島原(読み)シマバラ

デジタル大辞泉 「島原」の意味・読み・例文・類語

しまばら【島原】

長崎県南東部の市。江戸時代は松平氏の城下町。雲仙岳への入り口。市内各所に湧水がみられ、古くから水の都と呼ばれる。平成18年(2006)1月、有明町を編入。人口4.7万(2010)。
京都市下京区西部にあった、遊郭地。

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日本歴史地名大系 「島原」の解説

島原
しまばら

江戸時代における京都唯一の公許の遊郭として、朱雀野に開発された。京都所司代板倉周防守重宗の命で、寛永一七年(一六四〇)七月に六条三筋町(柳町)から移転することが決定した。江戸中期から祇園ぎおん(現東山区)北野きたの(現上京区)茶屋町にも遊女屋営業が認められるようになるが、これはあくまでも島原支配下の出稼地として黙許されたものであった(京都府下遊廓由緒)

明治五年(一八七二)に京都府が遊郭地の各町にその沿革を書上げさせた「京都府下遊廓由緒」によれば、

<資料は省略されています>

とあるように、この地の公称は西新屋敷で、町組は下古京川西九町組の離レ町である西新屋敷として、六町一統支配をうけ、軒役は無役であった。

移転の年は寛永一八年と伝えるが、角屋文書には寛永一七年七月一二日付の次の替地請取証文が残り、移転はこの前後と考えられる。

<資料は省略されています>

なお廻り堀の内側には絵図などからみて、高さ六尺・幅一尺ほどの土塀が築かれていたらしい。

同時代の寛永以後万治以前京都全図には、朱雀野の中に「傾城町」と書いた一画の町割図が、南東の隅を丹波街道がかすめる位置に貼紙で表され、移転が寛永末年にあわただしく行われたことが知れる。もっとも移転の方針は、幕府内で早くから検討されていたようで、「東武実録」には所司代板倉重宗江戸下向中の寛永七年七月一三日条に「六条(堂)寺傾城町、いつかたへ成とも見計、町はつれへ出し可申候」とみえる。

替地請取証文の五町年寄の連署のうち上之かみの町・中之なかの町・下之しもの町は柳町とあるように、六条柳町(三筋町)を形成していた町々であり、太夫町も「西洞院ともいふ」(「一目千軒」都島原方角絵図)などと後の町割図に注記されるように、六条三筋町の区域の一部をなす西洞院にしのとういん通の遊郭地であった。これに、場所不明だが今一つの公許の遊郭地中堂寺ちゆうどうじがまとめられ、京中の遊郭地を一括して西新屋敷に移したものである。西新屋敷六町のうち、揚屋あげや町の名は、替地請取証文にみえないが、これは、角屋文書の享保九年(一七二四)五月一〇日付の、揚屋町が他町での揚屋営業禁止を求めた奉行所への願書に、

<資料は省略されています>

とあるように、島原(西新屋敷)への移転の際に各町で営業していた揚屋を集めて、一町を新設したものであった。

島原
しまばら

高来たかく郡内にみえる古代からの地名。保安三年(一一二二)の宇佐宮高来郡油山十二箇所立券文(宇佐大鏡)に「島原」とみえ、谷上山のうちの当地八段などが豊前宇佐宮領とされた。南北朝期、菊池氏の勢力が浸透していたとされる。永正五年(一五〇八)菊池政隆阿蘇惟長に追われ、相良氏を頼って「島原ノコトク御出船」したという(「八代日記」同年一〇月一八日条)。天文一四年(一五四五)小槻伊治は上洛のために島原を通過している(一二月一六日「小槻伊治書状」相良家文書)。同一九年菊池義武は兄の大友義鑑に反抗して相良氏を頼ったが、この年三月一二日以前に島原に出頭、同月一四日には隈本くまもと(現熊本市)に入ったものの、八月初旬には再び島原に逃亡した(八代日記)。永禄五年(一五六二)の契忍手形(輯古帖)によれば、島原に聖奥寺があった。同四年「島原村」の者八人(有姓六・寺二)が伊勢神宮の大麻を受け、同一〇年に同じく二〇人(有姓一五・寺五)を数えた(「肥前日記」宮後三頭太夫文書)。元亀二年(一五七一)六月には島原より七人(僧三人・無姓四人)が伊勢参りに赴き、その折に為替をくんだ分(六人が三匁宛、一人が六匁)は国元に帰って替本の楽音がくおん(学音寺)に払込むはずが、道中で切手六枚を紛失している(「肥前国藤津郡彼杵郡高来郡旦那証文」同文書)

〔キリスト教の影響〕

一五六二年イエズス会修道士アルメイダが初めて有馬の領主を訪問したとき家臣の一人から説教師の派遣を求められたため、翌年横瀬よこせ(現西海町)から日本人通訳一人を伴って赴く途中、当地に立寄ると、その地のもっともよい家で宿泊するよう指示され、また贈物があった。

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改訂新版 世界大百科事典 「島原」の意味・わかりやすい解説

島原[市] (しまばら)

長崎県南東部,島原半島東岸の市。2006年1月旧島原市が有明(ありあけ)町を編入して成立した。人口4万7455(2010)。

島原市北部の旧町。旧南高来郡所属。人口1万1729(2005)。島原半島北東部,旧島原市の北西に位置し,有明海に臨む。町域は雲仙岳北側の舞岳(703m)を頂点に北東部へゆるやかな傾斜をもって広がる。海岸部を島原鉄道と国道251号線が並行して走る。水田は谷沿いに小規模にあるのみで,畑作が主体をなし,ジャガイモ,ニンジン,ダイコンなどの栽培,養豚,酪農が行われる。漁業は沿岸漁業が中心で,捕る漁業から育てる漁業に移行しつつある。舞岳付近は雲仙天草国立公園に含まれる。
執筆者:

島原市中南部の旧市。島原湾に臨む市。雲仙岳の側火山眉山(まゆやま)(819m)東麓に発達した扇状地上に立地する。1940年市制。人口3万8316(2005)。島原鉄道,国道251号線が通じる。島原藩の城下町として発展し,1964年に五層の天守閣を復元した島原(森岳(もりたけ))城の堀端から大手にかけて,市役所などの官公署や学校が並ぶ。大手より南へは,アーケードを備えた万町,中堀町の商店街がつづく。また国道沿いの弁天町などに大型店が進出し,商業機能は充実してきた。南部の島原外港は浮き桟橋を備え,熊本や三角(みすみ)へのフェリーが発着し,長崎県東部の海の玄関となっている。北部の三会(みえ)地区には5000トン級船舶が横づけできる岸壁と,工場や食品・青果物などの集荷業者の集まる島原新港三会工業団地が1973年に完成した。工業はアルコール工場,中小造船所,繊維工場などがあり,漁業は養殖のワカメ,ノリを,農業はミカン,野菜,タバコを主産物としている。古来〈水の都〉とよばれ,1792年(寛政4)の眉山の爆発(島原地変)により生じた白土(しらち)湖をはじめ,多くの湧水がみられる。城の西側には下級武士住居の原型を保存した武家屋敷や白い火山灰土の道,そして通りの真ん中を流れる水路があり,藩政時代の面影が残されている。また近年開発された島原温泉とあわせて,観光保養都市の性格を強めてきた。1990年11月雲仙岳の主峰普賢岳(1359m)の火山活動が198年ぶりに再開した。91年5月20日溶岩ドームが出現,24日最初の火砕流が発生,以降93年7月末までに市北部の中尾川沿いの発生も合わせ,その回数は8000回をこえた。なかでも91年6月3日南部の水無川沿いに発生した大火砕流は警戒に当たっていた消防団員ら43名の命を奪った。また土石流も頻発し,下流の島原鉄道(2008年島原外港~加津佐間が廃止)や国道251号を寸断し,多くの建物を埋没させた。家や農地を失った被災者はもちろん,度重なる避難勧告,長期にわたる警戒区域の設定により住民の生活は打ちのめされた。95年2月以降火山活動は沈静化し,復興が進んでいる。標高1486mに成長した溶岩ドームは平成新山と命名。
執筆者:

島原 (しまばら)

京都市街の南西部にあった近世の代表的遊郭。京都の遊郭は,1589年(天正17)に秀吉が指定した二条柳町に始まり,1602年(慶長7)に六条柳町(三筋町ともいう)へ移っていたが,40年(寛永17)に当時としては町はずれの朱雀野へ再移転を命じられて傾城町となった。これが現在下京区に属する島原で,島原の地名はその3年前に起こった島原の乱にちなむとする諸説が伝わっているが,確証はない。いずれにしても,島原は俗称ないし通称であって,正式の地名は西新屋敷といい,その中は揚屋町,太夫町,上之町(かみのちよう),下之町中堂寺町(ちゆうどうじちよう),中之町の6町に分かれ,この町名は今も残っている。四方を溝で囲み,出入口を1ヵ所に限定した,典型的な遊郭設計であった。出入口は出口(でぐち)と呼び,そこに出口ノ柳があった。また,そこへ入る通路は〈朱雀(しゆじやか)の細道〉と呼ばれた。太夫の質がよいことで知られたが,元禄(1688-1704)以後は祇園(ぎおん),北野などの私娼街の進出により衰退を続けた。明治以後も営業を継続していたが,1957年の売春防止法実施とともに消滅した。なお,揚屋町の角屋(すみや)(揚屋),中之町の輪違屋(置屋)などに近世建築の遺構が残っており,角屋では観光用に遊郭風俗のショーをみせている。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「島原」の意味・わかりやすい解説

島原
しまばら

京都市下京区にある、もと遊廓(ゆうかく)のあった地。山陰本線丹波口(たんばぐち)駅の東に位置し、上之町(かみのちょう)、下之町(しものちょう)、太夫(たゆう)町、揚屋(あげや)町などからなる地域。1640年(寛永17)、京都所司代板倉重宗(しげむね)により、六条三筋町(柳町)にあった遊廓を町はずれのこの地へ移転するように命じられ、以後、江戸時代を通じ京都で唯一の公許の遊里であった。西新屋敷(にししんやしき)が公式地名であるが、島原とよぶのは、遊廓の形が島原城(長崎県)に似ていたからとも、移転命令が急でその混乱状態が島原の乱のようであったからともいう。島原は、約2丁(220メートル)四方の周囲に溝を掘り、出入りは惣門(そうもん)の一方口とする本格的遊廓の最初のものであった。設立以来、元禄(げんろく)年間(1688~1704)までは繁栄したが、その特色は太夫(コッタイと俗称)の揚屋遊びにあった。その後、経済的・地理的条件に加えて、格式の墨守や妓品(ぎひん)の下落などのため、祇園(ぎおん)・二条・七条・北野の私娼(ししょう)勢力に押された。取締りによって私娼の一部が島原へ強制収容されることもあったが、もはや時流に添えず、さらに1854年(嘉永7)夏の大火によって決定的な打撃を受けた。明治維新後、毎年4月に廓(くるわ)内を行列して歩く太夫道中などの旧習を復活したが、すでに京都の遊興の中心は祇園に移っていた。それでも、1958年(昭和33)売春防止法施行までは遊廓として存続した。揚屋建築の角屋(すみや)(国指定重要文化財、現在は角屋もてなしの文化美術館)、松本楼、置屋の輪違屋(わちがいや)、大門(輪違屋と大門は京都市指定登録文化財)などが残っている。

[織田武雄・原島陽一]


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百科事典マイペディア 「島原」の意味・わかりやすい解説

島原【しまばら】

京都市下京区,西本願寺西方の一地区。江戸時代は西新屋敷といい,1640年六条三筋町から移った遊郭(ゆうかく)があった。遊廓は東西99間,南北133間,周囲に堀をめぐらし,京都唯一の公許遊廓として栄え,元禄の最盛期には揚屋24軒,茶屋20軒,太夫13人を数えた。のち黙許遊所ができたため衰微。現在は遊廓の古趣を残す観光地となり,太夫道中が行われ,江戸中期の揚屋建築の角屋(すみや)も残る。
→関連項目里ことば太祇丸山

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「島原」の意味・わかりやすい解説

島原
しまばら

京都市下京区の一地区。 JR山陰本線丹波口駅の東側に位置。江戸時代,それまで六条にあった遊里が島原に移り,以後大規模な遊郭として発展。往時には,揚屋,茶屋,置屋が軒を連ねていたが,安政1 (1854) 年の大火で揚屋町の一部を残すだけとなった。重要文化財の角屋 (すみや) を中心に,観光地,歓楽地となっているが,かつてのにぎわいはない。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「島原」の解説

島原
(別題)
しまばら

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
坂田しまはら
初演
万治1(江戸)

島原
しまばら

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
初演
万治1.4(江戸・大和守邸)

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世界大百科事典(旧版)内の島原の言及

【角屋】より

…京都市下京区揚屋町にある旧遊郭島原の揚屋の遺構(重要文化財)。江戸初期の1640年(寛永17)に六条三筋町の遊郭が島原に移転したときから現在地にある。…

【難波物語】より

…1冊。京都島原の評判記。序文のあとに〈難波物語,付,批判〉とあって,本文を掲げた後にその批判を加えるという体裁をとる。…

※「島原」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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