香取郡
かとりぐん
面積:三九六・一三平方キロ
下総町・神崎町・大栄町・多古町・栗源町・小見川町・山田町・干潟町・東庄町
利根川下流域南岸一帯の地域で、佐原市ほか現香取郡域の町村を包括するが、古代の香取郡域は佐原市・神崎町・下総町・大栄町と成田市東部に限定され、小見川町・東庄町・山田町・干潟町は海上郡、多古町・栗源町は匝瑳郡に含まれていた。中世の郡域は明らかではないが、現在の佐原市・神崎町や成田市・下総町・大栄町・小見川町などの一部にすぎなかった。江戸時代には海上郡の西部を取込む広域の郡となり、現在の香取郡九町と佐原市・銚子市・八日市場市・匝瑳郡光町、茨城県稲敷郡東村・河内村にわたっていた。西は埴生郡、東は海上郡、南は匝瑳郡および上総国武射郡、北は常陸国鹿島郡などと接していた。現在の香取郡は北は茨城県河内村・東村、同県鹿島郡神栖町と佐原市、東は鹿島郡波崎町と銚子市・海上郡海上町、南は旭市・八日市場市・光町・山武郡横芝町・芝山町、西は成田市に接する。
下総国一宮とされる香取神宮の鎮座する郡で、郡名も香取と表記されることが多いが、
托・
取・鹿取などとも記された。楫取と記し、中世に「かんとり」とする仮名史料が残ることから漁労・水運に関連する地名とされる。「和名抄」東急本などでは加止里の訓を付し、「和名抄」名博本や「延喜式」民部省、「拾芥抄」などではカトリと読んでいる。
〔古代〕
律令期以前、当郡域と海上郡・匝瑳郡を包括する下総東部地域は「古事記」「先代旧事本紀」記載の下海上国造の領域に含まれていたと推定され、拠点的に存在する大型前方後円墳がそれを示唆している。四世紀代の大型古墳として内陸部の柏熊古墳群(多古町)中に杓子塚古墳・おけ塚古墳、利根川沿岸には大日山古墳(下総町)がある。五世紀代になると中心的勢力は利根川沿岸に集約し、五世紀前半に一之分目古墳(小見川町)、五世紀中葉には流域最大規模の三之分目大塚山古墳(同上)が造営され、下海上国の原形ともいうべき、広域に君臨する首長勢力が誕生したと考えられる。その後中小規模の前方後円墳が分散的に造営される段階を経て、六世紀前半には禅昌寺山古墳(佐原市)、六世紀中葉―後半には城山一号墳(小見川町)・北条塚古墳(多古町)・御前鬼塚古墳(干潟町)などの中・大型前方後円墳が造営されたが、古墳時代後期には強大な首長勢力が一ヵ所に集中・継続することなく、しだいに拡散していったかのように見受けられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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