江戸時代における京都唯一の公許の遊郭として、朱雀野に開発された。京都所司代板倉周防守重宗の命で、寛永一七年(一六四〇)七月に六条三筋町(柳町)から移転することが決定した。江戸中期から
明治五年(一八七二)に京都府が遊郭地の各町にその沿革を書上げさせた「京都府下遊廓由緒」によれば、
とあるように、この地の公称は西新屋敷で、町組は下古京川西九町組の離レ町である西新屋敷として、六町一統支配をうけ、軒役は無役であった。
移転の年は寛永一八年と伝えるが、角屋文書には寛永一七年七月一二日付の次の替地請取証文が残り、移転はこの前後と考えられる。
なお廻り堀の内側には絵図などからみて、高さ六尺・幅一尺ほどの土塀が築かれていたらしい。
同時代の寛永以後万治以前京都全図には、朱雀野の中に「傾城町」と書いた一画の町割図が、南東の隅を丹波街道がかすめる位置に貼紙で表され、移転が寛永末年にあわただしく行われたことが知れる。もっとも移転の方針は、幕府内で早くから検討されていたようで、「東武実録」には所司代板倉重宗江戸下向中の寛永七年七月一三日条に「六条并中申候」とみえる。
替地請取証文の五町年寄の連署のうち
とあるように、島原(西新屋敷)への移転の際に各町で営業していた揚屋を集めて、一町を新設したものであった。
一五六二年イエズス会修道士アルメイダが初めて有馬の領主を訪問したとき家臣の一人から説教師の派遣を求められたため、翌年
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市下京区にある、もと遊廓(ゆうかく)のあった地。山陰本線丹波口(たんばぐち)駅の東に位置し、上之町(かみのちょう)、下之町(しものちょう)、太夫(たゆう)町、揚屋(あげや)町などからなる地域。1640年(寛永17)、京都所司代板倉重宗(しげむね)により、六条三筋町(柳町)にあった遊廓を町はずれのこの地へ移転するように命じられ、以後、江戸時代を通じ京都で唯一の公許の遊里であった。西新屋敷(にししんやしき)が公式地名であるが、島原とよぶのは、遊廓の形が島原城(長崎県)に似ていたからとも、移転命令が急でその混乱状態が島原の乱のようであったからともいう。島原は、約2丁(220メートル)四方の周囲に溝を掘り、出入りは惣門(そうもん)の一方口とする本格的遊廓の最初のものであった。設立以来、元禄(げんろく)年間(1688~1704)までは繁栄したが、その特色は太夫(コッタイと俗称)の揚屋遊びにあった。その後、経済的・地理的条件に加えて、格式の墨守や妓品(ぎひん)の下落などのため、祇園(ぎおん)・二条・七条・北野の私娼(ししょう)勢力に押された。取締りによって私娼の一部が島原へ強制収容されることもあったが、もはや時流に添えず、さらに1854年(嘉永7)夏の大火によって決定的な打撃を受けた。明治維新後、毎年4月に廓(くるわ)内を行列して歩く太夫道中などの旧習を復活したが、すでに京都の遊興の中心は祇園に移っていた。それでも、1958年(昭和33)売春防止法施行までは遊廓として存続した。揚屋建築の角屋(すみや)(国指定重要文化財、現在は角屋もてなしの文化美術館)、松本楼、置屋の輪違屋(わちがいや)、大門(輪違屋と大門は京都市指定登録文化財)などが残っている。
[織田武雄・原島陽一]
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…京都市下京区揚屋町にある旧遊郭島原の揚屋の遺構(重要文化財)。江戸初期の1640年(寛永17)に六条三筋町の遊郭が島原に移転したときから現在地にある。…
…1冊。京都島原の評判記。序文のあとに〈難波物語,付,批判〉とあって,本文を掲げた後にその批判を加えるという体裁をとる。…
※「島原」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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