玉江浦
たまえうら
[現在地名]萩市大字山田 玉江浦・倉江・小原の各一部と大字堀内の一部
山田村の北、橋本川河口から日本海岸の地で、西は三見村。飛地として指月山の西南西ノ浜があった。浜崎宰判所属。
中世、阿武川左岸地帯は椿から橋本川河口まで「椿浦」または「椿の浦」とよばれたといい、「梅松論」建武三年(一三三六)足利尊氏上洛の条に「長門安武郡椿の浦の船頭孫七云云」とあるのはこの下流地帯をさすのであろう。慶長九年(一六〇四)萩町人近藤露竹がその子権兵衛に与えた西休庵に関する文書(近藤家文書)に現玉江川が「玉井川」と記され、慶安五年(一六五二)の城下町絵図にも「玉井」「玉井川」がみえるが、貞享二年(一六八五)八江萩八景が選定されると、玉井を玉江に改め「玉江の秋月」とうたわれるようになった。玉江川はもと指月山の東南を流れていたが、沿岸潮流や河川の運ぶ土砂の堆積などによってしばしば地続きとなり、河口改修が行われた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 