忍術(読み)ニンジュツ

デジタル大辞泉 「忍術」の意味・読み・例文・類語

にん‐じゅつ【忍術】

敵の情報を調査したり、後方を攪乱かくらんしたりする術。変装・潜行・速歩などを利用し、巧みに敵方に入りこむ。甲賀こうが流・伊賀いが流などがある。隠形術おんぎょうじゅつ。忍びの術。
[類語]忍法忍び忍者忍びの者間者くノ一素っ破乱波らっぱ探偵密偵間諜回し者隠密スパイ

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精選版 日本国語大辞典 「忍術」の意味・読み・例文・類語

にん‐じゅつ【忍術】

  1. 〘 名詞 〙 詭計(きけい)、変装、速歩、跳躍などを用いて、相手の形勢を観察したり、放火、殺人などの目的で他国や他家などに入り込む術。乱波(らっぱ)透波(すっぱ)などの忍びの技法から発達したもので、安土桃山時代以後盛んとなった。五遁(火遁・水遁・木遁・金遁・土遁)、山彦、陰中陽などさまざまの術があり、甲賀流伊賀流にはまた独自の秘術があった。隠形(おんぎょう)術。忍びの術。忍法。
    1. [初出の実例]「シヤ是にたよって忍術(ニンジュツ)を授り、再び家を引き起さん」(出典浄瑠璃木下蔭狭間合戦(1789)五)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「忍術」の意味・わかりやすい解説

忍術
にんじゅつ

わが国武術の一つで、軍事・政治上など特別の目的をもって、敵地・敵陣にひそかに潜入し、敵方の動静や機密を探索するための術技をいう。ときに集団で暗殺・奇襲・後方攪乱(かくらん)などの直接行動に出て、敵の戦力に大きな打撃を与えたりした。一般の武術流派に比べて、流祖や伝系が明確でないものが多いが、戦国時代を通じてほぼ完成の域に達した。伊賀・甲賀・紀州(根来(ねごろ)・雑賀(さいが))の3主流のほか、芥川(あくたがわ)流、義経(よしつね)流、福島(ふくしま)流、扶桑(ふそう)流、忍甲(にんこう)流、甲陽(こうよう)流、白雲(はくうん)流、戸隠(とがくし)流などが知られている。甲賀流14世を名のった藤田西湖(せいこ)の研究によれば、文献上にその名のみえる忍術流派は71流、そのうち伝書・資料の確認されるもの31流を数える。

[渡邉一郎]

歴史

広義の忍術の起源は、人類の生活、戦争の歴史とともに古く、中国古代の兵書『孫子(そんし)』用間篇(ようかんへん)をはじめ、作戦の展開上、間(かん)や諜(ちょう)の利用を説くものが多く、時代によって細作(さいさく)・遊偵(ゆうてい)・姦細(かんさい)、または遊士(ゆうし)・行人(こうじん)などとよばれた。わが忍術の起源についても、聖徳太子の使った志能便(しのび)に求める説があるが、実際は平安末、源平時代以後のことで、とくに南北朝の動乱期、戦闘の規模が大きくなり、集団化したため、物見(ものみ)(斥候)や間者(かんじゃ)(探偵)の使用が不可欠となった。知将といわれた楠木正成(くすのきまさしげ)は京都の動向を察知するため、伊賀者(いがもの)48名を雇い、これを3番に分け、常時16名ずつを京都に潜入させていたという。さらに応仁(おうにん)の乱(1467~77)を経て1世紀にわたる戦国時代には、諸大名間の攻防戦が激化するとともに、奪口(だっこう)、竊盗(しのび)、草(くさ)、屈(かまり)、乱波(らっぱ)、透破・素破・水波(すっぱ)など、いろいろの名でよばれた忍の者・忍術使いの活動が活発となり、技術的にも深められた。

[渡邉一郎]

忍者

これら忍びの者は、初め敵地の地理的事情に詳しい野伏(のぶし)や山盗の類を使用する場合が少なくなかったが、しだいにその任務内容が多様化し、単なる情報収集(物見)にとどまらず、敵の兵糧や武器を略奪(剛盗(ごうとう))したり、夜間に潜入して敵陣を攪乱したり、夜襲・放火(夜討(ようち))などの先導役などにあたらせたりしたため、いよいよ忍びの専門的技術が必要となり、火薬の使用法などに独自のくふうがなされるようになった。そして大名に召し抱えられて、特別任務を帯びて活躍するようになる。

 小田原(おだわら)の北条氏康(うじやす)に使われた風間小太郎を首領とする風魔(ふうま)一族、武田信玄(しんげん)に仕えた富田郷左衛門らの三つ者(間見(あいみ)・見分(みわけ)・目付(めつけ))、上杉謙信(けんしん)の簷猿(のきざる)や夜盗組、毛利(もうり)家の佐田兄弟、村上家の相部(あいべ)次郎左衛門らがそれで、なかでも伊賀・甲賀地方の地侍(じざむらい)や郷士の間に伝えられた忍びの組織的・集団的技術がいよいよその存在を鮮明にしてきた。1487年(長享1)長享(ちょうきょう)の乱に、将軍足利義尚(あしかがよしひさ)が近江(おうみ)の守護代六角高頼を攻めたとき、鈎(かまり)(滋賀県栗東(りっとう)市)の陣において奇功をたてて一躍有名となり、室町から戦国期にかけて、伊賀忍者の棟梁(とうりょう)(上忍)である北の藤林長門守(ながとのかみ)、南の百地三太夫(ももちさんだゆう)および予野(よの)の服部半三(はっとりはんぞう)をはじめとして、楯岡(たておか)の伊賀崎道順(どうじゅん)、音羽(おとわ)の城戸(きど)弥左衛門、下柘植(しもつげ)の木猿(きざる)・小猿(こざる)、上野の左(ひだり)、山田の八右衛門、神戸(かんべ)の小南、神山の太郎四郎、同太郎左衛門、野村の大炊(おおい)孫太夫、新堂の小太郎など陰忍の名人を輩出した。

 越えて1581年(天正9)織田信長の伊賀進攻に、彼ら地侍層は連合してこれに対抗しようとしたが、信長の圧倒的な軍勢に敗れ、地侍の多くはその厳しい追及を逃れて、大和(やまと)・山城(やましろ)・丹波(たんば)・紀州・河内(かわち)・伊勢(いせ)などへ流散したが、やがてその技能を買われて、前田利家(としいえ)、福島正則(まさのり)などの大名に仕えて、伊賀忍術の正統を地方に伝えた。

 これより先、予野の服部氏は三河松平氏(後の徳川氏)に仕えて生国を離れていたが、1582年の本能寺の変に際し、当時泉州堺(さかい)にあった家康が窮地に陥ったとき、半三の子、半蔵正成(まさなり)は伊賀者200人、甲賀者100人の動員に成功し、家康一行を鹿伏兎(かぶと)峠越えで無事通過させ、岡崎に送り届けた。その功によって半蔵の支配下に伊賀者200人が召し抱えられた。一方、甲賀の忍者は、1600年(慶長5)関ヶ原の役の前哨(ぜんしょう)戦となった伏見(ふしみ)の籠城(ろうじょう)戦に甲賀から100余人が救援に駆けつけ、うち70余人が戦死するという目覚ましい活躍をみせた。家康はその功に報いるため、甲賀百人組を編成させ、与力格を与えた。

 近世初頭のこの段階では、忍術はいまだ弓馬剣槍(けんそう)のような近世的流派を形成するに至っていなかった。忍術としてのテクニックは現実に存在し、戦術上の必要性は大いに認められたが、それは閉鎖的な非公開の秘術であり、口伝(くでん)と体伝とによってのみ伝承され、ほとんど文字には残されてこなかったし、また倫理的な性格が希薄であり、実務は身分的に軽輩下賤(げせん)の者(下忍)が携わるもの、特務的集団の者のみが修練すべきものという認識が強かったからである。1637年(寛永14)の島原の乱に、在郷の甲賀者望月(もちづき)兵大夫ら100人が勇躍して原城攻めに参加したが、戦功をあげるには至らなかった。この出動を最後にして、中世的な忍者活動は終止符を打ち、やがては忘れられた存在となる運命にあった。

[渡邉一郎]

忍書の成立

4代将軍徳川家綱(いえつな)の時代に入ると、幕藩体制も安定期に入り、文治的風潮が強まるとともに、幕初のように隠密(おんみつ)を各地に潜行させて外様(とざま)諸藩の動向を監視する必要もほとんどなくなり、中世的な忍びの術もしだいにその存在意義を喪失し、忍者集団の栄光や誇りも年とともに薄れていき、技術を継承することも困難となった。

 このため廃絶の危機に直面した忍者集団の内部から、かつて忍びの上手たちが用いた秘密の忍技や忍器などを集録するとともに、先行諸武術と同じような体系化と理論づけを行い、近世的武芸としての忍術の地位を明らかにしようとする機運が強まった。この時期に作成された代表的な忍書としては、1655年(承応4)服部美濃守清信(みののかみきよのぶ)が、伊賀者の統領服部半蔵家に伝わる数々の伝承と忍具を中心にまとめた『忍秘伝(にんぴでん)』4巻、1676年(延宝4)伊賀の上忍藤林長門守の子孫と伝える、甲賀国境に近い湯舟(ゆふね)の藤林佐武次保武(さむじやすたけ)が集大成した『萬川集海(まんせんしゅうかい)』6篇(ぺん)22巻、および5年後の81年(延宝9)に藤一水子正武(とういっすいしまさたけ)、実は紀州藩の新楠(しんくすのき)流の兵学者名取三十郎(なとりさんじゅうろう)正武が忍術の正しいあり方について、技法および心法を中心に論述した『正忍記(しょうにんき)』3巻の三つをあげることができる。

 なかでも『萬川集海』は、伊賀・甲賀の11人の代表的な忍者の考案した忍術・忍器、および当時の諸流を比較検討し、正心(しょうしん)、将知(しょうち)、陽忍(ようにん)、陰忍(いんにん)、天時、忍器の6篇に分け、中国明(みん)代の兵書『武備志(ぶびし)』などを援用しつつ、儒教倫理を基礎に置いて、忍術全般を系統的、具体的に叙述しており、まさに伊賀・甲賀両流の正典とされるにふさわしい大著であるといえよう。正心を第一とするは、正心はすべての行動の根本であり、この業に熟達した者が邪心を抱けば、忍芸はたちまち盗賊の術に化すであろうと心法的な面を強く求めている。これは『正忍記』もまったく同じ立場で、技法よりも心法に重点を置いて叙述している。

[渡邉一郎]

忍の技法

伊賀・甲賀および紀州を中心に発生した忍の技法には、中世修験者(しゅげんじゃ)が用いた九字護身法(くじごしんほう)や山嶽(さんがく)兵法のテクニックがその背景にあると指摘されているが、前述の『正忍記』には、忍術には(1)音声忍、(2)順忍、(3)無生法忍、(4)如幻忍、(5)如影忍、(6)如焔忍、(7)如夢忍、(8)如響忍、(9)如化忍、(10)如空忍の十忍があるとし、また『萬川集海』では、忍には陽忍と陰忍とがあり、「陽忍」とは謀計の知慮(詭計(きけい))をもって、その姿を顕(あらわ)しながら敵中に入る法、「陰忍」とは、人目を忍び姿を隠し、敵の虚隙(きょげき)を計り、「隠形(おんぎょう)」の術をなし、特別の道具や仕掛け(忍器・忍具)を使って忍び入る法をいう。この隠形とは、いわば虚実転換の法で、敵の行動に応じて虚実の位を変え、巧みに敵の目をくらまし、わが身形を隠して窮地を逃れ、敵地での隠現出没を自由にする術であるという。

 いわゆる木遁(もくとん)・火遁・土遁・金遁・水遁の五遁の術をはじめ、人・禽獣(きんじゅう)・魚・虫から日月星辰(せいしん)・雲霧・雷電・風雨などまで、すべて世の中にありとあらゆる事象を臨機に応用する。しかし、これを実行するには機敏で強靭(きょうじん)な体力と強固な精神力が要求され、心身両面における日常の錬磨、すなわち早足(さそく)・忍歩き・跳躍・登攀(とうはん)・潜水・調息(ちょうそく)・気合(きあい)などの体力の会得と、精神集中・忍耐力の養成が必要とされ、さらに夜間の潜行活動に不可欠な夜目透視・遠目・遠耳(とおみみ)などの訓練が重視されていた。忍はつねに生命の危険を伴うが、「手柄高名は無用なり、只(ただ)身命を全うして通ずること(復命)を宗(むね)とすべし、如何(いか)にも逃げ延びん」ことを本意とせよとしている。

[渡邉一郎]

服装と変装

服装は山着(やまぎ)をもととした軽快ないでたちで、夜間行動に便利な黒覆面・黒装束(しょうぞく)ばかりでなく、潜伏擬装用として、表は渋茶や柿(かき)色、裏はねずみ色に染めた。敵地への潜入の方法は、多くは夜陰に乗じて、ときに大雨や火事などを利用し、また祭礼の人出や喧嘩(けんか)・騒動などに紛れ込んだ。したがってときには変装したが、虚無僧(こむそう)・出家・山伏・商人・放下師(ほうかし)・猿楽(さるがく)・常のなりの七つを七方出の術という。また携帯用具としては、編笠(あみがさ)・かぎ縄・石筆・薬・三尺手拭(てぬぐい)・付竹(つけだけ)(発火用具)の六つを「忍の六具」といい、干鮑(ほしあわび)・するめ・梅干などの携帯食糧や、まき菱(びし)・手裏剣・針・爆薬などを懐中に忍ばせた。

[渡邉一郎]

忍具・忍器

敵方に忍び入り、偵察行動をするための道具や武器については、さまざまな工夫考案がなされ、各流派によって特別な道具や独自の仕掛けが発明され、また火薬の利用が進んで、その種類は何百を数える。『萬川集海』ではこれらを次の四つに分類している。

(1)登器(梯子・縄類) 結梯(むすびはしご)、飛梯、釣梯、雲梯、巻梯、折れ熊手など。

(2)水器(潜水・渡渉用具) 碇(いかり)、浮袋、鵜(う)(竹筒)、聞金(ききがね)、水蜘蛛(みずくも)、水掻(みずかき)、挟箱船(はさみはこぶね)、浮橋、浮梯子など。

(3)開器(開鍵・工作用具) 問外(といかき)、刃曲り、延鑰(のべかぎ)、小鋸(このこ)、鋏(はさみ)、釘抜(くぎぬき)類。

(4)火器(照明用具・火薬類) 軽松明(かるたいまつ)、火矢(ひや)、狼煙玉(のろしだま)(光玉・音玉)、煙幕(えんまく)(煙玉)、伝火(でんか)など。

 これらのなかには、『武備志』などからの引き写しや、まったく実用に縁遠い荒唐無稽(こうとうむけい)なものもあるが、これらの忍器はまず自ら適否を試み、身体にあった方法で熟達することにより、安全を確認し、初めて隠現出没を自由にし、忍術の力を発揮することができるとしている。

[渡邉一郎]

忍術の衰退

こうして忍術は下賤(げせん)の術から武術としての体裁を整えるに至ったが、時代の流れは忍術の再登場を促すことなく衰退の一途をたどったといってよい。寛政(かんせい)の改革(1787~93)当時、幕府に忍術復興について保護を陳情した甲賀郷士21家のうち、約半数は経済的窮迫で家格の維持すら困難であると訴えている。

 一方、18世紀の後半、文化・文政年間(1804~30)から、すでに実質を喪失した忍術が読本(よみほん)や演劇のうえで、格好の題材として盛んに取り扱われるようになり、かつて忍書が邪道として忌避した奇術・幻術的な要素が興味本位に取り上げられ、演出技術の発達に支えられて、仁木弾正(にっきだんじょう)をはじめ児雷也(じらいや)、天竺(てんじく)徳兵衛、石川五右衛門(ごえもん)、鼠小僧(ねずみこぞう)などが主人公に登場し、その大時代的な活躍が大衆観客の喝采(かっさい)を受けた。また興味をそそる忍びの末技が、寄席(よせ)や座敷芸として演じられたりした。幕末の彼らが、多くは変幻妖怪(ようかい)な術を操る悪玉として描かれたのに対し、明治末年「立川(たちかわ)文庫」に登場した猿飛(さるとび)佐助・霧隠(きりがくれ)才蔵らの創作的な新忍者は、超人的・空想的世界に大衆を引き入れ、さらに大正初年にかけ牧野省三らの映画のトリック手法によって生み出された多数の忍者群とともに大いに歓迎され、第二次世界大戦後のいわゆる忍者ブームの先駆となった。

[渡邉一郎]

『伊藤銀月著『忍術の極意』(1917・武侠世界社)』『藤田西湖著『忍術秘録』(1936・千代田書院)』『足立巻一著『忍術』(1957・平凡社)』『藤田西湖著『どろんろん』(1958・日本週報社)』『奥瀬平七郎著『忍術秘伝』(1959・凡凡社)』『奥瀬平七郎著『忍術――その歴史と忍者』(1963・人物往来社)』『奥瀬平七郎著『忍法――その秘伝と実例』(1964・人物往来社)』『山口正之著『忍者の生活』(1961・雄山閣)』『足立巻一・尾崎秀樹・山田宗睦著『忍法――現代人はなぜ忍者にあこがれるか』(1964・三一書房)』『『日本武道全集 第4巻』(1966・人物往来社)』『『日本武道大系 第5巻』(1982・同朋社出版)』『杜山悠著『忍者の系譜』(1972・創元社)』『石川正知著『忍の里の記録』(1982・翠楊社)』『『現代語訳 萬川集海(陽忍篇・陰忍篇・忍器篇)』(1976~81・誠秀堂)』

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改訂新版 世界大百科事典 「忍術」の意味・わかりやすい解説

忍術 (にんじゅつ)

武家時代の兵法上における特殊技術。密偵,情報収集,謀計,暗殺などを目的とし,変装,隠形(おんぎよう),詭計(きけい)などを利用して人の虚をつき,大胆,機敏に行動する。兵法上の源流は,中国の《孫子》にあり,その〈用間篇〉に述べられている。兵法が中国から日本に伝わって独特の発達をし,間(かん)(調査とか謀略の意味)を用いる術,すなわち忍びの術を特別に修行する忍術が生まれ,これを行う者を忍者といった。忍者は特殊な階級として地域的に集団化した。戦国期広く戦陣で活躍した忍術組織の中では,とくに伊賀と甲賀の忍術組織が有名である。日本における忍術の起源についてははっきりしないが,平安時代の天台・真言宗における密教の秘法的要素や,山岳信仰の修験道の修行となんらかの結びつきがあったと考えられる。とくに修験道の開祖とされる役行者(えんのぎようじや)に忍術の源流をみる説が多い。また印を結び,呪文を唱えるのも密教徒である山伏との関連が考えられよう。しかし,宗教的修行様式と忍術との類似点だけで直接関係があるとはいえない。忍術をよく理解し,また最も活用したのは徳川家康であった。家康は譜代の臣,服部半三保長・半蔵(服部半蔵)父子を通じて忍家を味方に引き入れ,徳川政権を確立するにあたりその忍者組織を秘密機関として活用した。伊賀,甲賀の忍術秘伝書を集大成した《万川(ばんせん)集海》が現存し,その技法もある程度知ることができる。たとえば〈七方出(しちほうで)〉といわれる七つの変装法や城営忍の術,家忍の術,また逃げ出す術としての〈五遁の術〉,これは木遁,火遁,土遁,金遁,水遁の5術である。そのほか速歩の術,結印と呪文などその技法は多岐にわたる。流派は伊賀流,甲賀流をはじめ武田流,戸隠流,紀州流,楠流など各地に多数あり,その呼称も,忍(しのび),かまり,すっぱ,間諜,乱波(らつぱ),隠密など,地域や流派によりさまざまであった。
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百科事典マイペディア 「忍術」の意味・わかりやすい解説

忍術【にんじゅつ】

相手を攪乱(かくらん)したり,たぶらかしたり,あるいは襲ったりするための特殊技術を用いる武術の一つ。忍者が用いる術。密偵,謀略,後方攪乱,暗殺などを任務とする忍者がその目的を達するために用いる特殊武術。小道具を多用して常識では不可能と思われる行動を可能にしたり,変装,隠形(おんぎょう),詭計(きけい)などを利用して人の虚をつき,姿をくらましたりする。これらの技を修得するために宗教的な行にも似た特殊な修行を積み重ねるが,その基本は〈己を無にする〉ことにある。印(いん)を結んだり,呪文を唱えたりするのは密教修験道山伏などとの関係の深さを暗示させる。 忍術組織としては伊賀流,甲賀流が有名。その他にも,武田流,戸隠(とがくし)流,紀州流,楠流などが知られる。その呼称も,忍(しのび),間諜(かんちょう),乱波(らっぱ),隠密(おんみつ),すっぱ,かまりなど流派によってさまざまである。伊賀・甲賀の忍術秘伝書である《万川(ばんせん)集海》などをとおして,こんにちでも忍術の概要を知ることができる。

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