日本大百科全書(ニッポニカ) 「甲賀流」の意味・わかりやすい解説
甲賀流
こうがりゅう
近江(おうみ)国(滋賀県)甲賀地方の郷士の間に起こった忍びの術。技術内容は伊賀流とほぼ同じで、特定の家元や宗家は認められず、藤林保義(やすよし)の『萬川集海(まんせんしゅうかい)』などを共通の基本伝書としている。甲賀と伊賀とは鈴鹿(すずか)山系に連なる山間地帯で、古来杣(そま)を主業とする者や、採薬(売薬)、採石(石工(いしく))、狩猟、製炭などを副業とする者が少なくなかった。この生産や生活の技術が忍びの術に連なったと考えられる。
戦国時代、甲賀郡には五十三家とよばれる地侍(じざむらい)が蟠踞(ばんきょ)し、守護六角佐々木氏の支配下に、郡中惣(ぐんちゅうそう)や同名惣(どうみょうそう)をつくって団結を強めていた。1487年(長享1)の長享(ちょうきょう)の乱に六角高頼(たかより)に味方し、寡兵よく将軍家の軍を奇襲攻撃で悩ませた。その後、諸大名からその技能を買われて各地で活躍したが、とくに徳川氏との結び付きは親密だった。1638年(寛永15)正月、島原の陣で原城の攻略戦に、甲賀在住の望月兵大夫(もちづきへいだゆう)ら10人が偵察行動に奮闘したのが、いわば甲賀忍者の最後の活躍であった。
[渡邉一郎]