滋賀県南東部の市。2004年10月甲賀,甲南(こうなん),信楽(しがらき),土山(つちやま),水口(みなくち)の5町が合体して成立した。人口9万2704(2010)。
甲賀市中部東寄りの旧町,旧甲賀郡所属。人口1万1840(2000)。野洲(やす)川支流の杣(そま)川上流域にある。中心集落はJR草津線甲賀駅のある大原市場で,甲賀売薬の中心地として発展し,製薬工場が多い。町の工業生産額の8割以上を製薬が占める。近年は甲賀工業団地の造成により,電子,衣料関係の工場も進出している。戦国時代に当地の武士は甲賀衆,甲賀者と呼ばれ,伊賀者と並んで忍びの術で知られた。鈴鹿山麓の油日神社では毎年5月1日に重要無形民俗文化財に指定された太鼓踊が奉納される。神社の本殿,拝殿などは室町~桃山時代の建築で,重要文化財になっている。ほかに櫟野寺,大福寺など重要文化財をもつ古刹(こさつ)が多い。
甲賀市中部西寄りの旧町。旧甲賀郡所属。人口1万9839(2000)。杣川流域を占める。河川沿いに水田が広がり,北部には水口丘陵,南部には鈴鹿山脈の南麓,信楽高原の東麓にあたる丘陵があり,溜池が多く分布する。JR草津線が走り,甲南駅がある。米作を中心とし,酪農,茶などを取り入れた農業が主産業である。近江売薬の中心地の一つであったが,現在は旧甲賀町に中心が移った。また,北部の丘陵には大規模な住宅地が造成されている。甲賀流忍術の発祥地として知られ,竜法師に忍者屋敷がある。
執筆者:松原 宏
甲賀市西部の旧町。旧甲賀郡所属。人口1万4392(2000)。信楽高原鉄道がJR草津線の貴生川(きぶかわ)駅(旧水口町)に通じる。瀬田川の支流大戸(だいど)川の上流域で,標高500~600mの花コウ岩の山地に囲まれた高原に位置する。古代には木津川の河谷を経由して大和との関係が深く,町の北東部に紫香楽宮(しがらきのみや)跡があり,国の史跡に指定されている。中心の長野は信楽焼の主産地で,第2次大戦前は火鉢,茶壺の生産が多かったが,近年は植木鉢に主力が注がれ,ほかにタイルや庭園用の陶器のテーブルセット,灯籠などがつくられており,県立窯業試験場(現,信楽窯業技術試験場),信楽伝統産業会館がある。町の西部の朝宮を中心とする山間地は〈信楽茶〉の産地。県の最南端にあたる山村の多羅尾は江戸時代は幕府の直轄領で,豪族の多羅尾一族が代官をつとめ,現在もその屋敷跡が残っている。
執筆者:井戸 庄三
甲賀市東部の旧町,旧甲賀郡所属。人口9369(2000)。鈴鹿山脈の西斜面,野洲川の上流部を占める。中心集落の土山は江戸時代に東海道の宿場町として発達した。主産業は農林業で,近江茶の産地として有名である。町域の8割が山林で,良質の杉,ヒノキ,マキなどを産する。国道1号線や御在所山に至る鈴鹿スカイラインが通じ,観光開発も進められている。
執筆者:松原 宏
東海道第49次の宿駅。古くから近江と伊勢を結ぶ交通の要地にあり,〈坂は照る照る鈴鹿は曇る,あいの土山雨が降る〉の俗謡によって世に知られている。箱根と並んで東海道の難所といわれた鈴鹿峠をひかえていたことや,多賀,北陸方面へ通じる御代参道の分岐点であったこともあって,宿場町として繁栄した。天保年間(1830-44)には町並み22町55間,人口1505人,家数351軒,本陣2軒,旅籠44軒,問屋場(とんやば)1ヵ所を数えた(《宿村大概帳》)。幕末には脇本陣も設けられた。街道を境に北土山と南土山の二つに分かれており,本陣,高札場は北土山にあった。宿場の東のはずれにある田村神社は坂上田村麻呂を祭神とし,現在も厄よけの神として参詣者が多い。明治に入って鉄道から離れさびれたが,現在は街道の北側を国道1号線が通り,自動車交通の要地となっている。
執筆者:江竜 喜之
甲賀市北部の旧町。旧甲賀郡所属。人口3万7044(2000)。中心市街地の水口は野洲川の河岸段丘上に位置し,江戸時代には加藤氏の城下町で,東海道の宿場町としても繁栄した。現在,水口城の石垣と堀が残っている。国道1号線と307号線が町の北東部で交差し,貴生川駅はJR草津線,信楽高原鉄道と近江鉄道の乗換駅として重要な役割を果たしている。旧東海道沿いに茶園が多く,近年は施設園芸も盛んで,城主の加藤氏が前任地の下野(しもつけ)から移入したというかんぴょうが特産物である。旧甲賀郡の中心地で,県庁の出先機関や学校が集中している。北部の水口丘陵では水口工業団地を中心として工業開発が進められている。
執筆者:井戸 庄三
《延喜式》によれば付近に甲賀駅があり,古代以来,交通・商業の要所であった。16世紀には水口郷の地名が知られたが,1585年(天正13)中村一氏が水口の古城山に岡山城を築城,その後城主は増田長盛,長束正家と代わったが,1600年(慶長5)長束氏滅亡後,幕府領となり岡山城は破壊された。しかしこの地の軍事上の位置を認めた幕府は,33年(寛永10)梅ヶ丘に水口城を新築,36年から城番を置いた。以後,水口城には年番制により5000石から2万石の旗本・大名がほぼ1年半ごとに在番した。しかし82年(天和2)石見(いわみ)国吉永の領主加藤明友が甲賀郡と大和国の一部2万石で入封,水口藩を立藩し,城番制は廃止された。藩主は95年(元禄8)鳥居氏に代わったが,1712年(正徳2)再度加藤氏が入城,2万5000石を領し,9代つづき幕末に至った。
水口は城下町であったが,慶長以降,東海道の宿場町として本陣,伝馬所,問屋が設置され,双子型の町が形成された。1843年(天保14)には戸数692,人口2692人,うち旅籠屋(はたごや)は41軒あった。
執筆者:畑中 誠治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
滋賀県南東部にある市。2004年(平成16)甲賀郡の甲賀、水口(みなくち)、土山(つちやま)、甲南(こうなん)、信楽(しがらき)の5町が合併、市制を施行して成立。市名は古代以来の郡名に由来。市域の東部は鈴鹿山脈(すずかさんみゃく)、南部は信楽山地の山々が占め、北部には水口丘陵が展開。東から南は三重県、南西は京都府に接する。おもな耕地・集落は西流する野洲川(やすがわ)流域(甲賀谷)やその支流杣川(そまがわ)の流域(杣谷)、瀬田川支流大戸(だいと/だいど)川(信楽川)の流域(信楽谷)に形成される沖積平野に展開。野洲川沿いに、旧東海道にほぼ合致する国道1号が東西に、その南方を新名神高速道路が走り、これに交差する国道307号が縦断し、南西端部を422号、北東端部を477号(鈴鹿スカイライン)が横断する。JR草津線・近江鉄道本線・信楽高原鉄道が通じる。鈴鹿山脈は鈴鹿国定公園、南西部の山域は三上(みかみ)・田上(たなかみ)・信楽県立自然公園の域内。奈良時代、旧信楽町域北部に聖武(しょうむ)天皇によって紫香楽宮(しがらきのみや)が造営された。一帯には甲賀寺跡など、同宮に関連する遺跡群があり、紫香楽宮跡として国の史跡に指定される。なお、甲賀寺の造営は、のちに東大寺造営に引継がれる盧舎那仏(るしゃなぶつ)建立に伴うもので、こうした事業のため当地に奈良大工が移り、これが甲賀杣大工の誕生由来との伝承もある。当地は古くから鈴鹿越えで畿内と東国を結ぶ交通の要衝で、江戸時代に東海道が整備されると、水口と土山は五十三次の宿場町となって繁栄した。水口宿は水口藩の城下町としての性格もあわせもっていた。伝統的工芸品の指定を受ける信楽焼は鎌倉時代以来の歴史を有し、関連資料や伝統的作品を展示する信楽伝統産業会館がある。近年は甲南フロンティアパーク、甲賀西工業団地、八田サテライトパークなどの工業団地が造成され、工業出荷額は県内市町村の上位を占める。ゴルフ場や住宅地の造成も著しい。農林業では水稲、チャの栽培、養鶏などが盛んで、かんぴょうは特産品。また、市域の約7割を森林が占め、スギ、ヒノキの良材を産出する。面積は481.62平方キロメートル、人口8万8358(2020)。
[編集部]
『『甲賀町史』(1973・甲賀町)』
滋賀県南東部、甲賀郡にあった町(甲賀町(ちょう))。現在は甲賀市の中央部を占める地域。旧甲賀町は1955年(昭和30)大原、油日(あぶらひ)、佐山の3村が合併、町制施行して成立。町名は古代以来の郡名に由来。1956年和野(わの)、嶬峨(ぎか)地区を水口(みなくち)町に分離。2004年(平成16年)甲賀郡水口、土山(つちやま)、甲南(こうなん)、信楽(しがらき)の4町と合併、市制を施行して甲賀市となった。旧町域は東の鈴鹿山脈、西の洪積丘陵に挟まれ、杣川(そまがわ)流域に狭長な平野がある。JR草津線が北西―南東方向に、新名神高速道路が東西に通じ、甲賀土山インターチェンジがある。産業は農林業が主体で、土壌が特殊重粘土層であるため、農業面で大きな障害となっていたが、大原ダムや幹線水路の完成で改良されてきた。中心の大原市場は交通の結節点で、とくに伊勢への参宮街道の要衝。明治初年に始まる甲賀売薬業は、富山、奈良と並ぶ配置売薬の拠点で、1959年には滋賀県薬事指導所(現薬業技術振興センター)が設置されている。油日神社の本殿などは国の重要文化財。「油日の太鼓踊り(たいこおどり)」は国の選択無形民俗文化財。本尊の木造十一面観音坐像ほか多数の国指定重要文化財を有する櫟野寺(らくやじ)をはじめ、重要文化財を保持する寺院が多く所在する。
[高橋誠一]
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…〈淡海〉〈近淡海(ちかつおうみ)〉とも表記される。滋賀,栗太,甲賀,野洲,蒲生,神崎,愛智,犬上,坂田,浅井,伊香,高島の12郡からなる。《延喜式》のほか738年(天平10)の〈上階官人歴名〉(《正倉院文書》)によって当時も大国であったことが判明する。…
※「甲賀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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