分ける。江戸時代の山間盆地などの開拓により、作平さこんだら柿田かきだひよう重三郎じゆうざぶろう兼政かねまさ上延武かみのぶたけ真吉さねよしなど多くの垣内が営まれた。正保郷帳に村名がみえ、高二三二石余、田一四町三反余・畑一町一反余、新開高四四石余(免二ツ七歩九厘)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高二八八石、免四ツ九歩、新開高一石余、小物成は山役一九三匁・漆役二匁、なお敷借本米・利足三〇石であった(三箇国高物成帳)


中村
なかむら

[現在地名]名張市中村・桔梗が丘ききようがおか一―八番町・美旗みはた町〈池の台東いけのだいひがし池の台西いけのだいにしなか一番・なか二番・なか三番〉

下小波田しもおばた村の西にある。現名張市には中村が二ヵ所あるので、俗に美旗中みはたなか村と称し、箕曲中みのわなか村と区別する。小波田・新田しんでんに続く低丘陵地帯で、古くから身野みの(「日本書紀」持統天皇三年八月一六日条)三野みの(「古事記」安寧天皇段)とよばれた早期開発地域であったと思われる。江戸時代は享保一三年(一七二八)内検を改め本高九二一石、平高一一四六・四二石。


中村
なかむら

[現在地名]大洲市中村・常磐町ときわまち

村の南部から西部を環流するひじ川の自然堤防上にあり、南岸の大洲城下町と接続する。大洲藩の村で城下准町として処遇された。

村名は、藤堂高虎が、慶長一二年(一六〇七)正月大津八幡宮神主衆中に宛てた相渡社領之事(宇都宮文書)のなかに「一、高九石 喜多郡中村内」とみえる。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)喜多きた郡の項に「中村 日損所、水損所、川有」、村高一五八石一斗四升六合、うち田方九石九斗五升、畠方一四八石一斗九升六合とあり、干害・水害をうける畑地卓越村であった。


中村
なかむら

[現在地名]三芳村中

御庄みしよう村の南に位置し、一部同村の北西方に飛地がある。山名やまな川が流れる。群房ぐんぼう庄に由来するという御庄村から分村したと伝えるが、村名は群房庄内中村の意か。観応三年(一三五二)三月二日の足利尊氏袖判下文写(遠山文書)にみえる安房国古国府中村は当地とも考えられる。もと真下広伸領であった同所が恩賞として遠山景房に宛行われ、同年一〇月下地を景房に付すよう鵤木式部少輔に命じている(同月二二日「足利尊氏御教書写」同文書)


中村
なかむら

[現在地名]四日市市中村町・あかつきだい一―三丁目・平津新へいづしん

朝明あさけ川の南に位置し、西に萱生かよう村がある。村の北を薦野こもの(現三重郡菰野町)へ至る街道が走る。慶安郷帳(明大刑博蔵)に「萱生ノ内」、元禄郷帳でも「萱生村枝郷」とあって、江戸時代には萱生村の属邑と考えられており、宝永八年(一七一一)の村差出帳(徳川林政史蔵)も「萱生中村」となっている。しかし、長禄二年(一四五八)一二月一三日の伊勢国智積御厨年貢帳(醍醐寺文書)には中村郷の名前がみえ、萱生はそのなかに含まれていた。


中村
なかむら

[現在地名]益子町北中きたなか

東部の丘陵地から西部の低地に向かって開け、西は東流する小貝こかい川を境にはなわ村。北は大沢おおさわ村、南は北益子きたましこ村に挟まれた小村。中央を南北に七井なない村と益子村を結ぶ道が縦断する。慶長七年(一六〇二)大関資増が加増された芳賀郡内六千石のうちに、「中村之内」二三六石余がある(「黒羽藩領知高書上」宇都宮大学附属図書館蔵)。慶安郷帳に相模小田原藩領としてみえ田三二四石余・畑一二〇石余(村高は三四五石余とあり合計は合わない)


中村
なかむら

[現在地名]小松市中海町なかうみまち西軽海町にしかるみまち一―四丁目

かけはし川とその支流滓上かすかみ(原谷川)の合流点近く、南は丘陵となる。北は軽海村、北西は八幡やわた村。集落は二つに分れ、梯川に近いほうが本村で地家じげ、滓上川に近いほうを枝村としてもりとよんだという(皇国地誌)。「天文日記」天文一一年(一五四二)一〇月二四日条によれば、中村の了西が上番している。同一六年五月二四日、同二〇年一一月八日には了誓が上番している。


中村
なかむら

[現在地名]豊後高田市真中まなか 中村

横嶺よこみね村の東、田染たしぶ盆地のほぼ中心部のかつら川中流左岸に位置する。南は間戸まど村。江戸時代の領主の変遷は高田たかだ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、間戸と合せて高四一四石余、家数九一(うち百姓一八・山守一、隠居・名子・下人・庭屋・牛屋・裏や七二)・人数一四八(うち百姓一八、名子・下人一七)、牛二七・馬一。正保郷帳では田染庄に属し、田方二〇六石余・畑方四五石余、半分日損所で茅山・柴山・新田がある。元禄二年(一六八九)の村明細書写(田染支所蔵)によれば、田方一九町六反余・畑方六町六反余、家数八四。


中村
なかむら

[現在地名]甲府市中町

東下条ひがししもじよう村の北、南流するあら川東岸の氾濫原にある。北は上今井かみいまい村。荒川対岸は巨摩郡中条なかじよう村。慶長六年(一六〇一)の検地帳(県立図書館蔵)には中村之郷とあり、田五町五反余・畑四町六反余、永不作の下々畑二町二反余。桑八把が記される。屋敷は六筆・九〇五坪、ほかに一七〇坪の長信ちようしん(長真)庵分が記される。慶長古高帳には中村とあり、高一三六石余、ほかに天神領五斗余が記される。


中村
なかむら

[現在地名]海南市野上中のかみなか

沖野々おきのの村の貴志きし川東対岸、北東流する貴志川がつくる河岸平野に立地。那賀なが郡に属し、南は溝口みぞのくち椋木むくのき、東は小畑しようばた(現海草郡野上町)の各村に接する。石清水いわしみず八幡宮領野上庄の中心地で本郷ほんごうの地名も残り、荘内では最も平坦地の広がる地を占める。東西に通る竜神街道と、紀ノ川流域に至る街道が交差する地点でもあった。延久四年(一〇七二)九月五日付の太政官牒(石清水文書)によると、野上庄四至内の「弐図壱里」の坪名に「今波太田弐段」「藤生田参段」とあるのは、村内の小字大田おおた藤井ふじいにあたると考えられる。野上七村のうちでは、中村のみで一村とされている(続風土記)


中村
なかむら

[現在地名]牟岐町中村

牟岐浦の北西に位置し、東を牟岐川が南流する。北西部に百々路どどろ山がある。地内の昌寿しようじゆ(現曹洞宗)の境内などに戦国期とされる五輪塔があり、古城と称される城跡には空堀・土塁や石垣が残っている。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「中村」とあり、寛永一五―一八年頃の作製と推定される阿波国大絵図では付近に朱による道(土佐街道)が記される。正保国絵図では「牟岐之内 中村」とあり、寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では牟岐浦の枝村とする。


中村
なかむら

[現在地名]津奈木町岩城いわき

北は河内かわち村、西ははま村、南は上原うえのはら村・山口やまぐち村、東は中尾なかお村に接する。中世には津奈木城が築かれ、近世には津奈木手永の会所が置かれ、明治以後も村役場が置かれるなど、常に津奈木地区の中心であった。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に「津奈木村内中村」とあり、八人の地侍がみえる。同一八年の津奈木村小村切高物成人畜御帳(同文書)には高一八一石一斗余、田数八町二反五畝余・畠数三町六反九畝余・塩浜五反二畝余、真綿一三匁五分・茶二〇五匁・塩五石九斗余、女五七・男七七、うち惣庄屋一・きもいり一・地侍八・郡筒一・ろ手取(水夫)三、馬九・牛三が記される。


中村
なかむら

[現在地名]日吉町字中

大堰おおい川に沿い、みや(天若村)の下流西方に位置する。村の北部で中世木なかせき川が大堰川に合流する辺りから南に集落がある。南は舟枝ふなえだ(現八木町)、西は殿田とのだ村、北は下木住しもこずみ村。船井郡内に同名村がいくつかあるため、郷帳類には「世木」を冠して記される。園部藩領。

近世初頭の訴訟文書(湯浅文書)に、世木庄内の一村として中村がみえ、しかも世木庄政所は一時中村にあった(→世木村


中村
なかむら

[現在地名]結城市中

小森こもり村・久保田くぼた村の南にあり、東を鬼怒きぬ川が南流。建武三年(一三三六)の茂木知貞軍忠状(茂木文書)に「子息知政大手絹河並木渡、河追返凶類」、暦応三年(一三四〇)の矢部定藤軍忠状写(諸家文書纂)に「去年四月六日、自京都御下向之時御供仕畢、次常州御発向之時(中略)十月廿二日、馳向並木渡」とある並木なみき渡は字並木付近で、享禄元年(一五二八)の結城政朝所領宛行状(中里文書)に「なミ木郷之内こくまい田」とあるので、中村一帯が並木郷とよばれ、鬼怒川べりには南北朝時代初めより渡場があったことがわかる。


中村
なかむら

[現在地名]北条市中村

高縄たかなわ山の北側斜面の山村で、立岩たていわ川上流の南岸にある集落。東は米之野こめのの村、南は米之野村・猿川さるかわ村、西は猿川村、北は立岩川を境として儀式ぎしき村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早かざはや郡の項に「中村 芝山有」とみえ、村高は一〇九石七斗五升、うち田方九九石三斗二升九合、畑方一〇石四斗二升一合とある。元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記、天保郷帳も同じ村高。

村内茶臼ちやうす山に日高山ひだかやま城跡がある。南北朝以来の重見氏の居城で、天正一三年(一五八五)河野氏滅亡まで高縄山城の支城として重視された。


中村
なかむら

[現在地名]玉川町中村

現玉川町の北部、蒼社そうじや川の右岸の村。蒼社川は川幅約四〇メートル、峡谷を出て中村付近でようやく平野が開ける。対岸は法界寺ほうかいじ大野おおのの二村、東は小鴨部こかんべ村、南は高野こうや村と接する。

村は北端の蒼社川に向かって開く三角形状で、北部の水田地帯、山麓の集落、南部の山岳とに三分される。「和名抄」にみえる鴨部かもべ郷、中世の鴨部かんべ庄の中心と推定される。戦国期には日浅阿波守の守る法華津ほけづ山城、幸門さいかど城の枝城で別宮修理太夫がいた米田よねだ城があった。

天正一九年(一五九一)九月付の鴨部中村検地帳があり、田畠五一町二反一九歩、高五九六石二斗、所有者に修理の名もみられる。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の越智郡の項には「中村 定水所、川有、野山有、林少有」とみえ、村高は五九六石二斗とある。


中村
なかむら

[現在地名]与板町南中みなみなか

くろ川左岸の平坦地にある。南東は吉津よしづ村・中田なかだ新田、西は山沢やまざわ村・槙原まきはら村。集落中央付近の地字馬場屋敷ばばやしきにある観音庵の観音は、もと直江兼続の与板城内に安置され、慶長三年(一五九八)兼続の米沢移封に際し、佐藤甚左衛門をこの地にとどめ観音を守護させ、村を開いて里正にしたという伝承がある。また三社神社の神明宮にも、これと似た伝承があり、同一〇年に佐藤甚左衛門重政が荒地を開拓して守護神として祀ったという。しかし慶長二年の福島掃部助宛知行宛行状(覚上公御書集)には爪生うりゆう村・新保しんぼ(現三島町)・中村合計高五〇〇石九斗余、家数八とあり、開村伝説より早く開発されていたとみられる。元和六年(一六二〇)長岡藩領、寛永一一年(一六三四)与板藩領となり幕末に至る。


中村
なかむら

[現在地名]三条市西中にしなか東本成寺ひがしほんじようじ

東鱈田ひがしたらだ村の北、平野部に位置し、北は東本成寺村・四日町よつかまち村、東は五明ごみよう村。集落は今井野いまいの新田(現南蒲原郡栄町)の東端から片口かたくち村まで東西に築かれていた土居の南に位置した。慶長三年(一五九八)新発田藩領となり、当時の御領内高付帳(新発田市史資料)に一七二石三升と記される。また同一〇年の給知方村々高目録(同資料)には「本(ママ)寺ノ中村」とあり、本成寺領であったことがうかがわれる。


中村
なかむら

[現在地名]左京区岩倉中町いわくらなかまち

長谷ながたに村と花園はなぞの村の間、岩倉盆地のほぼ中央に位置。室町期には中村郷(兼致卿記)とよばれていた。

慶長六年(一六〇一)五月一五日に徳川家康が進献した禁裏御料(御湯殿上日記・言経卿記)の一つで、享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳にも一村禁裏御料、村高一八八石余と出る。

村民は中古下鴨しもがも神社の神領地の栗栖野くるすの(現北区)より移住してきたと伝え、村の中央部に栗栖の旧字名が残されていた。村民は下鴨社の神人として葵祭(賀茂祭)、御蔭祭に奉仕し、江戸時代には人夫伝馬役等を免除せられ、男子が誕生すれば終身年米五斗宛の手当米が出されたという(京都府愛宕郡村志)。「京羽二重織留(元禄二年刊)にも、

<資料は省略されています>

とみえ、今日では現北区くもはたから採取する葵を、当時はこの地からも献上していたことが知られる。


中村
なかむら

[現在地名]有漢町有漢

下村の北にあり、貞守さだもり城下しろもと元重もとしげ羽場はば落合おちあい往来の通る大谷おおたにを含む。同往来は塩坪しおつぼ(現高梁市)から北向して当村西部を通り、多和山たわやま峠を越えて中津井なかつい(現北房町)に入る。寛永備中国絵図・正保郷帳の下有漢村に含まれた。正保郷帳に同村の枝村としてみえる大谷村は当地大谷のことであろう。元禄八年(一六九五)の旧松山領新高帳(羽場文書)には中村とみえ、古高六一二石余・新高八一一石余。元禄郷帳・天保郷帳には村名に下有漢と肩書がある。天保一三年(一八四二)の家数九〇(「検地帳写」大月文書)。明治八年(一八七五)下村・上村と合併して有漢村となった。


中村
なかむら

[現在地名]羽黒町小増川こますかわ

谷地館やちだて村の北にあり、西は柳久瀬やなくせ(現藤島町)。谷地館から天文七年(一五三八)に分れたと伝える。元和八年(一六二二)庄内藩領となり、以降領主の変遷は大口おおぐち村に同じ。同年の酒井氏知行目録に村名がみえ、高一五六石余。寛永元年庄内高辻帳では高一九〇石余、正保郷帳では高六二八石余とみえるが、これは興屋こうや村・谷地館村分を含む。安永三年(一七七四)には田高一八九石余・畑高一石余、家数二五・人数九四、馬七(「公領田圃録」八幡文書)


中村
なかむら

[現在地名]豊田市中町

ともえ川東岸にあり、たき川と郡界ぐんかい川の両分岐点の中間に位置する。九久平くぎゆうだいら桂野かつらのを結ぶ雪広ゆきひろ道が通る。延宝三年(一六七五)成立の「嶋邑家根元慶図記」(島村家蔵)によれば、元亀二年(一五七一)武田氏が三河に進出して足助あすけ城を落し、「中村のねむり堂」を焼払ったとあり、「中村」の地名がみえる。

近世初めは幕府領、寛永四年(一六二七)奥殿藩領となり明治に至る。慶長九年(一六〇四)奉行辰巳藤右衛門による検地帳(中村区有)には名請人が二三人おり、うち一二人は一反未満の名請地をもち、屋敷持は全体で九人いる。享保二〇年(一七三五)の中村五人組帳(同区有)に、家数一九、馬三匹を記す。


中村
なかむら

[現在地名]穴水町上中かみなか

はつヶ川水源地帯の山間にあり、北は大角間おおかくま村、南は越渡こえと村、東は桂谷かつらだに村。上記三村に中村を含めて通称四村よむらとよび、中心地の中村は江戸時代には上中村・中村の両方の名でよばれた。寛永六年(一六二九)の稲葉左近・宮崎蔵人宛判書(能登志徴)八箇はつか本郷、本郷組二一ヵ村の一つとして中村の名がみえる。正保郷帳では高二八石余、田方一町五反余・畑方四反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には上中村とあり、高三六石、免七ツ二歩、小物成は山役二一匁・炭竈役二六匁(三箇国高物成帳)。享保一二年(一七二七)の馬場先組役所宛の雑穀取入高調(伊藤文書)によると麦四石・大豆二石五斗・小豆二石五斗・そば四石五斗・粟二石・稗九石五斗。


中村
なかむら

[現在地名]緒方町大化たいか久土知くどち 宮尾みやお

犬塚いぬづか村の西、中犬塚川西岸にある。正保郷帳には仲野なかの村とみえ、田高一五四石余・畑高五一石余、緒方郷に属した。元禄郷帳では中村とある。天保(一八三〇―四四)頃の御案内記(大久保家文書)では高二七五石余、反別三九町四反余、免八ツの下の村で、物成米一八二石余・大豆七二石余を上納、家数五五・人数二二八、牛七〇・馬八。安永七年(一七七八)には今山組に属し、同組大庄屋市左衛門の役宅があった(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。岡藩の小制札場が設置されていた(岡藩御覧帳細注)。「豊後国志」には当村は今山いまやまと記され、旧高旧領取調帳でも今山村とあり、高二八四石余。



なかつじむら

[現在地名]温泉町中辻

丹土たんど村の南西にあり、北西は塩山しおやま村。切畑きりはた村から当村を経て塩山村の寸原すんばら峠を越し、まえ村に出る道は山陰道の間道であった。また当地から南西に向かい、関尾せきお峠を越えて岸田きしだ村に出る道も通じていた。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「中辻村 にし殿」とみえる。江戸時代の領主の変遷は歌長うたおさ村に同じ。郡中惣高(福井家文書)では太閤検地高とみられる古高一九五石余。元和三年(一六一七)の宮城豊盛領二方郡高帳でも高は同じで、小物成の山手米一石三斗五升、桑手の綿一六二匁が課せられていた。


中村
なかむら

[現在地名]宇佐市中

木内きのうち村の南、伊呂波いろは川の上流域にある。東と西には山地が連なり、南はくろ村。応永八年(一四〇一)五月一三日の宇佐公光田地売券(内尾文書)によると、宇佐公光は重代相伝の横山よこやま浦「中村ひわさこ名いちこ原の畠三杖」などを一貫五〇〇文で「法雲寺方丈」に売渡しており、この「ひわさこ」は現在の字批杷迫びわさこと思われる。「宇佐郡誌」によると天文年中(一五三二―五五)麻生氏家臣中村十郎が当地中村城に拠っていたが、永禄九年(一五六六)大友勢に討たれたという。近世の領主の変遷は時枝ときえだ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳によると高二八二石余、人数三八、百姓四(うち小庄屋二)・名子三・牢人一・山伏一。


中村
なかむら

[現在地名]近江八幡市中村町

土田つちだ村の東に位置し、八幡町に接する。つぼつぼなど古代条里の遺称とされる小字名も多く残る。八幡城下が形成されるまでは、のちの朝鮮人街道が通る交通の要所であり、島郷しまのごう市は当地から東方はやし村にかけてあったと推定される。戦国期のものと推定される得珍保海草等馬足子交名(今堀日吉神社文書)に村名がみえ常念・けん三郎・彦五郎など六名の足子商人の名が載る。字大殿おおとのには六角氏家臣宇津呂氏の居館があったとされる(蒲生郡志)。天正一七年(一五八九)九月一五日、西川八左衛門に当村のうち高一〇〇石などが与えられた(「豊臣秀吉朱印状」西川文書)。寛永石高帳では高三九八石余、西光さいこう寺領一一石余のほかは山城淀藩領。


中村
なかむら

[現在地名]三角町中村

東は郡浦こおのうら村、西は波多はた村・小田良おだら村、南は前越まえごし村に接し、東西に富岡とみおか往還が通じている。村の中央に造道つくりみち、東に鬼迫おにざこ、西に金桁かなけた、北に文蔵ぶんぞうなどの字地がみえる(郡村誌)。応永一一年(一四〇四)一〇月一〇日の肥後郡浦庄地検帳(阿蘇家文書)にみえる「金北」「土社」「仏坂」はそれぞれ金桁・下本庄しもほんじよう中河原なかがわら付近に比定され、郡浦庄に属する。寛永一二年(一六三五)の地撫帳に村名がみえ、近世は郡浦手永に属した。「国誌」に「郡浦村ノ内中村、高六百三十石余、金桁村本庄村石打谷村八久保村柿迫村等ノ小村アリ」とあり、天保八年(一八三七)の郡浦手永略手鑑では、竈数一一八・人数五六六・役男一四六、本方高六三〇石二斗余、田二七町三反七畝余・畑二一町八反余、新地田畑三町三反余、諸開三二町八反余。


中村
なかむら

[現在地名]羽島市上中町中かみなかちようなか

長間ながま村西部の南に位置する桑原くわばら輪中内の村。正保郷帳によると田方一三六石余・畑方七一石余、幕府領。臼井本元禄郷帳でも同領。文化七年(一八一〇)の村明細帳でも幕府領、高二五六石余、田一五町四反余・畑一〇町一反余、家数五三・人数二七二、馬三。浄土真宗東本願寺末徳仁とくにん寺、武儀むぎ池尻いけじり(現関市)弥勒寺持の観音堂、神明宮がある。明治二年(一八六九)の村明細帳では家数五三(寺院を含む)・人数二三九、馬二。徳仁寺末西宝寺(境内一〇間四方)が記されるが、これは先の観音堂にあたり、卯宝うほう寺の書誤りである。徳仁寺文書によれば、卯宝寺は寛文年中(一六六一―七三)の創建で、開祖は円空とある。


中村
なかむら

[現在地名]糸魚川市東中ひがしなか

根知ねち川右岸のやや広い河岸段丘上に立地。上流は上野うえの村、対岸は根小屋ねごや村・栗山くりやま村。ひめ川への合流付近から上流へ仁王堂にようどつめ・中村・山崎やまざきの集落が根知道沿いに並ぶ。正保国絵図に高七八石余とある。寛文七年(一六六七)の高帳によると、本田高一〇一石二斗余、古新田・新田高三一石八斗余。名請人二一人であるが、庄屋の記載はない(糸魚川市史)。当村の天和検地帳は元禄五年(一六九二)三月九日の火災で焼失。天和三年郷帳では高一七三石二斗余とある。仁王堂の字室が内山もろがうちやまにある畑・馬草山・田草山について、仁王堂では持切山、根小屋村では入会山と主張し、正徳五年(一七一五)以前から紛争となっていた。


中村
なかむら

[現在地名]袋井市宇刈うがり

周知すち郡に所属。宇刈川上流域の谷間に立地。南は村。慶長九年(一六〇四)の宇苅之郷中村御検地水帳(国誌編纂調)によれば幕府代官伊奈忠次の検地により、反別田二一町三反余・畑三町一反余・屋敷七反余が打出された。正保郷帳に中村とみえ、幕府領、田方二〇九石余・畑方二八石余、八幡領一二石。寛文四年(一六六四)掛川藩領(「井伊直好領知目録」寛文朱印留)、江戸後期に一部が横須賀藩領となり、幕末に至る(「袋井市史」など)。元禄郷帳では高二六二石余。天保郷帳では高二八〇石余。「掛川誌稿」によれば掛川藩領家数三七・人数一八一、横須賀藩領家数三・人数一六。


中村
なかむら

[現在地名]花泉町花泉

現花泉町の中心地を占めていた村で、中央を有馬ありま川と合流した金流きんりゆう川が南東流し、その流域に耕地が広がる。石巻街道が通る。古代の磐井郡仲村なかむら(和名抄)の遺称地。「陸奥話記」によると、康平五年(一〇六二)八月小松こまつ(現一関市)を攻略した源頼義軍は、安倍宗任らを追捕するため「兵の士千余人を分ちて、栗原郡に遣しぬ。また磐井郡仲村の地は、陣を去ること四十余里なり。


中村
なかむら

[現在地名]赤穂市中広なかひろ加里屋中洲かりやなかす細野町ほそのちよう

大川を挟んで赤穂城下の東に位置する。慶長国絵図によると尾崎おさき(現千種川)を隔てて東に尾崎村があり、両川の中洲に中村、北隣に「ひしかほの」(広門か)とみえる。当地永応えいおう寺の延徳二年(一四九〇)四月二八日、明応七年(一四九八)と享禄五年(一五三二)の絵像裏書(永応寺資料)に「幡州赤穂郡坂超庄中村」と記される。兵庫北関に入港する船の所在地・積載品目・船主等を書上げた文安二年(一四四五)の兵庫北関入船納帳には一月一八日をはじめとして中庄がみえるが、中庄は中村のこととも考えられる。


中村
なかむら

[現在地名]知立市西中にしなか町・新林しんばやし

猿渡さわたり川とその支流吹戸ふきど川とに挟まれているところから、この村名が生れた。東は村・谷田やた村と境する。長照寺縁起に、大治四年(一一二九)源長照が開基とあるから、この頃より集落ができていたと思われる。中世に永崎ながさき郷とよばれたこの辺りは広く入海に臨んで、後の八ッ田・谷田および篠目ささめ(現安城市)を包含し、舟運も盛んであったという。寛永(一六二四―四四)以前に八ッ田村・篠目村が永崎村から分村し、従来の地名中村名を中村に改めたという。寛永一二年永崎村の村高六〇三石六斗二升四合、分村した後の中村は、享保一七年(一七三二)三四〇石六斗四合。


中村
なかむら

[現在地名]滑川市中村

早月はやつき川が形成した新扇状地の扇端東部に位置し、北の吉浦よしうら村との境を東西に北陸街道が通る。正保郷帳では高一五四石余、田方一〇町余・畑方二反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高一九六石、免五ツ、明暦三年(一六五七)の新田高二石、小物成は野役一二匁・鮭役二匁・鱒役二匁・鮎役二匁(三箇国高物成帳)。所属組は平塚ひらつか村と同じ。享保一八年(一七三三)の新川郡村廻帳(川合家文書)では村肝煎は少兵衛、家数一九はすべて百姓。用水は中村用水を利用。文政五年(一八二二)の早月川掛諸用水絵図(県立図書館蔵)には、早月川が形成した新扇状地を灌漑する用水が西岸だけで八筋描かれているが、中村用水は最も末端部の扇状地を灌漑する。


中村
なかむら

[現在地名]大矢野町中

大矢野島南部にあり、南のやなぎノ瀬戸を隔ててかみ島と相対する。柳浦は古くから津口として開け、「八代日記」永禄元年(一五五八)四月二〇日条に「隆鑑大矢野ヤナキニ御着之由申候」とみえる。

天草・島原の乱後、大矢野組に属し、庄屋は浦本家。正保郷帳に村名がみえ、高八六七石八斗余とある。万治二年(一六五九)石高半減により四三二石七斗余となった(天草風土考)


中村
なかむら

[現在地名]大野村中

北浦東岸に位置し、谷津が南北から鹿島台地へ深く浸入して複雑な地形を形成する。北は棚木たなき村、南は奈良毛ならけ村。鎌倉初期に常陸大掾氏一族の林六郎頼幹の二子重頼が当地に城館を構え、中村氏と称して以来、室町時代を通じて同氏の支配地であった(常陸大掾系図)。城跡は字丸屋形崎まるやかたさきの丘陵上に残る。また年未詳の常陸国行方・鹿島郡切手郷注文(税所文書)には「南条中村内友安名、同宿内友久名、同宿内春秋、同宿内小見」とある。天正一九年(一五九一)佐竹氏一族の東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「七百十六石仁斗五升 中村・井合」とある。

江戸初期に旗本領となり、寛永一〇年(一六三三)の鹿島郡中高改帳によれば、村高は一千二九石余で、小宮山・村越・鈴木・山中各氏が支配した。


中村
なかむら

[現在地名]東洋町野根のね 中村

野根浦の西、野根川河口北岸に位置し、西隣は中島なかしま村。野根郷に含まれた村で、集落は山麓と野根川の自然堤防上にある。村域には安芸郡東部唯一の弥生遺跡があり早くから開けた地と思われる。戦国期の武将惟宗氏の居城であった野根城が集落背後の山にあり、土居屋敷跡は集落西方の山麓にある。

天正一七年(一五八九)の野禰村地検帳によると上田があるのは中村だけで、荒田の割合が最も少ない。ただ「島(田)新開」の肩書をもつ区画には「川成クヱ残」の注記があり、野根川に向かって耕地を拡大しつつ洪水とたたかった様子がうかがわれる。


中村
なかむら

[現在地名]大木町三八松みやまつ

吉祥きちじよう村の東に位置し、東は小入ほそいり村、北は荒牟田あらむた村。文禄四年(一五九五)の知行方目録に村名がみえ、高一八八石余。本高は二九七石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」によると古高四九〇石・役高二七七石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高二七七石。文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田一四町八反余・開田三反余・畑四反余・居屋敷二反余。旧高旧領取調帳の高五七〇石余。嘉永元年(一八四八)当村は斗代下年継願を出した(「三潴郡奉行日記」新有馬文庫)


中村
なかむら

[現在地名]佐久市大字前山まえやま

前山村のじよう山の南麓に東西に通ずる道の南に立地。

天正二年(一五七四)の大井文書の伴野ともの一二郷の中に中村郷がみえる。元和八年(一六二二)の佐久郡高書上帳(柳沢文書)にはまだ村として名がみえない。徳川期初めは、禰津ねつ領、慶安四年(一六五一)青山氏の預り領となり、寛文二年(一六六二)から甲府領、元禄四年(一六九一)から幕府領、宝永元年(一七〇四)から明治に至るまで田野口たのくち領であった。

寛政一〇年(一七九八)田野口藩の領内村々明細帳留書(瀬下良清氏蔵)に高一六二石九斗五升八合とあり、注して「寛永七年松平采女正様御縄」とあるので、元和八年以後寛永七年(一六三〇)の間に独立していたことが推測される。


中村
なかむら

[現在地名]天竜市両島りようしま

瀬林せばやし村の北、阿多古あたご川の下流域左岸に位置する。天文一〇年(一五四一)一二月一〇日の再建棟札銘(神明宮蔵)には「中村百文」とみえる。江戸時代の領主の変遷は青谷あおや村に同じ。慶長九年(一六〇四)の阿多古内中村地詰帳(中村家文書)によれば永高四貫五二三文。元和五年(一六一九)の阿多古村指出(同文書)によると、前年分の永高五貫一八五文、うち八幡領一五〇文・同寺領一〇〇文、川成二貫八七八文を差引き、年貢高二貫五七文を鐚銭と茶五〇斤・綿一反で納めている。


中村
なかむら

[現在地名]小矢部市宮中みやなか

横谷よこだに須川すがわ両村の西、子撫こなで川左岸の平地と段丘上に立地。「延喜式」神名帳の礪波となみ郡「比売ヒメノ神社」に比定される同名社が鎮座。古くは子撫川の川上に鎮座していたが、洪水により当地に遷座。それ以前に当地は宮島みやじま郷と称したが、郷内中央に同神社が鎮座したため中村と称したという。同社は宮島郷の惣社として崇敬されてきたという(神社明細帳)。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数八、桜町組に属する。正保郷帳では高一四九石、田方四町二反余・畑方五町七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一六四石・免六ツ二歩、小物成は山役六二匁・蝋役一匁(三箇国高物成帳)


中村
なかむら

[現在地名]関川村南中みなみなか

南をおんな川が西流し、東は蛇喰じやばみ村、西は宮前みやのまえ村に接する。集落は川沿いと北の山麓の二ヵ所にある。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「加地色部入合中やしき村」とみえ、本納二一石四斗四升・縄高六三石四斗四升、家九軒とある。近世は村上藩領。正保国絵図には「中村 百四十石余」とある。万治元年(一六五八)の女川組本田畑検地寄目録(平田家文書)によれば高一五九石三斗余、田一〇町一反一畝余・畑屋敷三町二反五畝余。農間に炭焼が行われ、宝永六年(一七〇九)の年貢小物成書上帳(同文書)には炭焼釜借用料一石三斗余とある。天保一四年(一八四三)の白炭売さばきにつき連印詫書(板垣総兵衛氏蔵)によれば当村をはじめ宮前村・蛇喰村・中束なかまるけ村の女川四ヵ村で生産される白炭は上等品で、価格は一〇貫目につき銭三八〇文と村上藩から決められていた。


中村
なかむら

[現在地名]守山市中町

川田北かわたきた村の西に位置。元亀三年(一五七二)三月二五日には笠原かさはら・中村・北の者一五名が一揆に同調しないことを誓う起請文(水木文書)に署判している。元和六年代官算用状(芦浦観音寺文書)に村名がみえる。寛永石高帳によれば高三九八石余で、幕府領。田一二〇石余・畑一四六石余・永荒一三二石余(慶安高辻帳)。元禄郷帳では旗本三枝領。中山道守山宿への助郷高は一五七石であったが、文政七年(一八二四)うち五一石が以後二〇ヵ年の休高として認められている(守山甲共有文書)。慶長六年船数帳では船一七、慶安二年船数帳では船九。


中村
なかむら

[現在地名]北区八多町中はたちようなか鹿の子台南町かのこだいみなみまち一―四丁目・菖蒲しようぶおか一―二丁目・西山にしやま一―二丁目

八多川の下流域、下小名田しもおなだ村の下手に位置する有馬ありま郡の村。慶長国絵図には八多川下流両岸三ヵ所に「中村」を図示、高五九八石余とある。また有野ありの川中流域にも「中村」(のちに結場・馬場・西尾・田尾寺に分村)がみえ、高二五二石とする。しかしその後の両村の村高の推移から、国絵図では両者の高を取違えたと推定される。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳にも国絵図と同高の中村二村がみえるが、いずれをさすか不明。


中村
なかむら

[現在地名]美里町毛原中けばらなか

小西こにし村の東、毛原庄のほぼ中央部に位置し、村の中央を貴志きし川が南西に流れる。集落は貴志川の両岸に散在し、高野街道は貴志川南岸を通る。近世も高野山領で「続風土記」は村高二一八石余、家数二三、人数一五二、小祠九社(里神森・土井森ほか)を記す。また観音かんのん寺や大師堂もあった。村の南東にある高さ五間の不動ふどう滝には多くの奇岩が見られる。村の北東部にある大岩は上に窪があり山椒魚がすむというのでうお石とよばれるが、岩は登りがたく魚を見た者はないという。


中村
なかむら

[現在地名]氷見市中村

上庄かみしよう川の中流域、東はいずみ村、西は谷屋たにや村。南を上庄川が東流する。古代以来の阿努あぬ庄の中心村落であったための村名(→阿努庄。慶長一〇年(一六〇五)の検地帳(中村区有文書)が残り、田畑屋敷とも四二町八反余、分米六四三石余とある。正保郷帳の高六四三石余、田方三九町九反余・畑方三町、新田高七九石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高七六四石・免五ツ一歩、小物成は山役一三八匁・蝋役二匁(三箇国高物成帳)。宝暦一四年(一七六四)の書上(三州旧蹟志)によれば産物は茣蓙。明暦二年(一六五六)の加納組高覚帳(円仏家文書)によれば百姓六八。


中村
なかむら

[現在地名]五條市中町

大津おおつ村と黒馬くろま村の中間に位置。明応五年(一四九六)の坂合部殿証文(表野の田中家文書)に「坂合部郷殿際目之事(中略)中村(ママ)駒村之堺目ハフチノウエノ谷口より宮之下之四ツ辻より南へ廻り宮之馬場さ起よ里東へ道限り」などとみえ、坂合部さかいべ郷に属し、「五條市史」所収の文禄二年(一五九三)の坂合部郷河南方検地帳に「合百八拾五石壱斗弐升六合 内大豆四十五石八斗八升六合 中村」とある。

「五條市史」所収の文禄四年の中村検地帳によると上田七町二段九畝二一歩、中田二町一段六畝五歩、下田二町一段六畝五歩、下々田一段八歩、屋敷四段二三歩、上畠五町一畝一七歩、中畠三町一段九畝一五歩、下畠二町八段二畝一三歩、下々畠六畝八歩、田畠屋敷合二二町一段八畝一六歩、分米二七五・一四石、検地奉行は朽木元綱。


中村
なかむら

[現在地名]神崎町中村

粟賀あわが村の東に位置し、越知おち川下流域の谷間に立地する。神東じんとう郡に属した。古来播磨と但馬を結ぶ駅路の要地で、村の西端を生野いくの街道が南北に通る。中世には粟賀庄に含まれた。応永一九年(一四一二)五月二日の阿闍梨弘宣田地寄進状(法楽寺文書)に「粟賀御庄中村定智本屋敷也」とあり、阿闍梨弘宣は灯油料田として粟賀庄中村ならびに重貞名の地一五代を法楽ほうらく寺に寄進している。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田方三六八石余・畑方四五石余、「旱損所・柴山有」と注記される。元禄郷帳では高四四四石余、天保郷帳では高四七五石余、旧高旧領取調帳では高四八〇石余(うち法楽寺領三〇石)


中村
なかむら

[現在地名]中央区東雲通しののめどおり一―六丁目・八雲通やくもどおり一―六丁目・日暮通ひぐれどおり一―六丁目・吾妻通あづまどおり一―六丁目・若菜通わかなどおり一丁目

脇浜わきのはま村の北、六甲ろつこう山地南麓沖積地のやや南寄りに位置し、南端を山陽道が通る。慶長国絵図では街道の北側に中村とみえ、高二二七石余。領主の変遷は坂本村に同じ。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳、正保郷帳でも同高。寛文九年(一六六九)頃の尼崎藩青山氏領地調(加藤家文書)によれば寛文四年尼崎藩の打出高本高繰入れにより高二三七石余となる。


中村
なかむら

[現在地名]西伊豆町中

はま村の西、仁科にしな川流域に位置する。駒形こまがた神社所蔵の天正一三年(一五八五)一一月付の棟札に「仁科之庄本郷寺川村」と記される寺川てらがわは当地の小字名に残る。寛文九年(一六六九)仁科郷より分村した(掛川誌稿)峡名野かいなの(現海名野)・中村・寺川・三川さんがわ(現先川)栗原くりばらの地名がある(同書)。江戸時代の領主の変遷は田子たご村と同じ。元禄郷帳では仁科と肩書されて中村がみえ高三八二石余。


中村
なかむら

[現在地名]鰺ヶ沢町中村町

中村川左岸にあり、北はたて村、南は大宮おおみや村、東は中下なかした村、西は山に接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の鼻和はなわ郡に村名があり、高四四三・六八石、うち田方四〇八・〇六石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳に村高八七〇・一七四石、うち田方七八四・三六七石、畑方八五・八〇七石とあり、そのほか除地に薬師堂地・山神社・熊野堂地・稲荷社地が記される。元禄三年(一六九〇)には赤石組に属し、村位は上とある(平山日記)。天保五年(一八三四)の郷村帳によれば、享和三年(一八〇三)に一七〇・三石、文化七年(一八一〇)に一〇七・一石の新田高が書上げられている。


中村
なかむら

[現在地名]立山町上中かみなか

福田ふくた村の西に位置し、北は野沢新のざわしん村、南は末上野すえうわの村。伝承では彦左衛門という者が開村したといい、弓庄ゆみのしよう地区にも中村(現上市町)があり、その上の方にあるため上中村と俗称したと伝える。あきしま用水開通後の新村であろう(立山町史)。明暦二年(一六五六)の村御印留に村名がみえ、寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二三六石、免三ツ三歩、明暦二―三年の新田高三九石(三箇国高物成帳)。所属組は長倉ながくら村と同じ。


中村
なかむら

[現在地名]北区淡河町淡河おうごちようおうご

美嚢みなぎ郡に属する。淡河川流域に位置し、西は東下ひがししも村。有馬ありま街道が通る。文明一四年(一四八二)一二月二五日の淡河政盛管絃講田宛行状(「微考録」石峯寺文書)石峯しやくぶ寺管絃講田の在所と記される「中村」は当地とも考えられる。正保郷帳に中村町とみえ、東の淡河町を含み田方六八九石余・畑方八三石余、「はへ山」あり。元禄郷帳には「淡河 古ハ中村町」と注記されて中村とあり高一五三石余。天保郷帳では高一七八石余。明石藩領淡河組に所属。享保年間(一七一六―三六)の「明石記」によると古くは淡河町と一所で旧名は中村町。人数一三五・家数二四。池二七(大池・小池・西畑池・菖蒲池など)、林一・池林一、北草山(野山)・南大山(柴草山、東西三里・南北一五町で淡河庄二〇ヵ村立会)


中村
なかむら

[現在地名]奈良市中町、および学園北がくえんきた一丁目・百楽園ひやくらくえん一―二丁目・学園南がくえんみなみ三丁目の各一部など

富雄川流域にある。慶長・元和の両郷帳に霊山りようぜん寺領一〇〇石の所在を「添上郡鳥中村之内」「添下鳥見中村之内」とある。慶長郷帳の村高一千一〇〇石、うち一千石は旗本角南主馬領、一〇〇石は霊山寺領。寛永郷帳では村高一〇九八・一四石で、九九八・一四石が角南主馬領、一〇〇石が霊山寺領。


中村
なかむら

[現在地名]榛原町中

仁田にた村の西に位置し、勝間田かつまた川の左岸に立地する。西は同川を挟んで朝生あそう村。永禄一一年(一五六八)一二月二一日の徳川家康判物(久野文書)に「勝田之内中村」とみえる(→勝田・勝間田。文禄二年検地高目録では高七六一石余。正保郷帳では田方六五七石余・畑方六七石余、旗本山田領、ほかに長興ちようこう(現曹洞宗)領三五石・山王権現(現大山神社)領一石余がある。国立史料館本元禄郷帳では旗本山田・永見両氏の相給。享保郷村高帳では山田領四二四石余・掛川藩領三〇〇石の相給。掛川藩領は延享三年(一七四六)上知され、相良藩領となる(「寛政重修諸家譜」・寛延四年本多忠央領知目録)。山田領は宝暦元年(一七五一)上知され(前掲諸家譜)、相良藩領も天明七年(一七八七)までに上知されたと推定される。


中村
なかむら

[現在地名]龍野市龍野町中村

末政すえまさ村の西に位置し、揖東いつとう郡に属する。中世は小宅おやけ庄に含まれた。天正九年(一五八一)三月一八日の羽柴秀吉知行方目録(浅野家文書)に小宅庄中村とみえ、浅野長政は当村の五四二石余など都合五千六〇〇石を与えられている。慶長国絵図には中村とみえる。江戸時代の領主の変遷は寛文一二年(一六七二)龍野藩領となるまでは北龍野村と同じ、延享四年(一七四七)以後は島田しまだ村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高四五〇石余、高三七二石余。正保郷帳では田方三二二石余・畑方四九石余。


中村
なかむら

[現在地名]飯塚市中

白旗しらはた(一六三メートル)の北麓に位置し、南は幸袋こうぶくろ村。慶長石高帳に穂波ほなみ郡中村がみえ、慶長七年(一六〇二)の検地高一千三九石余、うち大豆二二四石余。領主の変遷は川津かわづ村に同じ。元禄五年(一六九二)には高一千四八石余・反別六八町六反余、家数六〇・寺一・社一、人数三〇六(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も同じ。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数七〇・人数二三八、牛三七・馬一〇(別本「続風土記附録」)。「続風土記」は合屋おうやという一谷にあるとする。嘉麻かま郡山田村(現山田市)で焼いていた高取焼の窯が寛永七年(一六三〇)頃白旗山北麓に移り、三二、三年間焼かれた(同書など)


中村
なかむら

[現在地名]和田山町中

村の東、東河とが谷の中央に位置する。正保(一六四四―四八)頃の国絵図に村名がみえ、高二〇四石余。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高二〇九石余。幕府領として推移したと考えられるが、明治二年(一八六九)に丹波篠山藩領となる。奥宮おくみや神社が鎮座。兵主ひようず神社ともいう。祭神は日本武尊とされるが(兵庫県神社誌・朝来志)、上道家日記(円明寺蔵)には道臣之命・天之種子命・天富之命を祀り、中央に地蔵菩薩、右に不動明王、左に毘沙門天王を安置するという。ほかに四森よつもり神を祀ると記す。


中村
なかむら

[現在地名]阪南町鳥取中とつとりなか

自然田じねんだ村の北に位置する。村内で菟砥うど川・山中やまなか川が合流し北流、村の北東端でさらに金熊寺きんゆうじ川と合流する。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図に村名がみえ高五三五石余。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では六一七石余。延享元年(一七四四)和泉国村高記で六五四石余とみえ、以後大幅な変化はない。領主の変遷は自然田村に同じ。元禄初年の「泉州志補遺」によると八石余の山年貢があり、作物としては「雑穀物七分作」とあり、雑穀類の多かったことがうかがわれる。村域の開発に伴って来住者が多くなり、村が古組と新組に分れて対立、両組は容易に融合せず争いを起こした。


中村
なかむら

[現在地名]龍野市揖保町揖保中いぼちよういぼなか

かみ村の南に位置し、西は揖保川を挟んで正条しようじよう(現揖保川町)。南の今市いまいち村との境を山陽道が通る。揖西いつさい郡に属する。揖保中村とも称された。文禄三年(一五九四)六月五日の豊臣秀吉知行方目録(金井文書)に中村とみえ、小出吉政は当村の二二九石余などを与えられている。慶長一二年(一六〇七)国府内蔵允は池田輝政から当村内三九石余など都合一千七六〇石を与えられている(「国府久孝家譜」鳥取県立博物館蔵)。江戸時代の領主の変遷は北龍野村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高三四八石余、高二八七石余。


中村
なかむら

[現在地名]甘木市中

長田ながた村の東、筑後川の右岸、同川支流かつら川左岸の平野部に位置する。下座げざ郡に属し、北東は片延かたのぶ村、南は筑後川を隔てて筑後国竹野たけの恵利えり(現田主丸町)。江戸時代を通じて福岡藩領。観応三年(一三五二)書写の安楽寺領注進状に「長田中村」とみえ、安楽寺(太宰府天満宮)領であった。小早川時代の指出前之帳では長田村の高に含まれて高付されていた。慶長石高帳には那珂村とみえ、慶長七年(一六〇二)の検地高一八八石余、うち大豆一八七石余。元禄五年(一六九二)には畠高は一八八石余で、田高一石余(ただし永荒)、反別一九町余、家数一〇・人数八四(田圃志)


中村
なかむら

[現在地名]京北町大字細野ほその

細川ほそかわ七ヵ村の一。大堰おおい川の支流細野川沿岸に開けた山間集落。川の上流は細川のかみ村、下流は細川のしも村。村内をかさ峠越の道(現周山街道)が通る。古代は「和名抄」に記す池辺いけのべ郷に属し、のち細川庄に含まれる。

慶長七年(一六〇二)幕府領。その後細川の上村など四ヵ村とともに二条家領に編入されるが、その時期は元禄元年(一六八八)以前と推定される。嘉永三年(一八五〇)の年貢御勘定帳(二条家文書)では、村高一〇九・九三石、免率五割七分、庄屋給一・三石、年寄給三斗、狩人給三・七八四石で、明治まで変化はない。


中村
なかむら

[現在地名]瑞穂町字鎌谷中かまだになか

南に延びる鎌谷が、中央部から東西二谷に分れたその西谷の入口にあり、わずかに北方が開ける。集落は土師はぜ川の両岸、耕地は土師川沿いと、南に延びたゆみ谷にある。東は東又ひがしまた村、南は弓谷峠を越えて多紀たき(現兵庫県)、西はおく村、北はしも村。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳では「鎌谷」を冠して記される。亀山藩領。

氏神の春日かすが神社は古来鎌谷一宮と称されていた。社伝によると創建は永享三年(一四三一)で、大和春日社より分霊を奉祀したという。


中村
なかむら

[現在地名]直入町長湯ながゆ 仲村なかむら

柚柑子ゆこうじ村の東、せり川支流の社家しやけ川上流域に位置し、仲とも記す。正保郷帳に村名がみえ、田高一〇三石余・畑高五四石余、朽網くたみ郷に属し、水損地であった。旧高旧領取調帳では高一八三石余。江戸時代の所属組は柚柑子村に同じであったが、元禄(一六八八―一七〇四)頃まで置かれた小庄屋は廃され、社家村小庄屋支配になった(「湯原組大庄屋覚書」甲斐家文書)。宝永八年(一七一一)当村氏神の社家村の籾山もみやま八幡社の祭礼復興のため金六六匁余を寄進し、御浜所普請の夫役も奉仕している(「籾山八幡社関係史料」岩屋家文書)


中村
なかむら

[現在地名]矢板市中・末広町すえひろちよう東町あずまちよう早川町はやかわちよう扇町おうぎちよう一丁目

針生はりゆう村の南に位置する。中世には塩谷氏の御前原ごぜんばら(中村)城があった。慶安郷帳では高八一石余、田方三二石余・畑方四九石余、幕府領。元禄一〇年(一六九七)旗本伊勢・岡部の二給となり、元禄郷帳では高二三二石余。延享四年(一七四七)より下総佐倉藩領と岡部の二給となり幕末に至る。旧高旧領取調帳では佐倉藩領一〇六石余・岡部領一〇五石余。天保年間(一八三〇―四四)の家数一一(改革組合村)。慶応三年(一八六七)二月七日には御前原城跡に世直し大明神の旗を立てた一五〇人の農民が結集、その数は三〇〇人に膨張し、近隣の富豪を襲撃したが、代官望月善一郎の率いる鉄砲隊・加勢人夫に包囲され壊滅、首謀者は伊豆八丈はちじよう島に流されたという。


中村
なかむら

[現在地名]東金市東中ひがしなか

三浦名みうらみよう村の東に位置する。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高二一〇石。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高二六〇石余、家数五三、与力給知。旧高旧領取調帳では東中とあり、同給知。嘉永二年(一八四九)の下総小金こがね原の鹿狩では人足一七人を負担(家徳家文書)。万延二年(一八六一)村内の者四人は作田さくだ(現九十九里町)鰯漁の水主と岡働奉公に出ている(作田家文書)。明治一二年(一八七九)東中村と改称。粟生巣あおす神社は粟生あお郷の郷社で、東金酒井氏が崇敬し、祭礼に供した粟飯を食べると病気をしないといわれる。


中村
なかむら

[現在地名]下田市中・東中ひがしなか西中にしなか

本郷ほんごう村の東、南流する稲生沢いのうざわ川東岸に位置する。集落は稲生沢川と山裾までの平地に形成される。天正一八年(一五九〇)一二月の稲沢庄中村之郷御縄打水帳(下田市教育委員会蔵)によると田一一町四反余・畑七町五反余、高一九三石余、のちに新田一町八反余、高一一石余が高入れされた。また同年月の稲沢庄本郷之内宇内村御縄打水帳(同委員会蔵)も残る。宇内うないは本郷村内であったが、江戸初期に当村に併合したという(増訂豆州志稿)。江戸時代初めは幕府領、宝永五年(一七〇八)相模小田原藩領、延享四年(一七四七)幕府領、天明四年(一七八四)下総関宿藩領、同八年幕府領、のち沼津藩領を経て嘉永七年(一八五四)から安政六年(一八五九)まで幕府領下田奉行支配、幕末は幕府直轄領となる(「韮山町史」、安政二年「中村諸歎願書留」もりおの文書)


中村
なかむら

[現在地名]明和町有爾中うになか

伊勢参宮街道南方の山麓にあり、北は下有爾しもうに村、東はみの村、南は世古せこ(現度会郡玉城町)に接し、西はいけ村に至る。下有爾・蓑村とともに古来神宮の土器製造で著名。「和名抄」に有弐うに郷がみえ、その中央に位置するため有爾中とよばれたという。近世は伊勢神宮領で慶安郷帳(明大刑博蔵)に「有爾中村」とある。


中村
なかむら

[現在地名]新発田市下中しもなか北蒲原きたかんばら加治川かじかわ村下中

たて村の北にあり、上今泉かみいまいずみ(現加治川村)の枝郷であった。はじめ村上藩領で、延宝九年(一六八一)頃の高反別免割家数人数帳(寛政一二年写、新発田市史資料)によると三日市組に属し、高三九四石三斗余、免五ツ五分、家数一五、人口一五一。のち幕府領を経て享保九年(一七二四)三日市藩領となる。同年の郷村高辻帳(伊藤喜太郎氏蔵)では高三七五石五斗余・新田高一八石七斗余。明和六年(一七六九)再び幕府領となり、寛政一二年(一八〇〇)の水原代官所村々高書上帳(小田島余吉氏蔵)に拾三ヶ組として四〇八石五斗余。


中村
なかむら

[現在地名]山田村中村

北山きたやま村の北、山田川左岸に立地する。村の中央を湯谷ゆだに川が流れ、山田川に注ぐ。近隣の室牧むろまき(現八尾町)にも同名の村があるので、山田中村とよばれることが多かった。正保郷帳に村名がみえ、高一一六石余、田方一町五反・畑方六町二反余。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高一二八石余・定免三ツ六歩五厘、新田高一七石余・平均免五歩余、定小物成は山銭銀三五匁余・蝋役銀一九匁余・漆役銀三匁余。その他、山田川簗漁のため川役銀二匁余を納めていた(若林家文書)。慶応四年(一八六八)の家数四四(うち頭振六)・人数一七三(うち頭振一五)であった(郡方人別書上帳)


中村
なかむら

[現在地名]下津町中

西流する加茂かも川に沿い、梅田うめだ村の南に位置し、東は小南こみなみ村に接する。加茂谷の中央にあたるので中村という。慶長検地高目録によると村高二〇九石余、小物成一斗一升二合。加茂組に属し、宝暦三年(一七五三)改めの加茂組書上(小松原区有文書)によると長保ちようほう寺領で、本田畑高二〇九・六二二石、新田畑高九・六二一石、開起田畑〇・四八石、戸数八三、人数四六五とある。「続風土記」では高二一九石余、家数八八、人数四一三。

村の北西梅田村との境の八王子はちおうじ山には、加茂谷の領主加茂氏の出城があり、その鎮守であったといわれる八王子社が山上にあったが、明治期(一八六八―一九一二)しも村の加茂神社に合祀された。


中村
なかむら

[現在地名]大門町中村

二口ふたくち村の南東、和田わだ川右岸に位置し、集落の西側を熊野くまの往来が通る。熊野往来から分岐した道(通称東三ヶ往来)東三ひがしさんヶ村(棚田・安吉・本田の三村を合せた通称)を通り、小杉新こすぎしん(現小杉町)に至る。当村は二口村と東三ヶ村の間にあることから中村と名付けられたと伝え、南中村とも称した。これは慶長一四年(一六〇九)高岡築城ののち草島くさじま(現富山市)への道が御鷹野道となり、また東三ヶ往来も御鷹野道であり、中村は御鷹野道の南の起点であったことからとされる。正保郷帳に村名がみえ、高二六三石余、田方一七町一反余・畑方四反余。


中村
なかむら

[現在地名]神戸町中沢なかざわ

大垣おおがき輪中の北部に位置し、南端を中山道が東西に走り、往還の向いは興福寺こうふくじ(現大垣市)、北は加納かのう村。延宝三年(一六七五)村名を中沢村と改めたが(座右秘鑑・明治大学刑事博物館本元禄郷帳)、元禄郷帳・天保郷帳には中村とある。正保郷帳に村名がみえ、大垣藩領(幕末まで変化なし)、田高三五八石余・畑高五一石余。宿村大概帳では中沢村とみえ、北東の美江寺みえじ宿(現本巣郡巣南町)へ一里二八町、西の赤坂あかさか宿(現大垣市)へ一六町、往還通北側の長さ九町二〇間に家居が少しあり、残りは並木と田畑。


中村
なかむら

[現在地名]八東町中

志谷したに村から二町ほど上流の細見ほそみ川流域に位置し、枝郷に小島こじま村がある。元禄郷帳・元禄国絵図作成に際して細見中村から中村に改称されたが(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)、その後も細見(細海)中村ともよばれた(在方諸事控・因幡志)。拝領高は二〇九石余。本免六ツ三分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高二六二石、竈数二〇余。「因幡志」では家数二五、産土神は野々宮ののみや大明神。物産は数奇屋炭・莨


中村
なかむら

[現在地名]美山町大字中

知井ちい一二ヵ村の一。由良川上流で知見谷ちみだに川・河内谷かわうちだに川が合流する地点に位置し、若狭(小浜)街道沿いに開けた山間集落。西(由良川下流)きた村、北(知見谷川上流)しも村、南(河内谷川上流)は河内谷村、北東(由良川上流)江和えわ村。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属し、鎌倉時代以降は知井庄の地。

慶長七年(一六〇二)幕府領、寛文四年(一六六四)より篠山藩領となるが、山林は享和二年(一八〇二)より禁裏御料となり京都代官の支配を受けた。


中村
なかむら

[現在地名]名田庄村中

みなみ川を挟んでしも村に対する。中世には名田庄上庄に含まれ、年不詳若狭名田庄調度文書案(大徳寺文書)に「中村」とみえる。慶長一二年(一六〇七)頃、入会山の柴刈慣行に関して藩と当村の間で係争があったらしく、同年三月二六日付で小浜藩主京極家家臣隠岐長門守ほか連署の当村百姓中宛文書(「遠敷郡誌」所収)に「今度一つ谷山のせんさくの儀隣郷の百姓召寄様子相尋候処、先規により彼山へ中村の者共入来候由以誓紙申候間、草柴の儀は如前申付候間、可為其意候雖、御用木は御山奉行切次第に切出し可申候」とある。採草は従来どおり認められているが、用木は藩の管理下にあったことがわかる。

正保郷帳によれば高一七四石余で田方一四三石余・畠方三〇石余。


中村
なかむら

[現在地名]松山市中村一―五丁目・立花たちばな三丁目・小坂こさか四丁目・祇園町ぎおんまち

松山平野のほぼ中央平坦部に位置する農村。東は小坂村、西は立花村、南は尼山あまやま村・浅生田あそうだ村、北は立花村市街分と石手いして川北堤で接している。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の温泉郡の項に「中村 小川有」とある。

古代には温泉郡桑原くわばら(和名抄)に属したと考えられる。中世には河野氏の支配下にあった。


中村
なかむら

[現在地名]室生村大字三本松さんぼんまつ

長瀬ながせ村の西、宇陀川沿いにある。元禄一五年(一七〇二)までに長瀬村から分村。旧のまま津藩領。しかし天保郷帳では長瀬村の中に含まれている。「宗国史」によると、戸数三四、人口一六三とある。明治八年(一八七五)九月、長瀬・髭無ひげなしかみ古大野ふろうのの四村と合併、三本松村と改称した。

琴引ことひきの国道沿いに白鳥しらとり神社が鎮座、日本武尊の白鳥伝説が残る(→白鳥居神社


中村
なかむら

[現在地名]伊勢市中村町

五十鈴川左岸にある。条里制遺構が認められ地割方向はほぼ正南北である。弘安二年(一二七九)一一月六日の荒木田資晴畠売券(徴古文府)に「在度会郡宇治郷中村字矢前畠」と記されている。古くは「川原里」といわれ「太神宮諸雑事記」の仁寿三年(八五三)八月の条に「宇治郷十一条廿三布施田 同条廿四川原里等之間」とあり、上中かみなか村と下中村に二分され、上は納米のうしね・下は楊田ようだといわれた。

宇治六郷のうち下四郷の一で、伊勢神宮領として宇治会合に属した。寛永二〇年(一六四三)の内外宮領図(神宮文庫蔵)の裏書によれば当村は寺在家合計二三一、人数八二六。


中村
なかむら

[現在地名]茨木市中村町・末広すえひろ

戸伏とぶし村の南にあり、東を安威あい川が流れる。慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図に村名がみえるが、村高は「橋内村」四二二石余に含まれた。元和初年の摂津一国高御改帳には「中村・橋(内)村」として高四二二石余が記され、高槻藩内藤信正領。江戸時代にはほぼ戸伏村の枝郷として把握され(元禄郷帳・天保郷帳)、領主も同村に同じ。享保二〇年(一七三五)摂河泉石高調によると中村の村高は二〇八石余。


中村
なかむら

[現在地名]養老町中・色目いろめ

宇田うた村の北西、牧田まきだ川左岸にある。西は橋爪はしづめ村。慶長郷帳に村名がみえ、高二四五石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳によると徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳では大垣藩領で、田二二一石余・畑二三石余。寛文八年(一六六八)の検地帳(高木文書)によると上田八町六反余・中田六町九反余・下田一一町四反余、上畑一町一反余・中畑一町余・下畑五町七反余・屋敷六反余、惣分米四二四石余。


中村
なかむら

[現在地名]鳥取市中村

篠坂しのざか村の西、有富ありどめ川沿いに位置する。当村の南部から西に山越えすると松上まつがみ谷の上原うえばら村へ半里で、ウツノベ坂とよぶ(因幡志)。正保国絵図には有富中村と記載されていたが、元禄国絵図作成に際し中村と変更された(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。拝領高は三八一石余、本免五ツ八分。藪役銀六匁・山役銀七匁が課されていた(藩史)。寺尾・仙石・各務・永原・野間各氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数三六。天保一四年(一八四三)の村々人数増減書上帳(加藤家文書)によると男女各六八。


中村
なかむら

[現在地名]杵築市猪尾いのお

古くは杵築城の南方を流れる八坂やさか川南岸沿いにあったが、寛文七年(一六六七)三川みかわ新田が造成されてから、三川村南方の台地と猪尾川の流域となった。西は幕府領野多のだ村、東は片野かたの村。小倉藩元和人畜改帳に中村とみえ、高一三三石余、家数一二・人数六一(うち百姓一二・名子七)、牛一八とある。元禄郷帳では高九六石余。文久三年(一八六三)の田畑根付目録(工藤家文書)には田一一町七反・畑一六町五反、村役人は弁差一・山之口一。


中村
なかむら

[現在地名]玉川村中

蛇行しながら北流する阿武隈川東岸の平坦地と阿武隈高地西縁の丘陵地に位置し、南は小高おだか村、北東は岩法寺がんぽうじ村。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高三六三石余。寛永四年(一六二七)以降白河藩領、寛保元年(一七四一)幕府領、嘉永三年(一八五〇)下総多古藩領となり幕末に至る。白河古領村郷高帳による高四二四石余。旧高旧領取調帳では高四一四石余。天明元年(一七八一)に岩法寺村との秣場境界争論、寛政四年(一七九二)に小高村との用水争論が起こったが、いずれも和解している(首藤家文書・岩谷家文書)


中村
なかむら

[現在地名]福井市上中かみなか町・下中しもなか

勝山街道の南側、四井よつい村の東北方に位置し、上流から上中・下中両村に分れる。北は藤島ふじしま村、北西は新保しんぼ村に接する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「中村之郷」と書かれ、正保郷帳から上中村・下中村に分村し、前者は田方一千八石余・畠方二一七石余、後者は田方五九〇石余・畠方六八石。福井藩領。

上中村の枝村追分おいわけは勝山街道と永平寺街道の分岐点にある集落で、江戸時代末期には茶屋が立ち、名物の鮎の木葉鮓は旅人に喜ばれた。


中村
なかむら

[現在地名]福部村中

南田のうだ村の南、塩見しおみ川流域に位置する。支村に「加須加セ」があった(因幡志)。正保期(一六四四―四八)の作成と推定される因幡国絵図(県立博物館蔵)には塩見中しおみなか村とみえるが、元禄一四年(一七〇一)中村に改称した(「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。拝領高は二〇八石余、本免は五ツ一分。藪役銀二匁二分余・罩役米一斗余を課されており(藩史)、山岡氏・平野氏の給地があった(給人所付帳)


中村
なかむら

[現在地名]三条市北中きたなか東三条ひがしさんじよう一―二丁目・興野こうや三丁目

田島たじま村の東に位置する。元禄一二年(一六九九)の村形新入高帳(新発田市立図書館蔵)に、古くは長右衛門ちようえもん新田と称したとあり、正保国絵図にも長右衛門新田村として高一〇八石余。当時幕府領であるが、開村年代は不明。慶安二年(一六四九)村上藩領となる。貞享元年(一六八四)の郷村高辻帳には中村と記され、高一一二石四升三合。


中村
なかむら

[現在地名]身延町横根中よこねなか

南流する富士川西岸、東流して同川に注ぐ小渓流が谷を刻む起伏に富んだ丘陵地に位置し、枝郷として大久保おおくぼがある。「甲斐国志」に中村と横根村は「里正ヲ兼帯シ、横根中村ト称シテ一村ノ如ク、境界相交ハレリ」と記される。慶長古高帳に中村とみえ、高二四石余。延宝五年(一六七七)改の寛文一〇年(一六七〇)の検地帳(県立図書館蔵)では高三六石余、反別は中田二反余・下田三反余・下々田一町一反余・山田九畝余、中畑二町余・下畑二町五反余・下々畑三町九反余・山畑一町四反余・苅立畑六町余、屋敷三反余、ほかに唯正寺(現日蓮宗唯勝寺)、神明・天神・若宮の除地がある。


中村
なかむら

[現在地名]梓川村大字梓 中

上野原うえのはらの南端段丘上の縁辺に南北に集落が立地。初見は寛永一九年(一六四二)の信州松本御領分村々高附帳である。上野郷の本郷。西牧氏の初期の居館地。水田は段丘下の降旗田圃ふるはたたんぼにある。人口は、享保年代(一七一六―三六)以降寛政年代(一七八九―一八〇一)まで停滞し、文化年代(一八〇四―一八)以降若干の増加をみせている。戸数は、慶安四年(一六五一)一三戸(うち、門屋二)、元禄一五年(一七〇二)二三戸(うち、門屋七)、宝暦一二年(一七六二)二四戸(うち、相地一、借屋一、門屋二)、安永四年(一七七五)二五戸(うち、相地一、借屋一)、天保六年(一八三五)三六戸(うち、相地八)、慶応元年(一八六五)三六戸(うち、相地一)とある。


中村
なかむら

[現在地名]水原町上中かみなか

東は中野目なかのめ村、西は市野山いちのやま村。元和九年(一六二三)の堀直寄知行宛行目録(「堀鉄団公記」所収)に高一四二石一斗九升七合とあり、村上藩主から堀定右衛門に宛行われている。寛文一三年(一六七三)の組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では堀越組に属し、貞享元年(一六八四)の郷村高辻帳には高七八石一斗余とある。宝永七年(一七一〇)幕府領となり、元文二年(一七三七)の堀越組御検見村順御案内帳(北方文化博物館蔵)によれば、高八六石一斗、田反別五町六反余・畑反別一町九反余、家数二二(高持一〇・高無一二)、男六八・女五一。


中村
なかむら

[現在地名]坂北村中村

東は青柳あおやぎ村と苅谷沢かりやさわ村に接し、西は別所べつしよ村に隣接する。江戸時代の初めから会田あいだ組に属し、宝暦年代(一七五一―六四)に坂北組に属した。松本藩領、のち幕府領。

「信府統記」に「御朱印高百九十二石五斗三升三合」とあり、享保九年(一七二四)当時の石高は四二九石八斗五升二合五勺で、田方三一一石二斗八升二合五勺、畑方は七六石八合である。


中村
なかむら

[現在地名]世羅西町中

黒川くろかわ村を挟んで南北に二分される。南は津口つくち(現美波羅川)支流域の中村本郷と国実くにざね谷を中心とする一帯で、北の津口川南岸の瀬戸せと(敷名谷)秀末ひですえ谷の一帯は飛郷。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳に「吉原中ノ村」一一八石四斗五合とあり、かつては吉原よしわら(現賀茂郡豊栄町)のうちであった。「芸藩通志」には中村とあり、田畝二一町五反三歩とあるが、「世羅郡誌」によると文政三年(一八二〇)には実畝二一町(一一町か)九畝三歩のうち、田一八町(八町か)七反七畝二一歩・畠二町一反四畝三歩・宅地一反七畝九歩で、本途物成は九五石六斗七升一合、万延元年(一八六〇)には高五石三斗四升四合六勺、全村が明知。


中村
なかむら

[現在地名]泉南市信達岡中しんだちおかなか

幡代はたしろ村の南に位置し、南北に細長い村。村の北部を紀州街道が北東から南西に向けて通り、集落は街道沿いにある。平地は北部を流れる金熊寺きんゆうじ川沿いにあるのみで大半は山間地。慶長一〇年(一六〇五)の和泉国絵図に「しんたち内中村」とみえ、高五九九石余。元和五年(一六一九)の松平周防守ヨリ引渡岸和田藩郷村帳(田中家文書)では六五二石余。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では七二〇石余。延享元年(一七四四)の和泉国村高記では七九七石余とみえ、以降大幅な変化はない。


中村
なかむら

[現在地名]仁賀保町中三地なかみち 中村

白雪しらゆき川中流の低地にあり、北は三日市みつかいち村、東は中野なかの村、南は寺田てらだ村、西は三十野みその村に接する。

由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に仁賀保郷の一村として村名がある。支配の変遷は芹田せりた村と同じで、寛永一七年(一六四〇)以降本荘藩六郷氏領となる。

元和九年(一六二三)の高は一〇〇石四斗五升(「仁賀保総高改」渡辺文書)


中村
なかむら

[現在地名]伊予市中村

西のもり村とともに平地部の西南端を占める村で、山地部を流れてきた森川がこの村で初めて平地部に入る。山崎やまざき郷一〇村の一で、寛永一二年(一六三五)の替地以来大洲藩領。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の伊予郡の項に「中村 日損所」、高三〇一石六升一合と記す。宝暦五年(一七五五)の用高(大洲藩検地による村高)は三七八石二斗八升三合である。元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」に村の産物は「米・むしろ」とあり天保二年(一八三一)の戸数六〇戸、人口二三六人である(宮内家文書)


中村
なかむら

[現在地名]矢掛町中

里山田さとやまだ村の東にあり、東は横谷よこだに村、東流する小田川の右岸にあたる。あお谷・安居寺あんごじ谷には弥生時代の集団墳墓群があり、古代小田郡草壁くさかべ(和名抄)の郷域とされる。寛永備中国絵図では旗本花房領、高九四二石余。正保郷帳では枝村に白江しろえ村が載る。元禄二年(一六八九)の備中国幕府領村々覚帳(福武文書)では新検高七六四石余、田方四六町三反余・畑屋敷二七町余。


中村
なかむら

[現在地名]新津市中村

新津丘陵の西側に位置し、西は程島ほどじま村、南は谷を隔てて東島ひがしじま村。直江兼続被官河村彦左衛門から新津丹波守に宛てた年不詳の知行所之一札(「高志路」所収)に村名がみえる。慶長三年(一五九八)頃の新発田藩の御領内高付帳(新発田市史資料)に九三石九斗九升とあり、同一〇年の給知方村々高目録(同書)に毛付八〇石五斗余、荒一七〇石八斗余と記される。同一五年頃の給知方ほど役帳(同書)によれば、五斗の炉役が三軒に課されている。寛文四年(一六六四)の新発田藩領分郷村高辻帳には「新津中村」とあって二七六石一斗余の村高が記される。


中村
なかむら

[現在地名]阿南市日開野町ひがいのちよう

領家りようけ村の南に位置し、南は日開野村。慶長二年(一五九七)の分限帳に中村とみえ、天神てんじんとともに細山主水佐知行分の領家二六二石余に含まれた。慶長期のものと推定される国絵図には「竜うけ」(領家)の南に村名が記される。正保国絵図には中村七二石余の記載はあるが、位置が那賀なか川の北に記されているのは明らかな誤記。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方五九石余・畠方一二石余。天明六年(一七八六)の村々浦里男女人改帳(守野家文書)では男五・女六。「阿波志」では領家村の支落とされ、家数一九・人数八九。文化八年(一八一一)の領家村之内中村棟付人数改帳(阿南市教育委員会社会教育課文書)の末尾に「右者ども土地は日開野村より裁判仕来り、家人は領家より仕来り候」の記載がある。


中村
なかむら

[現在地名]西区平野町中津ひらのちようなかつ

明石川中流の右岸に位置し、南は上津橋かみつはし村。慶長国絵図では左岸湾曲部に「下中村」とみえる。慶長一三年(一六〇八)の高三五〇石余(「平野中村検地帳写」藤田家文書)。正保郷帳に中村とあり、田方三二三石余・畑方一七石余、松山あり。明石藩領野々上組に所属。宝暦一〇年(一七六〇)の万覚帳(藤田家文書)によると古田二〇町六反・古畑一町一反・新田一町六反・新畑三町、家数五〇・人数二九一、牛一九。


中村
なかむら

[現在地名]津幡町下中しもなか

材木ざいもく川へ注ぐ藤又ふじまた川に沿い、上藤又村と下藤又村の中間に位置。地名もその位置に由来するという。正保郷帳では高八〇石余、田方二町八反・畑方二町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一一八石、免六ツ、小物成は山役三二四匁・野役二匁・蝋役一匁・綿役一匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の百姓数一一(高免付給人帳)。文化八年(一八一一)の産物は牽売米一五〇石ほど・蚕繭三五貫目ほど・渋柿二五俵ほど・割木二千貫目ほど・杪一五〇束ほど・菜種八斗ほど・柴一千束ほど・炭一〇〇俵ほど・楮皮一三束ほど(「村々諸産物書上帳」新田文書)


中村
なかむら

[現在地名]見附市新潟にいがた白銀しろがね

黒坂くろさか村の南、集落は東山丘陵西麓にある。南は内町うちまち村に続く。正中二年(一三二五)頃の大見・小諸両氏所領相伝系図(大見安田氏文書)に小諸兼氏が中村領主とある。元和五年(一六一九)の堀主膳触書(岩本功氏蔵)によると、見附組源右衛門触下の村。新潟村肝煎小林家の「稿本小林家記録」(新潟区有文書)によると、元和年間に新潟村より分れたと伝える。正保国絵図に高一一〇石余、村松藩領。享保七年(一七二二)の本所組村々地方善悪帳(小林麗子氏蔵)では田七町五反余。


中村
なかむら

[現在地名]柳津町久保田くぼた

銀山ぎんざん街道の駅所田代たしろ村から牧沢まきざわ村に通ずる中間地点に位置する小村で、田代村の南一二町にある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高三〇石余。寛永二〇年(一六四三)から南山御蔵入領となり、延宝九年(一六八一)の滝谷組高反別古記(片山家文書)では高四一石余、免三ツ九分、家数一〇、竈一四、男二四・女三〇とある。村の共同墓地には享保年中(一七一六―三六)の墓石が多く、著しい欠落状況を示している(柳津町誌)


中村
なかむら

[現在地名]由良町中

由良川に沿って開けた地域の中央部に位置し、北東の上流ははた村、南西下流は門前もんぜん村。慶長検地高目録によれば村高三六六石余、小物成七斗四升二合。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」によると、田畑二四町九反余、高三六九石余、家数三四、人口一六一、牛一三、馬二。家の内訳は本役一五・半役六・無役九・庄屋二。志賀組に属し、幕末期の「続風土記」では村高三七二石余、家数三四、人数一二九となっており、人数は減少している。


中村
なかむら

[現在地名]蒲原町中

東は小金こがね村、南は駿河湾に面し、南端の平野を東西に東海道が通る。永禄一二年(一五六九)四月一四日の今川氏真判物写(諸州古文書)によると、由比美作分「中村之内五拾貫文」の所領が恩賞として原河讃岐入道に宛行われた。旧高旧領取調帳によると高九二石余、幕府領。片浜三村の一で、享保八年(一七二三)蒲原宿から独立(蒲原町史)。幕末には塩の製造だけでなく販売を行うようになり、嘉永五年(一八五二)当村の実石忠兵衛は内房うつぶさ(現芝川町)由比ゆい(現由比町)の内陸部方面に馬で塩を販売している(「塩馬帳」実石家文書)


中村
なかむら

[現在地名]夢前町宮置みやおき

置塩町おしおまち村の西、夢前川中流域右岸に位置する。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では置塩村に含まれ、貞享元年(一六八四)の本多忠国領知目録(本多家文書)には独立して村名がみえる。元禄郷帳には「古ハ置塩村」と注記され、高二二〇石余。宝永年間(一七〇四―一一)の前之庄組高反別帳写(清瀬家文書)では高三八二石余(うち無土百姓弁三石余)、反別は田方一二町八反余・畑方七町五反余、免四ツ八分、家数五九・人数二六四。


中村
なかむら

[現在地名]静岡市中村町

中野なかの新田の東に位置し、北は見瀬みせ村・中原なかはら村。寛永九年(一六三二)幕府領、宝永二年(一七〇五)一部が旗本石谷領となる(「寛政重修諸家譜」など)。元禄郷帳では高一八一石余。旧高旧領取調帳では幕府領一四八石余・石谷領三三石余、宗泉そうせん(現曹洞宗)除地一石余。


中村
なかむら

[現在地名]岩室村西中にしなか

北流する西にし川と川に挟まれた低地にあり、北は潟上かたがみ村、南は夏井なつい村。慶安三年(一六五〇)頃までに開発され、元禄郷帳には舟越ふなこし村枝郷として村名がみえ、高一〇六石四斗余。天保郷帳では三九一石七斗余と村高が増加している。


中村
なかむら

[現在地名]山崎町中

揖保いぼ川の支流三谷みたに川の下流域に位置し、南西は高所こうぞ村。中世は石作いしつくり庄のうちに含まれていた。年月日未詳の播磨国石作庄年貢・段銭等算用状(久我家文書)に「中村」の名主の名がみえ、中村には番匠も居住していた。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は山崎村と同じ。正保郷帳では田方二七二石余・畠方八五石余。下村氏手控帳(下村家文書)によると、寛文―延宝(一六六一―八一)には四ツ成高五八五石余、田一八町七反余・畑七町一反余、小物成銀二〇匁余(山畑役一〇匁・茶役八匁・楮役二匁余)・桑役(真綿)二三匁余、家数三五・人数二五〇、馬一〇・牛二〇。


中村
なかむら

[現在地名]鳥海村中村

笹子じねご川の上流ひのと川左岸にあり、東に上笹子かみじねご村、西に天神てんじん村が隣接する。

宝暦八年(一七五八)の御領分覚書(山懐の村)に、本田二四〇石七斗四升三合、新田一石二升とあり、家数三一軒、人数二〇一人で、小名主の下に三人の組頭の名が記される。

明治五年(一八七二)には一八五石八斗二合、段別二一町五段八畝二八歩、うち一五町七段八畝が田で、三町六段八畝一五歩が畑、二町一段二畝九歩が屋敷とあり、戸数四二軒、馬数三七匹(「羽後国由利郡中村差出明細帳」高橋新兵衛氏蔵)


中村
なかむら

[現在地名]新吉富村中村

吉岡よしおか村の北西に位置し、西境付近を佐井さい川が北流する。南の大瀬だいのせ村との境にだい池がある。江戸時代の領主の変遷は垂水たるみ村に同じ。正保国絵図に村名がみえ、高二四〇石余。天保三年(一八三二)の中津藩領郷村高帳下書では高三三二石余、うち改出高六五石余、享保七年(一七二二)から文政八年(一八二五)までの間の改出高二石余。


中村
なかむら

[現在地名]織田町中

織田村の西北方山麓に位置する。享禄元年(一五二八)一一月二八日付織田寺々庫収納田数帳(劔神社文書)に「惣社家細分」として「弐斗弐升 中村ニ在之 朔弊田」と記され、つるぎ大明神領に含まれていた。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「大田庄」に含まれ、正保郷帳によれば田方二二二石余・畠方三七石余。はじめ福井藩領で、寛永元年(一六二四)以後大野藩領。

真宗誠照寺派の浄源じようげん寺はもと天台宗で、天正九年(一五八一)道林のとき転派したと伝える。


中村
なかむら

[現在地名]明科町南陸郷みなみりくごう 中村

松本藩領安曇あずみ池田いけだ組の一村。さい川の左岸に位置し、北は小泉こいずみ村、南は荻原おぎわら村に接する。

天正検地では池田郷二千四〇二石一升八合に含まれていたが、寛永三年(一六二六)検地の際に高分れして五一石五斗二升四合の村となった。「信府統記」によると、「御朱印高九十六石八斗五升四合」、天保三年(一八三二)から明治までは九七石九斗三升三勺であった。


中村
なかむら

[現在地名]和歌山市山東中さんどうなか

名草なくさ郡に属し、和田わだ川上流、伊太祈曾いだきそ村の東にある。小名に大谷おおたにがあり、村の東部にある鶏とさか(一六七・五メートル)は松茸の産地であった(続風土記)。古代末期から中世にかけて山東庄に含まれた。慶長検地高目録によると高三八八石余、小物成六斗五升五合。


中村
なかむら

[現在地名]広神村東中ひがしなか

破間あぶるま川右岸にある。北は田尻たじり村・山口やまぐち村、南は下倉したぐら(現堀之内町)に続く。正保国絵図に村名がみえ、高四一石余。天和三年郷帳では高五八石九斗余、ほかに同所新田二六石余がある。享保五年(一七二〇)の山論吟味落着申渡書(佐藤公夫氏蔵)によると、下倉村境の山林をめぐって争論が起こったが、当村の提出した天和検地の際の絵図が証拠となり、当村の勝訴となった。


中村
なかむら

[現在地名]篠山市中

小倉おぐら村の南西にあり、大芋おくも川が流れる。東部にいちみや神社が鎮座するが、明応六年(一四九七)九月五日の大芋慶氏当知行分目録(大芋文書)に記される「一宮杉ノ下」は同社をさすか。北部に山上氏の居城と伝える中村城があり、その麓に天正一二年(一五八四)の創立という蓮台れんだい寺があった。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「おくも中村」とみえ、高一七六石余。


中村
なかむら

[現在地名]北区大森中町おおもりなかまち

桟敷さじきヶ嶽の西南、清滝きよたき川に西町にしまち川が注ぐ辺りに開けた山村。近世初頭までは、ひがし西河内にしかわち村とともに小野おの村と総称された(→西河内村。享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳による村高は一六七石一斗七升余で、他の小野郷の村々と同じくすべてが仙洞御料。


中村
なかのむら

[現在地名]和歌山市楠見中くすみなか

名草なくさ郡に属し、市小路いちしようじ村の東に連なる。村の北辺を淡島街道(旧南海道)が通り、大谷おおたに村と相対する。古くは国衙領楠見村の中心地で、永承三年(一〇四八)名草郡郡許院収納米帳(九条家本「延喜式」巻八裏文書)にみえる「楠見上村」にあたると思われる。村内には雑賀一揆衆の弾塚四郎大夫なる者の館跡と伝えられる所があるが、不詳。永禄五年(一五六二)七月吉日付湯河直春起請文(湯河家文書)にみえる楠見の藤内大夫と関係のある者であろうか。


中村
なかむら

[現在地名]和泉市葛の葉くずのは町・富秋とみあき町・鶴山台つるやまだい一―三丁目

現和泉市の北端に位置し、村の東端に歌枕で知られる信太しのだ森がある。慶長九年(一六〇四)の信太郷中村御指出帳(東京大学史料編纂所蔵)によると、高二八七石余、うち三石余永荒、毛付高二八四石余、うち三八石余は畑方。同一〇年の和泉国絵図に村名はみえるが村高は不明。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では高二九四石余。


中村
なかむら

[現在地名]高森町中

高森町のほぼ中央にある明治九年(一八七六)成立の村名。川走かわばしり川の上流一帯に位置し、東は尾下おくだり村、西は上色見かみしきみ村、北は河原かわら村、南は矢津田やつだ村に接する。近世には北から峯宿みねのしゆく村・中村・祭場まつりば村と並ぶ。野尻手永に属し、「国誌」に峯宿村一五七石余、中村一八七石余、祭場村一〇八石余とある。


中村
なかむら

[現在地名]和歌山市和佐中わさなか

名草なくさ郡に属し、下和佐しもわさ村の北東にある。永承三年(一〇四八)名草郡郡許院収納米帳(九条家本「延喜式」巻八裏文書)に「和佐村廿束、同仲村十束」とみえ、この時期名草郡四院の一つ郡許ぐんこ院に属した。中世は和佐庄に含まれ、永和二年(一三七六)一一月一〇日付藤原友清畠地寄進状(和佐家文書)に「合壱段小者在所和佐中村北出口進士家東裏」とみえる。


中村
なかむら

[現在地名]橿原市中町

寺川南岸の平坦村落。東は東竹田ひがしたけだ村、西は葛本くずもと村。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「七反切イせキノ前 中村ノ東河ヨリ東(中略)一反 ナカノソ井 中村ノ前道ヨリ南ノ町北ノナワモト二反三反目」「一反タナカ、一反ヲヽナワシロ 中村西南ノ道ヨリ北ウラ」とあり、小字伊勢記いせきなかそえ田中たなか於苗代おなわしろが現存。


中村
なかむら

[現在地名]氷上町中

南端を葛野かどの川が流れ、東はしも村、北はカヤマチ山(七四八・三メートル)。西方にある三方みかた村の枝村(丹波志)。慶長三年(一五九八)織田信包(柏原藩)領となる。正保郷帳に村名がみえ田高一九石余・畠高一〇七石余、林あり、日損・水損少しあり。柏原藩領。慶安三年(一六五〇)幕府領、貞享元年(一六八四)旗本柴田領となる(「寛政重修諸家譜」など)


中村
なかむら

[現在地名]明和町中村

はらい川の西方にあり、東は南藤原みなみふじわら村、北は川尻かわしり村、南は田屋たや村、西は大垣内おおがいと(現松阪市)に通ずる。慶長一三年(一六〇八)より津藩領。村内の畠田はたけだ神社は明治四一年(一九〇八)北藤原畠田神社へ合祀。


中村
なかむら

[現在地名]広陵町大字中

高田たかだ川の東、みなみ村の南に立地。慶長郷帳による村高は二五六・四一石、幕府領(代官北見勝忠)。元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領となり、廃藩置県に至る。その間同藩の二割半無地高増政策で村高は三二七・六八八石となる。枝郷に小北おぎた村がある。享保九年(一七二四)段別二一町四段一畝一九歩。家数五五(本百姓四六、水呑九)、人数二三一(男一一五、女一一五、僧一)、牛二、職人二(大工一、桶や一)、商人三(綿中買一、古手屋一、油屋一)から構成されていた(和州御領郷鑑)


中村
なかむら

[現在地名]東予市三芳みよし 中村

周桑しゆうそう平野の北部、大明神だいみようじん川下流の左岸の村。黒本くろもと村の北に位置し、街村形態を呈する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)桑村くわむら郡の項に「中村 小川有」とみえ、石高は八四七石八斗七升、うち田方七七六石九斗、畠方七〇石八斗八升とあり、田地卓越の村である。元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記の石高も同じで、明和二年(一七六五)の石高は八八三石一斗二升五合となっている。


中村
なかむら

[現在地名]但東町東中ひがしなか

うしろ村の南西、出石川の流域に位置する。南西は小坂こざこ村。近世の領主の変遷は水石みずし村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高一一一石余。出石封内明細帳によると拝領高九八石余・改出高五九石余、これらの内訳は屋敷四石余・麻畑七石余・田方一三四石余・畑方一一石余。小物成として茶代米二石五斗余・山手米四斗余、刈畑役の小豆二斗・粟五斗・蕎麦八斗余・稗六斗余、桑代の真綿二貫五七一匁余ほかを上納し、家数三三・人数一七〇。


中村
なかむら

[現在地名]和知町字中

坂原さかはら村の西、由良川北岸にある南北に細長い村(東西は四〇〇メートル、南北三・五キロ)。北縁には六〇〇メートルほどの山があり、南部に由良川に沿って耕地と集落がある。南は由良川を越えて安栖里あせり村、西はかど村・広瀬ひろせ村、北は西河内にしかわち村。園部藩領。中世は和智わち庄の地。


中村
なかむら

[現在地名]入善町野中のなか

黒部川右岸の河岸段丘上、舟見野ふなみの一六ヵ村の中心部にあったため中村とよばれたという。北は二つ屋ふたつや村・島迷しまめぐり村、南は愛場あいば村。寛文三年(一六六三)の仮御印のままで草高五二五石余、免一ツ五歩(三箇国高物成帳)。文政八年(一八二五)の家数三一(「村々高免等書上」奥野家文書)


中村
なかむら

[現在地名]粕川村中

前皆戸まえがいと村の北に位置。寛文郷帳では田方四〇七石余・畑方一五四石余、前橋藩領。寛延二年(一七四九)の村明細帳(角田文書)では高五六二石余、反別三二町六反余、うち田一九町八反余・畑一二町八反余。人数二五七、牛馬一六。田の肥料は麦藁・干鰯・刈敷。刈敷は赤城野から取る。畑の肥料は小糠・干鰯・秣。秣は同じく赤城野から。「かいこ之儀、当村中にて壱ケ年ニ金拾八九両程、大胡・大間々ニ而糸まゆニ而売買仕候、先規より御年貢之次合ニハ不仕候」とある。


中村
なかむら

[現在地名]浅井町草野くさの

野瀬のせ村の北西、西辺を草野川が南流する。寛永石高帳に村名がみえ、高一一九石余。領主の変遷は村に同じ。嘉永二年(一八四九)中山道柏原かしわばら宿(現坂田郡山東町)の加助郷を命じられた(東浅井郡志)。明治七年(一八七四)草野村と改称。


中村
なかむら

[現在地名]秋田市上新城中かみしんじようなか

五十丁ごじつちよう村の南西。新城川とその支流みち川が合流する丘陵下の平地に集落がある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に中村として二三〇石とある。村の西方一・五キロの丘陵に岩城いわき館があった。

享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に、「中村 廿七軒」とあり、支郷の四十石しじつこく村について「古来より人居一軒御座候処に当六年以前に中村へ引越申候。


中村
なかむら

[現在地名]日田市大肥おおひ 大鶴町おおつるまち

高野たかの村の北方に位置し、大肥川が南流する。慶長豊後国絵図に村名がみえ、高四一六石余。正保郷帳に村名がみえ、田高三二〇石余・畑高九六石余で、大井おおい庄に属した。寛文四年(一六六四)の小川代官支配高帳(長野家文書)では免三ツ二分七厘で、永荒六〇石余。享保八年(一七二三)の日田郡毛付高帳(千原家文書)では毛付高二五三石余。


中村
なかむら

[現在地名]古座川町明神みようじん

古座川と支流川との合流地の西にあり、古座川を隔てて閏野うるの村と相対する。慶長検地高目録によると村高一二四石余、小物成七斗三升二合。古座組に属し、「続風土記」に家数二三、人数九六と記す。慶安三年(一六五〇)の古座組在々郷組之覚(古座町教育委員会保管)によれば、浦組制度による当村の動員体制は家数二〇、人数二四、舟七(川舟)、鉄砲三であった。


中村
なかむら

[現在地名]三和村下中しもなか

松之山まつのやま街道沿いにあり、南は村、北は柳林やなぎばやし村に接する。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「角越源七郎分此外四方分中村 中」とみえ、本納一一九石二斗・縄高四四三石八斗七升八合、家二三軒・七九人とある。正保国絵図では高六六九石余。


中村
なかむら

[現在地名]姫路市太市中おおいちなか

相野あいの村の南に位置し、中央部を大津茂おおつも川が南流する。揖東いつとう郡に属する。東西に古代から中世にかけて山陽道が通じていた。慶長一二年(一六〇七)一〇月二八日、国府内蔵允は池田輝政から「揖東郡大内々中村内」で二一七石余などを宛行われている(「国府久孝家譜」鳥取県立博物館蔵)


中村
なかむら

[現在地名]会津高田町松坂まつざか

みや川最上流部にあり、北は中在家なかざいけ村、南は入谷いりや村。近世は会津領から寛永二〇年(一六四三)以降南山御蔵入領で、冑組に属した。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に中村とあり、高九石余。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では仲村とあり、高九石余。


中村
なかむら

[現在地名]三島市中

三島町の南、大場だいば川流域西岸に位置する。三島町から下田街道が南下する。地名は同川と支流の御殿ごてん川に挟まれた中間に位置することに由来するという(増訂豆州志稿)。文禄三年(一五九四)の検地帳写(鈴木家文書)によると高五〇三石余。宝暦六年(一七五六)の村差出帳(同文書)では家数二六・人数九九。初め幕府領、明和六年(一七六九)上野館林藩領、天明五年(一七八五)駿河沼津藩領となり幕末に至る(韮山町史)


中村
なかむら

[現在地名]美里町中

貴志きし川北岸に沿って東西に長い村で、北は猿河谷さるこだに村、上流の東北は小西こにし村、南の対岸は村・滝野川たきのがわ村・しも村に対する。「続風土記」は「宮村ともいふ、旧は田村と一村にして荘の氏神田村に存す故に宮村と唱へ来れるならむ」と記す。


中村
なかむら

[現在地名]加古川市平荘町養老へいそうちようようろう

しば村の東に位置し、西端を西にし川が流れる。天文元年(一五三二)八月一七日の報恩寺旧記覚(報恩寺文書)によると地蔵堂や大歳おおとし神が存在した。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によると田方二〇九石余・畑方一六石余。寛保二年(一七四二)の村明細帳(平之荘神社文書)では田一〇町一反余・分米一九六石余、畑一町五反余・分米一七石余、小物成は犬米・草藁銀・請林運上銀・柿渋・権現ごんげん池水料米、西之にしの山運上銀一三匁、郷蔵一、家数四〇・人数二一二、牛一二。


中村
なかむら

[現在地名]新城市豊島とよしま

定池さだいけ村の西、伊那街道に沿い、南部は豊川に接する。慶長五年(一六〇〇)幕府領となり、寛永二年(一六二五)から二千石の旗本島田成重の領地となり明治に至る。当村は、伊那街道が豊川河岸に出る所にあるため、対岸の一鍬田ひとくわだ村に至る中村の渡があり、舟持もあって豊川の舟運に参加した。曹洞宗吉祥山永徳えいとく寺は、本尊十一面観音。建久五年(一一九四)千秋氏が野田館に建てた真言宗の寺院という。


中村
なかむら

[現在地名]市原市中

皆吉みなよし村の北東方に位置し、北西は牛久うしく村。養老ようろう川が流れ、川間岸かわまぎし渡がある。寛文期(一六六一―七三)の養老川の開削普請に伴って皆吉村から独立したとされるが、文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高六九石。寛永一九年(一六四二)より市原郡中村内三九石が旗本岡部領となる(文化一二年「岡部氏知行所村々覚」大森家文書)。正保国絵図でも高六九石余であるが、元禄郷帳では高八七石余。


中村
なかむら

[現在地名]山南町南中みなみなか

南は野坂のさか村と境を接し、西は佐治さじ(加古川)北和田きたわだ前川まえがわ両村との境界。慶安元年(一六四八)柏原藩主織田信勝の命によって、和田・前川・野坂・岩屋いわや四ヵ村が新田開発に着手し、同四年に成立したといわれる(野添本「丹波志」)


中村
なかむら

[現在地名]三木市志染町志染中しじみちようしじみなか

安福田あぶた村の東に位置し、志染川の中流右岸、志染谷の中央部に立地する。志染中村とも称した。慶長国絵図に「志々ミノ中村」とみえ、その北側の「細川ノ中村」との間に北中と記されている。初め姫路藩領、元和三年(一六一七)明石藩領となる。正保郷帳でも明石藩領で、田方三五四石余・畑方三一石余。村高は幕末までほぼ変わらない。「寛文朱印留」でも同藩領。享保一五年(一七三〇)から寛保二年(一七四二)までは大坂城代土岐氏領であった(享保一九年「土岐頼稔知行目録」土岐家文書、「寛政重修諸家譜」)


中村
なかむら

[現在地名]日高町中

たに村の西、八代やしろ川の中流域に位置し、八代村・八代中村とも称した。江戸時代の領主の変遷は山本やまもと村に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)に八代村とみえ、高一七七石余。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図には八代中村とあり、高は同じ。江戸時代には赤藤あかふじ大明神と称していた神社を、明治三年(一八七〇)に思往(「おもいやり」とも「しお」ともよぶ)神社に改めた。


中村
なかむら

[現在地名]清川村三玉みたま 中村

左草さくさ村の南西、奥岳おくだけ川西岸にあり、対岸は宇田枝うたえだ村。正保郷帳に村名がみえ、田高三三石余・畑高六六石余、宇田枝郷に属した。天保(一八三〇―四四)頃の御案内記(大久保家文書)によれば高一一七石余・反別一六町二反余、免六ツ九分の中の村で、物成は米四三石余・大豆六一石余、家数二五・人数八八、牛三三・馬一二。



なかもみむら

[現在地名]久米南町中籾

下籾村の北に位置し、北は上籾村。延宝三年(一六七五)村から分村したとも(元禄二年「籾村差出帳」今井文書)、同六年下籾村から分村したともいう(作陽誌)。正保郷帳・天保郷帳では下籾村の内。元禄二年(一六八九)の籾村差出帳によれば延宝三年に高七二石余としたが、同五年に四四六石余としたという。元禄一〇年の美作国郷村帳では当村分として高四六五石余とある。


中村
なかむら

[現在地名]挟間町向原むかいのはる 中村

大分川左岸にあり、西は柏野かしわの村。天文二年(一五三三)一二月吉日の阿南庄松武名土貢諸済物納帳(大徳寺黄梅院文書)に「一所田地壱段 仲」とみえ、年月日未詳の阿南庄松武名納綿・買綿・買苧帳(同文書)に「綿壱た 中」などとみえる。江戸時代を通じて府内藩領で、中郷下市組に属した(府内藩記録)


中村
なかむら

[現在地名]塩沢町中

樺野沢かばのさわ新田の東。北は目来田もくらいでん村、南西は田中たなか村、南東方魚野うおの川対岸は中野なかの村。枝村中村新田は東方一町余にある。集落は三国街道の東側にある。伝えでは、応永七年(一四〇〇)に一度廃絶したという。中村新田は寛文二年(一六六二)の開発という(以上「南魚沼郡誌」)


中村
なかむら

[現在地名]幡豆町西幡豆にしはず

町域の比較的平坦の地にある。かけ村字中村郷ともいわれた。近世を通じて松平対馬守領。松平氏は町域の大半を領有する三千五〇〇石の旗本で、この地に陣屋を置いた。幡豆陣屋とよんだが、欠村中村郷にあったので欠村陣屋とも、中村陣屋ともよばれた。古老の話では南方に門があり、門内西寄りに仕置場があり、敷地内に稲荷社もあったという。この陣屋は、松平右衛門太夫正綱が三男正朝に慶安元年(一六四八)分知した。


中村
なかむら

[現在地名]かつらぎ町笠田中かせだなか

ひがし村の西にあり、同村とともに中世は山城神護寺領かせだ庄に含まれた。「続風土記」に「萩原村の巽六町余にあり、按するに萩原村の分村にて萩原と東村との中間にあるより中村といふならむ」とみえる。慶長検地高目録によると村高三六五石余、小物成一斗七升二合。丁ノ町組に属し、宝永五年(一七〇八)の伊都郡丁之町組大指出写(中谷正敏氏蔵)によると、家数七六、人数三九八、井手一、池六。


中村
なかむら

[現在地名]豊前市中村

松江しようえ村の西、畠中はたけなか村の南、角田すだ川下流域の求菩提くぼて山に続く丘陵に立地する。江戸時代は築城ついき郡に所属、小倉藩領。初め馬場ばば村と合せて角田村と称していたようで、元和八年人畜改帳に角田村とみえ、家数一五六・人数三一七(うち惣庄屋一・百姓一一・名子四五)、牛四三・馬一八。


中村
なかむら

[現在地名]富津市亀田かめだ 中村

大坪おおつぼ村の北東に位置し、そめ川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三五八石。正保国絵図では高三八〇石。寛文四年(一六六四)当時佐貫藩領であった(「松平忠勝領知目録」寛文朱印留)。元禄郷帳では高三九九石余で、幕末まで変わらない。宝永七年(一七一〇)から再び佐貫藩領で、幕末に至る。


中村
なかむら

[現在地名]下田村南中みなみなか

五十嵐いからし川右岸の沖積地にあり、南は島川原しまがわら村、北は飯田いいだ村。正保国絵図に村名が記される。正保(一六四四―四八)初年の物成高を記した「初免石」(「村松小史」渡辺芳江氏蔵)では一三八石五斗余・家一五戸。寛文年間(一六六一―七三)の検地帳写(小柳昭氏蔵)によれば田方一三町七畝余・畑方二町六反一畝余、名請人一四人、うち屋敷持一三人である。


中村
なかむら

[現在地名]高遠町大字長藤おさふじ

藤沢ふじさわ川の中流にあたり、対岸の野笹のざさ村とともに近郷の村々の中心として、中村の村名が生れたものであろう。

村名の初見は正保四年(一六四七)の信濃国絵図高辻で「一高九拾九石 中村」とある。

村の北の藤沢川の右岸、塩供しおくは枝村で、高遠石屋を代表する名工守屋貞治の生地。藤沢郷の村々の石切(石工)人口は高遠領内随一であったが、これを宝暦七年(一七五七)の御取箇外物帳(飯島利喜雄氏蔵)によって石切運上でみると、上伊那郷は(無)、入野谷郷は銭四一貫四〇〇文、中沢郷は銭一二貫六〇〇文、藤沢郷は銭一五四貫二〇〇文、春近郷は銭一九貫八〇〇文、川下郷は銭四八貫六〇〇文となっている。


中村
なかむら

[現在地名]大津市葛川中村町かつらがわなかむらちよう

木戸口きどぐち村の北、安曇あど川上流の葛川谷の集落で、若狭街道沿いに集落がある。大永三年(一五二三)一〇月七日の丹後入道売券(葛川明王院史料)に葛川中村とみえる。元亀二年(一五七一)明王みようおう院本堂の舞台普請役として三七人を負担している(四月二七日「舞台普請日記」同書)


中村
なかむら

[現在地名]根尾村中

神所こうどころ村の北西に位置し、根尾西谷ねおにしたに川の東岸山麓に集落がある。「新撰美濃志」に根尾左京亮三男の中村内蔵が当村に住し、のち市場いちば村に移り金森法印に仕えたとある。集落を見下ろす山中に殿様屋敷と伝える跡がある。正保郷帳では田一四石余・畑五二石余・紙桑木高六石余・山年貢六石余。嘉永四年(一八五一)大垣藩の内検により村高一〇六石余となり、別に新開高四石九斗余があった(「免割帳」小野島文書)


中村
なかむら

[現在地名]糸魚川市西中にしなか

ひめ川左岸の氾濫原上、支流むし川が合流する付近にあり、北は頭山つむりやま村、南の虫川上流は中谷内なかやち村・大谷内おおやち村に続く。寛永三年(一六二六)頃と思われる川原かわら村の古検高帳の末尾に「竿はつれ」とする一項があり、中村の八幡社の神主小宮氏など六名が記される(糸魚川市史)


中村
なかむら

[現在地名]八尾町中

谷内やち村の西、室牧むろまき川右岸にある。正保郷帳に村名がみえるが、村高は竹之内たけのうち村と合せて七〇石余、田方九反余・畑方三町七反余。元禄一一年(一六九八)の郷村高辻帳では高七〇石余。幕末の高五四石余・免三ツ八歩(古高免小物成銀等書上)。所属組は高熊たかくま村と同じ。慶応四年(一八六八)の高持家数一三・人数六四(郡方人別書上帳)


中村
なかむら

[現在地名]武生市森久もりひさ

西南に入込む大塩おおしお谷の奥近くにある。中世の大塩保内の一村で、慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録には「大塩ノ内中村分」として高三六六・五石とある。正保郷帳では「中村」とあり田方三三三石余・畠方三三石余。福井藩領。寛政四年(一七九二)の支配下村々高家人数留(「越前宗門帳」所収)によれば、家数二九(うち高持一六・雑家一〇・道心一)・人数九六。


中村
なかむら

[現在地名]天理市中町

中街道(下ツ道)東部に所在。東は六条ろくじよう村。「和名抄」山辺郡星川ほしかわ郷の中心地、八条一里に相当。正治二年(一二〇〇)の興福寺維摩大会料当国不足米餅等定案(興福寺文書)に「中八条庄 星河庄」がみえる。また「国民郷士記」「和州諸将軍伝」に中村氏の名がみえ、小字じよううちに中村城跡が残る。


中村
なかむら

[現在地名]金屋町中

中嶺なかみね村の北方にある。地名は五名ごみよう谷の中央部に位置するため生れたものであろう(続風土記)。集落は長峰ながみね山脈の中腹にあり、傾斜地に階段状の水田を開いている。東北部には五名谷各村の入会山がある。慶長検地高目録によれば村高二四六石余、小物成一石九斗二升五合。


中村
なかむら

[現在地名]青木村大字田沢

田沢川の下流右岸の地域。馬場ばつぱなかノ組・湯本ゆもとなどの小集落がある。

村のほぼ中央に「延喜式」神名帳記載の子檀嶺こまゆみ神社、十観じつかん山山麓の峡谷に田沢温泉がある。宝永三年(一七〇六)の村差出帳(上田藩村明細帳)に諏訪大明神とある子檀嶺神社は田沢三ヵ村の産土神である。


中村
なかむら

[現在地名]中之口村東中ひがしなか小吉こよし

潟浦新かたうらしん村の北西にあり、東は高野宮こうのみや村、西は小中川こなかがわ(現燕市)。承応三年(一六五四)小吉村の分裂により成立と伝える。当初村上藩領で、貞享元年(一六八四)の郷村高辻帳に高二三七石五斗余とあり、元禄郷帳は高野宮村枝郷とし同高。


中村
なかむら

[現在地名]輪島市三井町中みいまちなか

本江ほんごう村の東、河原田かわらだ川上流に流れ込む中川流域の山間に立地。正保郷帳に村名がみえ、高二五一石余、田方一三町七反余・畑方三町、新田高二六石余、田方一町七反余。承応三年(一六五四)の村御印の高二五八石余、免四ツ一歩余(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二八六石、免四ツ六歩、小物成は山役六〇匁、炭竈役二六匁(ほか五二匁は退転)であった(三箇国高物成帳)


中村
なかむら

[現在地名]すさみ町佐本中さもとなか

佐本川渓流沿いにある。北は西野川にしのかわ村、西南は追川おいかわ村。慶長検地高目録では佐本村に含まれる。独立した一村となったのは慶安(一六四八―五二)以後といわれ、「続風土記」によれば家数二二、人数九〇。三尾川組に属した。


中村
なかむら

[現在地名]中区石川いしかわ町一―五丁目・打越うちこし、南区中村町一―五丁目・唐沢からさわ平楽へいらく八幡はちまん町・山谷さんやむつみ町一―二丁目・東蒔田ひがしまいた

中村(南区)


中村
なかむら

[現在地名]田辺市芳養はや

芳養川流域、いも村の東に位置し、芳養川が中央を南流する。中世は芳養庄に含まれ、村名は下芳養の中央にあるためという(続風土記)。慶長六年(一六〇一)の浅野左衛門佐殿知行持高写(「万代記」所収)によれば村高二一〇石余。安政六年(一八五九)の家数人数牛馬数書上帳(田所文書)によると家数一九、うち役家九・柄在家(無役家)一〇。


中村
なかむら

[現在地名]香寺町中村

恒屋つねや村の北に位置し、恒屋川の上流域に立地する。西は飾西しきさい塩田しおた(現夢前町)。慶長国絵図に村名がみえるが、正保郷帳では恒屋村に含まれた。貞享元年(一六八四)の本多忠国領知目録(本多家文書)に村名がみえるので、これ以前に恒屋村から分村している。


中村
なかむら

[現在地名]十津川村大字西中にしなか

西にし川流域、長井ながい村の西北方に位置する。十津川郷のうち。寛永郷帳には村高一五・二石、幕府領。元禄郷帳では村高一〇・〇五石となっている。安政四年(一八五七)の産物取調帳(十津川宝蔵文書)に杉角尺〆三〇〇本、檜角尺〆三〇本、椴栂松尺〆二〇本、楮四八貫目、椶櫚皮八五〇枚、煙草四〇貫目、茶三六貫目、割菜五〇貫目とみえる。


中村
なかむら

[現在地名]吉備町尾中おなか

いで村の西に位置し、村域は有田川南北両岸にまたがる。慶長検地高目録によれば村高三六八石余、小物成九合。田殿組に属し、「続風土記」は家数五六、人数二一五、社寺として小祠二(妙見社・若宮八幡宮)、小堂一を記す。明治八年(一八七五)の村誌(和歌山県立図書館蔵)によれば戸数六九、人数二八九(男一四九・女一四〇)、牝牛二〇、牡馬一、川舟三艘(一〇石積二艘・小舟一艘)、物産は、米二一五石二斗、麦一一八石二斗、大豆二石七斗、小豆八斗五升、蚕豆一石七斗、粟一石五斗、大根四万五千六〇〇本、芋七一五貫目、櫨実三五八貫目、蜜柑一千二三〇箱、温州蜜柑二一五箱、九年母三一〇箱、橙一〇籠を産した。


中村
なかむら

[現在地名]東金市西中にしなか

押堀おしほり村の南東に位置し、北東を北幸谷きたごうや川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一七二石。正保国絵図では高一一七石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では中村組に属し、幕府領一五〇石。


中村
なかむら

[現在地名]森町三倉みくら

三倉村の北東、南西流する三倉川上流東岸にある。豊田とよだ郡に属し、三倉郷一四ヵ村の一。旧名は中尾嶺村という(遠江国風土記伝)。正保郷帳には周知すち郡として中村がみえ、幕府領。永四貫四三七文はすべて畑方、うち六二一文が栄泉えいせん寺領、柴山・新田ありと注記される。


中村
なかむら

[現在地名]金沢市上中町かみなかまち

銚子口ちようしぐち村の南東に位置。正保郷帳によれば高一五一石余、田方四町二反・畑方五町九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一五九石、免五ツ五歩、小物成は山役九五匁・蝋役一匁・漆役七匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数二・百姓数八(高免付給人帳)


中村
なかむら

[現在地名]亀岡市曾我部そがべ町中

東はてら、南は春日部かすかべ、北西は法貴ほうきの各村。集落の北西を曾我谷そがたに川が流れる。

天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」によれば、高二四六石、戸数三〇、高槻藩領。


中村
なかむら

[現在地名]広川町東中ひがしなか

ひろ川の左岸、名島なしま村の南西にあり、北は広村、南は金屋かなや村に接する。熊野街道は名島村より広川を越え当村に入り、川沿いに南下して再度川を越え井関いせきの北部へ抜ける。当村より金屋村にかけては低地帯が続く。


中村
なかむら

[現在地名]柏原町北中きたなか

柏原川を隔てて東は見長みなが村・柏原町と対峙する。領主の変遷は同町に同じ。正保郷帳に村名がみえ田高二九三石余・畠高三四石余、林あり、日損少し。柏原藩領。「丹波志」によると高三二九石余、家数四〇。檀那寺は臨済宗妙心寺派成徳じようとく寺。


中村
なかむら

[現在地名]綾部市綾中あやなか

本郷綾部村(町分)青野あおの村の間の小村。

寛文修正検地では高五二石余、天保年間(一八三〇―四四)の家数は一九(「田畑反別石高其他」沼田家文書)


中村
なかむら

[現在地名]松本市和田 中村

明暦二年(一六五六)の検地で二一二石一斗二升八合と高付けされ、元禄一五年(一七〇二)以後幕府領、寛保三年(一七四三)から松本藩戸田氏の預り地となった。

村内に真言宗高野山金剛頂院末の普門山観音かんのん寺がある。


中村
なかむら

[現在地名]小千谷市西中にしなか

北は小千谷村、東は山本やまもと村、南は谷内やち村。近世初期までは小千谷村より善光寺道が当村を通り、南の山本山中腹からいけはら村東端に出てゆき峠に通じていた。


中村
なかむら

[現在地名]竹田市中

平井ひらい川最上流の谷にある。正保郷帳では仲村とあり、阿志野あしの郷に属し、田方五三石余・畑方四一石余で、茅山有と注記される。


中村
なかむら

[現在地名]鯖江市北中きたなか

河和田かわだ谷のほぼ中央に位置し、北は寺中じちゆう村、南は清水町しみずまち村、西は西袋にしぶくろ村に接する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では川田かわだ庄に含まれる。


中村
なかむら

[現在地名]社町上中かみなか・上中一―三丁目

加古川の支流千鳥ちどり川の北岸に位置し、東はきた村。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では赤穂藩領、田方四三〇石余・畠方二四石余。以後の領主の変遷は田中たなか村と同じ。


中村
なかむら

[現在地名]十津川村大字東中ひがしなか

くず川流域、上葛川かみくずがわ・下葛川両村の中間に立地。十津川郷のうち。元禄郷帳に初めて村名がみえる。村高一一石、幕府領。安政四年(一八五七)の産物取調帳(十津川宝蔵文書)に杉皮二五〇間、樽丸一〇〇丸、茶五〇貫目、椶櫚皮一千枚とみえる。


中村
なかむら

[現在地名]大和高田市大字東中ひがしなか

礒野いその村南方に立地。慶長郷帳にみる村高五六二・二二石で幕府領(代官北見勝忠)。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領になり、延宝七年(一六七九)幕府領となる。翌八年に永井直円(のち新庄藩主)領に編入され、廃藩置県に至った。


中村
なかむら

[現在地名]富津市中

大和田おおわだ村の南に位置する。吉野よしの郷七村のうち。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高四五四石で、幕末まで変わらない。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数七〇で、旗本大久保領。


中村
なかむら

[現在地名]村松町長橋ながはし 中村

長橋村の西、北は中名沢ちゆうなざわ村西方丘陵沿いに集落がある。正保国絵図に高一一六石余、村松藩領。西方丘陵上にある羽黒神社は長徳元年(九九五)の創立と伝える。


中村
なかむら

[現在地名]宮津市字中村

栗田くんだ半島の東南部に位置し栗田湾に面する。北の小寺こでら村と南のわき村に挟まれる。

近世初期には慶長検地郷村帳にみえる栗田村に含まれていたと思われ、延宝三年郷村帳に「栗田中村」高一〇〇・九二八石と記される。


中村
なかむら

[現在地名]土浦市中

中村西根なかむらにしね村の東に位置する。慶応元年(一八六五)九月作製の中村宿中村西根絵図(国立史料館蔵)には集落は水戸街道沿いに記される。至徳二年(一三八五)一〇月二五日の足利氏満寺領寄進状(明月院文書)に「寄進明月庵 常陸国信太庄内古来・矢作・中村等郷之事」とあり、足利氏満が明月庵に寺領として寄進している。


中村
なかむら

文明一一年(一四七九)一一月吉日の玉巻重方示置文(久下信生家文書)池谷いけだに・松山・岡本おかもととともに「中村」とみえ、天文一二年(一五四三)一二月二七日の久下重像段銭日記(同文書)には池谷・岡本とともに所見する。


中村
なかむら

[現在地名]野迫川村大字中

中原なかはら川流域、柞原ほそはら村の西に立地。十二村じゆうにそん野川のかわ組に属する。慶長郷帳では十二村二〇〇石のうちに含まれ、幕府領。


中村
なかむら

[現在地名]福井市中町

七瀬ななせ川中流域の小平野に位置する。村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえ、高一六二・三五石。正保郷帳によれば、田方一二七石余・畠方三五石余。福井藩領で、文政六年(一八二三)給人地方渡名寄帳によると、全村荻野貞三郎の知行地。


中村
なかむら

[現在地名]和島村中沢なかざわ

円蔵寺えんぞうじ村・曲田まがた村の東。正保国絵図に高二四五石余がみえ幕府領。その後高田藩領となったとみられ、天和三年郷帳では高二八三石八斗余で、うち山高一石・漆高九斗余。


中村
なかむら

[現在地名]新井市上中かみなか

北国街道新井宿の南西、矢代やしろ川の右岸に位置し、西は村に接する。正保国絵図に高九七石余とある。天和三年郷帳には高一九三石四斗余、うち山高一斗五升三合、漆高一升五合とあり、ほかに新田高一一石九斗余が記される。


中村
なかむら

[現在地名]松本市島立 中村

中世には島立郷に属し、その中心であった。寛永一九年(一六四二)の信州松本御領分村々高附帳に初めて中村として一九六石九斗五升二合と高付けされている。「信府統記」によると享保九年(一七二四)当時の石高二〇九石九斗八升。


中村
なかむら

[現在地名]仁多町八代やしろ

八代村の東に位置し、斐伊川の支流八代川の上流両岸のかなり広い河岸段丘上に立地する。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高二三四石余、寛文四年(一六六四)の本田高二三三石余。


中村
なかむら

[現在地名]鹿島市大字中村字中村

現鹿島市の北西部、鹿島川の北部にある。正保絵図に村名がみえる。天保三年(一八三二)の鹿島私領村々畝数石高帳には「藤津郡鹿島郷中村 田畑屋敷 百拾四町五段九畝二拾四歩 地米 九百六拾九石二斗二升四合」とある。


中村
なかむら

[現在地名]加治川村下中しもなか新発田しばた市下中

中村(新発田市)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中村」の意味・わかりやすい解説

中村(高知県)
なかむら

高知県南西部にあった旧市名。現在は四万十市(しまんとし)の中部から南部を占める地域。幡多(はた)地方の中心をなす。地域は四万十川(渡(わたり)川)下流を中心に開ける。旧中村市は、1954年(昭和29)中村、下田(しもだ)の2町と東山、蕨岡(わらびおか)、富山(とみやま)、大川筋(おおかわすじ)、後川(うしろかわ)、八束(やつか)、中筋(なかすじ)、東中筋、具同(ぐどう)の9村が合併して市制施行。2005年(平成17)西土佐村と合併して、四万十市となった。地域の大部分は山地で、林野率は約80%。耕地は、中筋川低地を主とする中村平野と、四万十川本流や後川河谷沿いの氾濫(はんらん)原などのわずかな平地に限られる。水稲のほか、中筋川低地のイグサ、四万十川河口に近い竹島付近の砂質地利用のナシ、北部の氾濫原の桑園などに土地利用の特色がみられ、施設園芸も盛ん。林業は民有林が多く、用材、パルプ材が河口の下田港から積み出されるほか、シイタケ生産もみられる。木材加工、醸造業のほか製造業にはみるべきものがない。

 中心地区の中村は鎌倉時代から一条家の幡多荘(はたのしょう)の地。1468年(応仁2)戦乱を避けて下向した関白一条教房(のりふさ)が居館を構え町づくりをした。一条家は5代続き、四万十川河口の下田は中村の外港として栄えた。近世、1656年(明暦2)から1689年(元禄2)までは土佐藩から3万石を分与された中村藩の城下であった。

 中村駅は、土佐くろしお鉄道中村線の終着駅で、さらに同鉄道宿毛(すくも)線が延長している。国道56号、321号、439号、441号が通じ、宿毛市、土佐清水(とさしみず)市などへバス路線が放射状に発達している。中村貝塚、入田(にゅうた)遺跡などの先史遺跡をはじめとして史跡、文化財が多い。不破八幡(ふばはちまん)宮の社殿(1559造)は国指定重要文化財。八束のクサマルハチ(シダの一種)自生地は国指定天然記念物。

[大脇保彦]

『『中村市史』(1969・中村市)』『『中村市史 続編』(1984・中村市)』


中村(愛知県)
なかむら

愛知県名古屋市の北西部にある一地区および区名。名古屋駅の西方約4キロメートルのこの地は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)・加藤清正(きよまさ)の生誕地で、豊国神社(とよくにじんじゃ)、秀吉清正(ひでよしきよまさ)記念館などがある。秀吉を祀(まつ)る豊国神社は、1883年(明治16)県令国定廉平(くにさだれんぺい)が中心となり建立した社で、参道入口には朱塗りの大鳥居がある。記念館には二公ゆかりの画像、木像、書状など約200余点が展示され、フジの名所としても知られる県立中村公園内にある。

 1889年(明治22)上(かみ)・下(しも)中村と稲葉地(いなばじ)村が合して織豊(おりとよ)村、のち中村となり、名古屋市へ合併したのは1921年(大正10)で、西区に編入された。1937年(昭和12)区の再編により、中村区が成立した。第二次世界大戦後は商工業の盛んな市街地に変わった。なお、名古屋駅は中村区にあり、駅の周辺は繁華街を形成している。

[伊藤郷平]

 当地にはかつて中村遊廓(ゆうかく)があった。1875年(明治8)に北野新地の業者を大須(おおす)観音裏へ移して旭(あさひ)遊廓と名称を改めたことに始まる。しかし市街地の拡大による風教上の理由で、明治末期にはさらに旭遊廓を移転させる必要が生じた。その移転先をめぐる疑獄事件などのため実現に時間を要し、1923年(大正12)に中村遊廓が開業し、以後売春防止法実施(1958)まで続いた。大遊廓としては開設が新しいため、設備などがよいといわれた。前身の旭遊廓は廃娼(はいしょう)運動の拠点として有名。

[原島陽一]



中村(福島県)
なかむら

福島県浜通り北部、相馬市(そうまし)の中心地区。旧中村町。1611年(慶長16)相馬氏が中村城を築き、その城下町として発達した。明治以降相馬郡の中心であったが、都市機能は原町(はらまち)市(現、南相馬市原町区)に移った。中村城跡は県指定史跡で、馬陵公園となっている。妙見相馬中村神社の相馬野馬追、相馬藩主ゆかりの相馬駒(こま)焼で知られる。

[原田 榮]


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改訂新版 世界大百科事典 「中村」の意味・わかりやすい解説

中村 (なかむら)

陸奥国宇多郡の城下町で,現在は福島県相馬市(1954市制)の中心地区をなす。《和名抄》に宇多郡仲村郷があり,801年(延暦20)坂上田村麻呂が蝦夷出兵のとき,西館(現在の中村城跡の西部一帯)に菅原啓実が館を構えていたと伝えられる。その後1323年(元亨3)相馬重胤が,下総国から行方(なめかた)郡太田(現,南相馬市原町区上太田・下太田)に移って当地をおさめた。その後,1611年(慶長16)7月相馬利胤のとき,幕府から所領を安堵されたこともあって,木幡勘解由長清に命じて築城を開始し,11月に完成,12月2日小高城より移って,相馬氏代々の拠城とした。このとき城下町も整備された。相馬氏が領土の北辺にあたる中村に城を移したのは,隣藩の伊達氏に備えたためとされる。
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中村(高知) (なかむら)

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百科事典マイペディア 「中村」の意味・わかりやすい解説

中村【なかむら】

陸奥国宇多郡にあった相馬藩中村城の城下町で,現在の福島県相馬市の中心地にあたる。《和名抄》記載の宇多郡仲村郷の遺称地。1335年結城宗広が勲功の賞として宇多荘を与えられ,南朝方の拠点となったが,1337年以後は北朝方の相馬氏の支配下に入った。1602年相馬三胤(利胤)が本領6万石を安堵され,1611年北の伊達氏に対する備えとして中村城を築き,相馬氏代々の居城とした。築城とともに城下の町割りも進められた。1870年中村城は廃され,旧城下は中村・中野村・西山村にまたがる町場となり,1889年この3ヵ村が合併して中村町となる。

中村[区]【なかむら】

愛知県名古屋市西部,庄内川東岸にある区。東部にJR東海道本線・新幹線,中央本線,関西本線,近鉄名古屋線,名鉄名古屋本線などの集中する名古屋駅があり,東側はデパート,事業所,商店が集中し,中区に続く都心部をなす。西側は〈駅裏〉と呼ばれた雑然たる町であったが,1964年の東海道新幹線開通を機に近代的な都市開発が進められた。区中央部に地下鉄東山線,東部に地下鉄桜通線が通じる。北西部に中村公園がある。16.30km2。13万6164人(2010)。

中村[市]【なかむら】

高知県南西部の旧市。1954年市制。四万十(しまんと)川の下流域を占め,大部分は山林。中心市街は中筋川流域の中村平野にあり,1468年に一条教房が応仁の乱を避けて移住してから発達,小京都と呼ばれる。農業は米作のほか野菜,果樹などの栽培が中心。山地では用材,パルプ材などを産する。四万十川の青ノリを特産。土佐くろしお鉄道が通じる。2005年4月幡多郡西土佐村と合併し市制,四万十市となる。384.50km2。3万4647人(2003)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中村」の意味・わかりやすい解説

中村
なかむら

高知県南西部,四万十市南部の旧市域。四万十川下流域,中村平野の東部にある。 1954年中村町,下田町の2町と東山村など9村が合体して市制。 2005年西土佐村と合体して四万十市となる。交通の要地で,農林産物を集散,下田港 (→下田 ) から積み出す。中心市街地は応仁の乱 (1467~77) を避けて京都から下向した一条教房の開府により発達。碁盤目状の街路や大文字焼きなどに名残りがみられる。平野部では米,野菜,イグサ,果樹を栽培。四万十川ではアユなどの養殖漁業が行なわれる。八束のクサマルハチ自生地は国の天然記念物。

中村
なかむら

福島県北東部,相馬市の中心市街地。慶長16(1611)年相馬氏仙台藩に対抗して,南方の小高城より居城を移転,以来中村城(馬陵城)の城下町として発展。相馬地方の行政の中心をなす。繊維,電機,精密機械などの工場があり,相馬駒焼を特産。相馬中村神社の相馬野馬追いは有名。

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世界大百科事典(旧版)内の中村の言及

【相馬[市]】より

…弥生時代,古墳時代の遺跡が多く,古くから開発されていたものと思われる。中世以後,相馬氏の領有するところとなり,1611年(慶長16)相馬利胤(としたね)が中村に馬陵城を築き,城下に家臣を住まわせて以来,相馬氏6万石の城下町として発達した。明治維新後,町勢は一時衰えたが,現在は常磐線,国道4号,113号,115号線が通じ,相馬地方北部の中心地となっている。…

※「中村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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