ムガル帝国第3代皇帝。在位1556-1605年。父皇帝フマーユーンが玉座を追われ,インド西部を逃亡中に生まれた。フマーユーンが再び玉座にもどってまもなく死んだため,弱冠13歳で皇帝の座についた。この時点ではフマーユーンをインドから追ったスールSūr朝の残存勢力がまだ根強く,その中心となる部将にヒンドゥー教徒のヘームーHemūがおり,彼はフマーユーン死後の混乱に乗じて,一時デリー,アーグラを占領した。1556年11月,デリー近郊パーニーパットの地で,ムガル軍はヘームー軍を破り,ここにアクバル支配が始まった。アクバルは,幼少時・少年期はバイラーム・ハーンBairām Khānらフマーユーン時代の強力な遺臣および乳母マーハム・アナガの一族に帝国支配の実権をにぎられていた。それらの勢力を倒したあと,60年代後半になると,絶対君主としての地位を固める方策をとっていった。シャイフ・ムバーラクShaykh Mubārakおよびその2人の息子アブール・ファイズ・ファイズイー,アブール・ファズルらを側近にし,自らの支配を理論的に擁護させようとしたのはその一つのあらわれである。また,彼は,バーブル,フマーユーン以来の,中央アジア出身の部族の伝統を継ぐ軍事体制を改革して,ラージプート軍団を主力にとり入れた新たなムガル軍事体制をつくりあげようと試みた。70年代半ばには,帝国統治制度の一大改革を開始した。それは,それ以前に試みられてきた一つ一つの小さな改革をまとめて,税制,軍事,官僚制の全般にわたって,一気に革新を試みる一大改革であった。マンサブダーリー制はこのとき成立した制度の一つであり,これは単なる軍事制度ではなく,ムガル官僚制としても機能するものであり,のちのムガル支配の根幹をなす制度である。アクバルはまた,ヒンドゥー上層,ムスリム上層,その他インド内諸勢力の有力層を自らの内にとりこんで,皇帝の絶対支配を固める政策をとった。アブール・ファズルは,それを〈スルヘ・クルṣulḥ kull(万民との平和)〉なる用語で表現した。アクバル時代の帝国領は,今日のアフガニスタンの一部から北インド全体にまたがるが,デカンにはまだ別のムスリム諸国家が存在していた。
執筆者:小名 康之
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インドのムガル帝国第3代の皇帝(在位1556~1605)。帝国の基礎の確立者。父フマーユーンがスール朝のシェール・シャーにインドを追われ、亡命の途次に生まれた。父がデリー奪回後1年で急死すると13歳余で即位し、同年、摂政(せっしょう)のバイラームの助けを受けてスール朝軍をパーニーパットで撃退した。1560年バイラームを失脚させて親政を実現。懐柔策と武力を併用してラージプート人のほとんどを服属させるなど、ヒンドゥー・クシ山脈以南のアフガニスタンおよび全北インドを支配下に置き、これを12州に分け、晩年にはベラールなどデカンの3州も加えた。彼は中央集権の実をあげるため、州―県―郡(=徴税区)の行政区分を敷き、徴税制度を整備した。とくに帝国中央部では、各徴税区ごとに、過去10年間の平均収量や平均価格をもとにした作物ごとの単位面積当り収量(貨幣換算したもの)の3分の1を地租額として確定し、年々の作付面積(実測)に応じて現金納させた。また、官僚(軍人)を等級に分け、それに応じて常備すべき騎兵数とジャーギール(給与地)の大きさを定め、厳格な軍馬登録制とジャーギールの数年ごとの転封を実施した。彼はこれらの中央集権化政策を、ペルシア人、インド人イスラム教徒、同ヒンドゥー教徒らを用いて、古参の軍人たち(おもに中央アジア出身)を抑えつつ実施していった。彼の宗教政策も政治情勢に応じて変遷したが、最終的にはジズヤ(非イスラム教徒に課する人頭税)を廃止するなど宗教的寛容政策をとり、各宗教、宗派の平和共存を奨励した。彼が創始したとされるディーン・イラーヒー(神の宗教)は、宗教というよりは臣下の君主に対する忠誠心を、弟子の導師に対するそれのように高めることをねらったものであった。彼の時代にはポルトガル語書物などのペルシア語への翻訳、アブル・ファズルらによる歴史書の記述、新都ファテプル・シークリーなどにおけるイスラム様式にヒンドゥー様式を加味した多くの優れた建築物の造営、特色あるムガル細密画(ミニアチュール)法の創出もなされた。
[長島 弘]
『石田保昭著『アクバル大帝』(1972・清水書院)』
1542~1605(在位1556~1605)
ムガル帝国の第3代皇帝。父フマーユーンがシェール・シャーによってインドから追われ,シンド地方を逃亡中に生まれた。フマーユーンはデリーを回復したが急死したため,1556年若干13歳で皇帝位についた。80年代には北インドを平定し,税制,軍制,官僚機構を整え,ムガル帝国の支配を確立した。幼少期に読み書きを習う機会を逃したが,彼の近従としてアブル・ファズル他優れた人物に恵まれていたため統治を行うことができた。彼はヒンドゥー教をはじめ諸宗教に対しきわめて寛大で,80年代初め副都ファテープル・シークリーで宮廷を訪れたイエズス会神父等さまざまな宗教の学者を集め討論会を開いた。彼の宗教思想は詳しくは明らかでないが,スーフィー的要素が強かったようである。
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…だが支配層は部族を軸として党派を組んで党争し,しだいにトルコ系部族よりもアフガン系部族が有力となった。 ムガル帝国では,第3代皇帝アクバルが支配体制を確立し,それはデリー諸王朝,とくにシェール・シャーの制度を発展させたものである。第1に,スーバ(州)からパルガナ(郡)に至る地方支配体制を整備し,中心的な地域では,土地を測量して生産物によって単位面積の地税を定め,それを銀貨で徴収するなど,安定した財政を確保した。…
…ウマイヤ朝カリフのウマル2世(在位717‐720)が征服地の住民のイスラムへの改宗を奨励するに及び,ジンミーとイスラムに改宗したマワーリーとの租税負担に差を設ける必要が生じ,人頭税はジンミーだけに課することとして,それがイスラム法の規定となった。しかしムガル帝国の皇帝アクバル(在位1556‐1605)のように,ジンミーへの人頭税を廃止した君主もある。【嶋田 襄平】
[中国]
旧中国の税制は,土地税と専売を2本の柱としたが,古代・中世には人頭税も重要な役割をになった。…
…インド北部,ウッタル・プラデーシュ州アーグラ市の西約40kmの岩丘上にある〈勝利の市〉という意味の古城。ムガル朝のアクバル帝によって1569‐74年に建設され,85年まで居城として用いられた。石材はほとんどが赤色砂岩で,構造は簡素であるが,細部に精緻な装飾彫刻を施している。…
…町には数えきれないほど多くの大小の寺院が建立されている。なかでも最大の寺院は,ゴビンド・デオで,16世紀末にアクバル帝がヒンドゥー教の栄光を祈って建立したとされる。また,ニクンジャ・バンと呼ばれる壁で囲まれた公園は,クリシュナ神が信者の前に現れた場所と信じられている。…
…インドのムガル帝国における軍事・官僚機構。第3代皇帝アクバル時代(1556‐1605)の中期,1570年代半ばから90年代にかけて成立したといわれる。マンサブmanṣabはアラビア語で〈位階〉を意味し,ダールdārは〈持つ〉の意のペルシア語dāshtanの語根で,〈マンサブダールmanṣabdār〉は位階を持つ者の意。…
…その最初期は,ペルシアのサファビー朝のタブリーズ派の画家が招かれ,多数の挿絵入り写本がもたらされて,もっぱらペルシア細密画の技法を消化吸収した時代である。第3代皇帝アクバル(在位1556‐1605)のときには,インド人の画家がしだいに指導的地位につき,インド的傾向が強まってムガル絵画独自の様式が明瞭になった。ポルトガルの大使やキリスト教宣教師団によってもたらされた西洋絵画の影響も見のがすことはできない。…
…フマーユーンも即位してほどなくアフガン系のスール朝のシェール・シャー(在位1538‐45)と戦って敗れインドを追われた。シェール・シャーの死後,1555年,フマーユーンはやっとデリーの王座にかえりついたが事故がもとでまもなく死に,13歳のアクバル(在位1556‐1605)が王位についた。ムガル帝国が北インド一帯の支配王朝として安定したのは,このアクバルが成人して自ら帝国の統治に乗り出してからのことである。…
※「アクバル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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