田付景澄(読み)たつけ・かげずみ

朝日日本歴史人物事典 「田付景澄」の解説

田付景澄

没年:元和5.10.14(1619.11.19)
生年弘治2(1556)
江戸前期の砲術家田付流砲術創始者通称は兵庫助,宗鉄と号した。近江国田付村(滋賀県彦根市田附町)の出身で,父美作守景定が織田信長によって自害させられたため,摂津国三田に住み砲術を修めた。当時は稲富一夢(祐直),安見右近と並んで鉄砲の三名人と噂が高かったという。慶長18(1613)年徳川家康に召し出され土井利勝に属して大坂城砲撃に参加した。子孫幕末に至るまで相次いで鉄砲方を勤めた。<著作>『求中集』2巻,『後求中集』5巻

(所荘吉)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田付景澄」の解説

田付景澄 たづけ-かげずみ

1556-1619 織豊-江戸時代前期の砲術家。
弘治(こうじ)2年生まれ。田付流砲術の創始者。摂津三田(さんだ)(兵庫県)で砲術を修業し,稲富一夢(いちむ),安見元勝とともに鉄砲三名人と称された。慶長18年徳川家康の家臣となり,下総(しもうさ)香取郡領地をあたえられ,大坂夏の陣にくわわった。元和(げんな)5年10月14日死去。64歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。通称は兵庫助。号は宗鉄。著作に「求中集」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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