畑本郷村
はたほんごうむら
畑方村との境は不明確で、畑両村と呼称された。中世末期までは畑方村とともに下畑(下組)にあったが、南東の洪積台地上に移住したと伝え、新しく移住した地を上畑(上組)とよんだという。鎌倉期には字柳坪に佐渡国の国衙が置かれたとされるが、確定的なものとはいえない。天文元年(一五三二)五月一〇日の畑野熊野社頭役注文(計良文書)には帯刀・宮内太輔・計良甚左衛門・中川掃部など二九名が年中神事料として合計米三二石六斗余を納め、残った米は宮造立に充てるとされる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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