ハプスブルク家(読み)はぷすぶるくけ(英語表記)Habsburger

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハプスブルク家」の意味・わかりやすい解説

ハプスブルク家
はぷすぶるくけ
Habsburger

オーストリアの旧帝室で、中世以来ヨーロッパ随一の名家。スイス北部出自の貴族の家系で、家名は山城ハプスブルクHabsburg(鷹(たか)の城の意)に由来する。

[進藤牧郎]

世界帝国の実現まで

1273年ルドルフ1世(在位1273~91)がドイツ国王に選ばれると、家領としてオーストリア公領を没収した。14世紀スイスの独立戦争に敗れたが、東方では家領をさらに広げ、ルドルフ4世(建設公、1339―65)は大特許状を偽造して大公と称した。1452年、フリードリヒ3世(在位1452~93)が神聖ローマ皇帝となり、以後ハプスブルク家は皇帝位を事実上独占するに至った。その後巧みな婚姻政策により、マクシミリアン1世(在位1493~1519)は、スペイン、ブルグントを併合し、孫カール5世(在位1519~56。スペイン王としてはカルロス1世、在位1516~56)の下で、ハプスブルク世界帝国が実現する。1522年、カール5世は相続に関するブリュッセル協約により、弟フェルディナント1世(在位1556~64)にドイツの家領と皇帝位継承権を譲り、1526年ボヘミアハンガリーを加えたが、ドイツでは宗教改革とその後の争乱のなかで、意に反しての1555年のアウクスブルクの和議ののち、翌年自ら退位した。

[進藤牧郎]

スペイン・オーストリア両系の推移

カール5世の長子フェリペ2世(在位1556~98)は、反宗教改革を推進、全スペイン王国は最盛期を迎えたが、フランス、イギリスに加えてオランダとも敵対し、衰退に向かう。ドイツでも宗教争乱と相続争いが続き、フェルディナント2世(在位1619~37)の下で三十年戦争となり、国土は荒廃したが、家領ではレオポルト1世(在位1658~1705)が全ハンガリーを確保して、ウィーンはドナウ帝国の中心となり、バロック文化を開花させた。一方、スペイン系はカルロス2世(在位1665~1700)で断絶し、スペイン継承戦争の結果1713年のユトレヒト条約によって王位ブルボン家に移った。

[進藤牧郎]

啓蒙主義時代

オーストリア系のカール6世(在位1711~40)は、1713年プラグマティッシェ・ザンクツィオン(国事詔書)を定め、全家領の不分割と一括相続実現のため努力したが、長女マリア・テレジア(在位1740~80)はオーストリア継承戦争、七年戦争に直面してシュレージエンを失う。一時バイエルンから皇帝カール7世が選出されていたが、その死を機に1745年ドレスデンの和約で帝位を回復し、夫フランツ1世(在位1745~65)、長子ヨーゼフ2世(在位1765~90)との共同統治の下で啓蒙(けいもう)的な国内改革を進め、宮廷でも市民的な家庭を築き、国母として敬慕された。ヨーゼフ2世は寛容令、農奴解放令などの急進的改革を行ったが、フランス革命の勃発(ぼっぱつ)後、国際的反動化のなかで啓蒙君主レオポルト2世(在位1790~92)は国内の反動化の動きを防ぎきれなかった。

[進藤牧郎]

オーストリア帝国

ナポレオン戦争により、1806年神聖ローマ帝国は解体し、最後の皇帝フランツ2世(在位1792~1806)は1804年オーストリア皇帝フランツ1世(在位1804~35)を称し、メッテルニヒ体制の頂点にたった。1848年の三月革命に直面し、同年12月フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848~1916)がたち、反革命を勝利に導いたが、ブルジョアジーの台頭と諸民族のナショナリズムの高揚により、反動的な中央集権化と啓蒙主義的な諸民族の連邦化の間を動揺する。彼は、1859年イタリア戦争、66年プロイセン・オーストリア戦争に敗れ、67年アウスグライヒAusgleich(妥協)でオーストリア・ハンガリー帝国を成立させたが、スラブ系諸民族の不満が高まり、1879年ドイツ・オーストリア同盟を締結してバルカン問題の泥沼にはまり込む。老帝には家庭的悲劇も続き、1914年甥(おい)で皇嗣(こうし)のフランツ・フェルディナント夫妻が暗殺され(サライエボ事件)、第一次世界大戦のなかで王家の前途を憂えながら生涯を閉じた。最後のオーストリア皇帝カール1世(在位1916~18)の工作にもかかわらず、敗戦による帝国の崩壊でハプスブルク王家の歴史も幕を閉じた。

[進藤牧郎]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハプスブルク家」の意味・わかりやすい解説

ハプスブルク家
ハプスブルクけ
Habsburg

神聖ローマ帝国,オーストリア帝国の皇帝家。 16世紀以降はハンガリー王位,ベーメン (ボヘミア) 王位をも兼ね,1516~1700年にはスペイン王家をも占め,ヨーロッパ随一の由緒と威信を誇った。 1273年大空位時代ののちルドルフ1世が初めて神聖ローマ皇帝となり同家繁栄の基礎を築いた。のち一時神聖ローマ皇帝位から離れたが,1438年オーストリア公アルブレヒト5世が再び皇帝となってから,神聖ローマ (ドイツ) 皇帝の地位は事実上同家の世襲するところとなった。同家の隆昌は 15世紀末のマクシミリアン1世のときに始り,その孫でスペイン王のカルル5世のもとで大帝国が築かれた。カルルの退位後,神聖ローマ皇帝家とスペイン王家の2家に分れ,後者はフェリペ2世時代にスペイン王国の全盛時代をもたらしたが,属領ネーデルラントの独立やフランス,イギリスの攻撃で次第に衰え,1700年ブルボン家に取って代られた。前者は三十年戦争,オーストリア継承戦争,ナポレオン戦争を経たあと,1804年ついに神聖ローマ皇帝の地位は廃止された。しかし以後もオーストリア皇帝として,また 67~1918年まではオーストリア=ハンガリー皇帝として君臨し,メッテルニヒ時代はヨーロッパの覇権を握ったが,第1次世界大戦の敗北により,王朝としては消滅した。

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