中世以来ヨーロッパで最も重要な由緒ある名門の王家。
スイスとエルザス(アルザス)に所領をもつ豊かな貴族として,1020年にはスイス北部にハプスブルク城を築き,伯の称号をもっていた。大空位時代の混乱の後,始祖ルドルフ1世は,1273年ドイツ国王に選ばれ,競争者ボヘミア王オタカル2世からオーストリア,シュタイアーマルクを没収し,82年息子たちに授封し,初めて東方に家領を確保した。兄弟全員による相続権所有の原則から,以後相続争いと系統分立を繰り返すが,断絶の際には残った系統に再統一される復元力もあって多産系のこの王家は家領を拡大する。ルドルフ1世の死後も,国王を出してはいるが,ドイツ王は諸王家の間を転々とする。ハプスブルク家は14世紀発祥地の西方で諸王家・諸侯と争い,とくにスイスの独立戦争に敗れて家領の拡大に失敗する(1315年のモルガルテンの戦,1386年のゼンパハの戦)。しかし東方では1335年ケルンテンとクラインを,63年にはチロルを家領に加え,ルドルフ4世建設公Rudolf Ⅳ der Stifter(1339-65)は家領の領邦化を進め,ルクセンブルク家の皇帝カール4世の金印勅書(1356)に対抗して大特許状Privilegium majusを偽造してまで領邦君主としての特権を主張し,みずから大公と称した。1452年ハプスブルク家のフリードリヒ3世(神聖ローマ皇帝,在位1452-93)が皇帝になると53年この大特許状を公認し,以後ハプスブルク家は事実上皇帝位を独占するに至った。
その子マクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝,在位1508-19)は西方において77年ブルグント公女マリアとの結婚によって同公領を併せ,86年にはドイツ国王となる。その帝国改革は失敗に終わるが,96年その子フィリップ1世美公(1478-1506)をスペイン王女フアナと結婚させ,孫のカール5世が1519年ドイツ国王に選出されたとき(翌20年神聖ローマ皇帝),スペイン王国との結合によるハプスブルク世界帝国が実現する。加えて東方に対しても孫フェルディナント1世を16年にボヘミア・ハンガリー王女アンナと婚約させている。こうした結婚政策はフランスとの対立を激化させ,これと結んだオスマン・トルコの北上を招いたが,26年モハーチの戦でのラヨシュ2世の敗北はボヘミア・ハンガリー両王国を王家に結びつけたのである。皇帝カール5世は宗教改革による教会と帝国の分裂のなかで,22年のブリュッセル協約によってドイツの家領と皇帝位の継承権を弟フェルディナント1世とその系統に譲らねばならなかった。また彼は長い対仏戦争とウィーンを包囲したオスマン・トルコの圧力のために,帝国では諸侯と妥協し,意に反する55年のアウクスブルク宗教和議の翌56年みずから退位し,ここにオーストリア系とスペイン系への両統分立が確定する。
ネーデルラント,イタリアを含む全スペインを譲られたカール5世の子フェリペ2世(スペイン王,在位1556-98)のもとでスペイン帝国は最盛期を迎え,反宗教改革の担い手としてマドリードに宮廷文化の華を咲かせたが,フランスに加えてエリザベス1世のイギリスを敵に回し,しかもオランダ独立戦争(八十年戦争)に直面する。88年の無敵艦隊の壊滅は早くも衰退のきざしとなった。オーストリア系でもボヘミア・ハンガリーを家領に加えたとはいえ,皇帝フェルディナント1世の死後も相続争いと宗教争乱は続いた。反宗教改革の使徒フェルディナント2世が宗家を継ぎ,1617年ボヘミア王,19年皇帝になると三十年戦争が始まる。この戦争はボヘミアの宗教争乱に始まったが,列強の干渉を招き,初めての国際戦争となった。48年のウェストファリア条約は,帝国の分裂と戦禍の荒廃によるドイツの立遅れを決定的にした。しかしオーストリアでは,王家に残された皇帝位と反宗教改革の勝利が皇帝崇拝に聖人崇拝を結びつけ,たび重なるマドリードとの同族結婚もあってウィーンの宮廷文化は花開き,王家の権威も高まった。皇帝レオポルト1世LeopoldⅠ(在位1658-1705)が83年再びウィーンを包囲したトルコ軍を撃退,全ハンガリーを確保してから,ウィーンはハプスブルク・ドナウ帝国の中心となり,芸術を愛好するバロックの君主たちを生んだ。スペイン系がカルロス2世(在位1665-1700)で断絶し,スペイン継承戦争が勃発すると,レオポルト1世の次子カール6世も継承権を要求する。兄皇帝ヨーゼフ1世(神聖ローマ皇帝,在位1705-11)の死によってカール6世が皇帝(在位1711-40)になると,ハプスブルク世界帝国の再現を恐れた西欧列強は1713年ユトレヒト条約を結び,スペイン王位はハプスブルク家を離れ,ブルボン家に移った。
しかしオーストリア家はネーデルラントとイタリアの旧スペイン領を併せ,カール6世は同じ年の1713年国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオンPragmatische Sanktion)を制定し,広大な世襲領の永久不分割と長子相続を図ったが,継承者に男子を欠き,長女マリア・テレジアの一括相続のために譲歩を重ね,国際的承認を得ていた。しかしプロイセンのフリードリヒ2世大王がシュレジエンを占領,バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが相続権を主張すると,マリア・テレジアは40年オーストリア継承戦争に直面する。45年ドレスデン和約で,シュレジエンを失うが,世襲領の相続とともに夫フランツ1世FranzⅠ(神聖ローマ皇帝,在位1745-65)に皇帝位を確保した。戦後は軍・行財政など国内改革を進め,外交でも数世紀にわたって敵対関係にあったフランスとの同盟を成功させ,プロイセンの孤立化を図り,七年戦争ではロシアとともにフリードリヒ2世を苦しめたが,シュレジエンの奪回には失敗した。その後も産業育成,農民保護,教育改革など啓蒙的諸政策を進め,65年夫フランツ1世の死後も長子ヨーゼフ2世(神聖ローマ皇帝,在位1765-90)との共同統治のなかで,その急進性を抑えながら,敬虔なカトリックの啓蒙君主として,また宮廷にあっても市民的な家庭を築き,国内の諸民族から国母として敬慕された。マリア・テレジアの死後ヨーゼフ2世は単独統治に入ると翌81年寛容令,農奴解放令を発布し,その後も修道院解散,税制改革など矢継ぎばやに改革を進めたが,ことにドイツ語の強制による中央集権化は貴族や諸民族の反発を激化させ,フランス革命に対する国際的反動化もあって,この合理主義的急進的な啓蒙主義は90年ヨーゼフ2世の死とともに破産し,弟レオポルト2世(神聖ローマ皇帝,在位1790-92)の啓蒙主義も反動化を防ぎえなかった。
ナポレオン戦争のなかで1806年神聖ローマ帝国は解体し,最後の皇帝フランツ2世(神聖ローマ皇帝,在位1792-1806,オーストリア皇帝,在位1804-35)は,これに先立つ1804年オーストリア皇帝フランツ1世を称し,ウィーン会議後は反動的なメッテルニヒ体制の頂点に立った。48年の三月革命は王家を動揺させたが,その年12月フランツ・ヨーゼフ1世(オーストリア皇帝,在位1848-1916)は反革命を担う若き君主として即位し,翌49年ロシア軍の援助を得てハンガリー革命を鎮圧する。しかしブルジョアジーの台頭と諸民族のナショナリズムの高まりのもとで,反動的な官僚主義と啓蒙的な君主思想のはざまにあって悩み続ける。ことに59年のイタリア独立戦争,66年の普墺戦争に敗れてイタリアとドイツから排除されると政策上も中央集権化と諸民族の連邦化との間を動揺する。ドナウ帝国の再建のために67年ハンガリーとアウスグライヒAusgleich(妥協)を行い,オーストリア・ハンガリー二重帝国を成立させるが,犠牲にされたスラブ系諸民族の不満は高まる。78年ベルリン会議後のドイツ・オーストリア同盟も,ロシアとの関係を悪化させてスラブ系諸民族をロシアに近づけ,また西欧列強からも孤立してドイツへの従属を深め,オーストリア帝国主義は民族運動と帝国主義の交錯するバルカンの泥沼にはまり込む。国家統合の要であった老帝には家庭における悲劇も続き,1914年サラエボにおけるセルビア民族主義者による皇太子夫妻の暗殺(サラエボ事件)をむかえる。これが直接の原因で第1次大戦は始まり,フランツ・ヨーゼフ1世は戦争のなか,帝国と王家の前途を憂えながら1916年長い生涯を閉じる。最後のオーストリア皇帝カール1世(在位1916-18)は18年,敗戦によるオーストリア・ハンガリー二重帝国の崩壊とともに退位し,7世紀にわたるハプスブルク王家の歴史も終わった。
→オーストリア →神聖ローマ帝国
執筆者:進藤 牧郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
オーストリアの旧帝室で、中世以来ヨーロッパ随一の名家。スイス北部出自の貴族の家系で、家名は山城ハプスブルクHabsburg(鷹(たか)の城の意)に由来する。
[進藤牧郎]
1273年ルドルフ1世(在位1273~91)がドイツ国王に選ばれると、家領としてオーストリア公領を没収した。14世紀スイスの独立戦争に敗れたが、東方では家領をさらに広げ、ルドルフ4世(建設公、1339―65)は大特許状を偽造して大公と称した。1452年、フリードリヒ3世(在位1452~93)が神聖ローマ皇帝となり、以後ハプスブルク家は皇帝位を事実上独占するに至った。その後巧みな婚姻政策により、マクシミリアン1世(在位1493~1519)は、スペイン、ブルグントを併合し、孫カール5世(在位1519~56。スペイン王としてはカルロス1世、在位1516~56)の下で、ハプスブルク世界帝国が実現する。1522年、カール5世は相続に関するブリュッセル協約により、弟フェルディナント1世(在位1556~64)にドイツの家領と皇帝位継承権を譲り、1526年ボヘミア、ハンガリーを加えたが、ドイツでは宗教改革とその後の争乱のなかで、意に反しての1555年のアウクスブルクの和議ののち、翌年自ら退位した。
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カール5世の長子フェリペ2世(在位1556~98)は、反宗教改革を推進、全スペイン王国は最盛期を迎えたが、フランス、イギリスに加えてオランダとも敵対し、衰退に向かう。ドイツでも宗教争乱と相続争いが続き、フェルディナント2世(在位1619~37)の下で三十年戦争となり、国土は荒廃したが、家領ではレオポルト1世(在位1658~1705)が全ハンガリーを確保して、ウィーンはドナウ帝国の中心となり、バロック文化を開花させた。一方、スペイン系はカルロス2世(在位1665~1700)で断絶し、スペイン継承戦争の結果1713年のユトレヒト条約によって王位はブルボン家に移った。
[進藤牧郎]
オーストリア系のカール6世(在位1711~40)は、1713年プラグマティッシェ・ザンクツィオン(国事詔書)を定め、全家領の不分割と一括相続実現のため努力したが、長女マリア・テレジア(在位1740~80)はオーストリア継承戦争、七年戦争に直面してシュレージエンを失う。一時バイエルンから皇帝カール7世が選出されていたが、その死を機に1745年ドレスデンの和約で帝位を回復し、夫フランツ1世(在位1745~65)、長子ヨーゼフ2世(在位1765~90)との共同統治の下で啓蒙(けいもう)的な国内改革を進め、宮廷でも市民的な家庭を築き、国母として敬慕された。ヨーゼフ2世は寛容令、農奴解放令などの急進的改革を行ったが、フランス革命の勃発(ぼっぱつ)後、国際的反動化のなかで啓蒙君主レオポルト2世(在位1790~92)は国内の反動化の動きを防ぎきれなかった。
[進藤牧郎]
ナポレオン戦争により、1806年神聖ローマ帝国は解体し、最後の皇帝フランツ2世(在位1792~1806)は1804年オーストリア皇帝フランツ1世(在位1804~35)を称し、メッテルニヒ体制の頂点にたった。1848年の三月革命に直面し、同年12月フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848~1916)がたち、反革命を勝利に導いたが、ブルジョアジーの台頭と諸民族のナショナリズムの高揚により、反動的な中央集権化と啓蒙主義的な諸民族の連邦化の間を動揺する。彼は、1859年イタリア戦争、66年プロイセン・オーストリア戦争に敗れ、67年アウスグライヒAusgleich(妥協)でオーストリア・ハンガリー帝国を成立させたが、スラブ系諸民族の不満が高まり、1879年ドイツ・オーストリア同盟を締結してバルカン問題の泥沼にはまり込む。老帝には家庭的悲劇も続き、1914年甥(おい)で皇嗣(こうし)のフランツ・フェルディナント夫妻が暗殺され(サライエボ事件)、第一次世界大戦のなかで王家の前途を憂えながら生涯を閉じた。最後のオーストリア皇帝カール1世(在位1916~18)の工作にもかかわらず、敗戦による帝国の崩壊でハプスブルク王家の歴史も幕を閉じた。
[進藤牧郎]
神聖ローマ帝国およびオーストリアの王朝。10世紀中葉ライン川上流スイスのアールガウ地方におこった貴族で,13世紀には南ドイツで最も有力となる。大空位時代ののち初めて神聖ローマ皇帝に選ばれたルードルフ1世はオーストリアとシュタイエルマルクを獲得し,ドイツ東南部におけるハプスブルク家の領邦支配の基をすえた。同家は15世紀中葉,アルブレヒト2世の即位以来,神聖ローマの帝位を事実上独占する。1477年に婚姻政策でブルグント,ネーデルラントを相続して,一躍ヨーロッパの一大勢力となった。カール5世のときスペイン王位と神聖ローマ皇帝位を兼ねるに及んで,フランスとの敵対が恒久化し,この対抗関係が宗教改革から宗教戦争の時代を通じてヨーロッパ国際政治を深く規定した。1526年にはボヘミアとハンガリーをも相続したが,まもなくスペイン,オーストリアの両系統に分かれた。前者は1700年に断絶,後者は三十年戦争で打撃を受けたのち,17世紀後半からは,ホーエンツォレルン家との対抗のもとで,その関心をむしろ東欧や北イタリアに注いだ。神聖ローマ帝国の消滅後も,1918年までドナウ川流域のオーストリア帝国(1867年以降はハンガリーとの二重帝国)を支配した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…【岩淵 達治】
[映画化]
1931年製作のドイツ映画。G.W.パプスト監督作品。ベラ・バラージュ,レオ・ラニア,ラディスラオ・ベイダが脚本を書いた。…
…第1次世界大戦後の〈表現主義映画〉,そこから出発して国際的な評価を得たエルンスト・ルビッチ,フリッツ・ラング,F.W.ムルナウ,G.W.パプストといった監督たち,レニ・リーフェンシュタールのオリンピック記録映画によって代表される1930年代のナチス宣伝映画,そして国際的なスターとして知られるウェルナー・クラウス,コンラート・ファイト,マルレーネ・ディートリヒ,アントン・ウォルブルック,クルト・ユルゲンス,ホルスト・ブーフホルツ,ヒルデガルド・クネフ(アメリカではヒルデガード・ネフ),ロミー・シュナイダー,マリア・シェル,マクシミリアン・シェル,ゲルト・フレーベ等々の名が,〈ドイツ映画〉のイメージを形成しているといえよう。以下,第2次大戦後,東西二つのドイツに分割されて政治的対立の下に映画活動も衰退せざるを得なくなるまでの動きを追ってみる。…
…28年,エイゼンシテイン,プドフキン,グリゴリー・アレクサンドロフ(1903‐83)の3人の連名で,〈トーキーのモンタージュ論〉ともいうべき〈トーキーに関する宣言〉が発表された。そして,それを具体化したソビエト最初の長編トーキーであるニコライ・エック(1902‐59)監督の《人生案内》(1931)がつくられ,フランスではルネ・クレールが《巴里の屋根の下》(1931)で新しいトーキー表現を開拓し,アメリカではルーベン・マムーリアンが《市街》(1931)で音を映画的に処理し,ドイツではG.W.パプストが《三文オペラ》(1931)で新しい音楽映画の道を開いた。 その後,トーキーの技術的進歩・改善がつづき,第2次大戦後の磁気録音テープ,ワイド・スクリーンの副産物としての立体音響の登場など,トーキー映画は数々の発明とともに問題を生んで,映画史を築いていくことになる。…
※「ハプスブルク家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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