木町(読み)きまち

日本歴史地名大系 「木町」の解説

木町
きまち

[現在地名]高岡市木町

小矢部おやべ川と千保せんぼ川の合流点右岸に位置し、地子木じしき町の北に続く両側町。北は開発かいほつ町。高岡木町とも称された。本町で、慶長一四年(一六〇九)高岡築城と城下町建設の資材を集めるため、富山木町・守山もりやま木町の商人を呼寄せ、川の右岸に居屋敷を与えて成立したといい、高岡町で最初にできた町とされる(成美のあゆみ)。時割は一三時七歩二厘で、高岡町で最も高く、地子地三千四〇〇歩一厘(不歩記)。明治六年(一八七三)には役地・地子地を含め一万三千六五七坪九合で、高岡町で最も広い(沽券調総計帳)。天明五年(一七八五)の家数一三四(家数書上帳)、明治五年の家数一八三(高岡史料)

当町は川西かわにし七浦の津頭とされ、小矢部川の本支流における川舟の運漕を支配した。収納米川下げ、塩・材木をはじめ諸荷物一切の運漕の裁許、渡海船の荷物を伏木ふしき湊で木町の長舟に積替える際の積荷の割合の決定権、木町で揚げ下ろし、あるいは通過する積荷を舟見役人を置いて点検する権限を与えられていた。また加賀藩主参勤の折には、小矢部川をはじめ諸川の仮舟橋のための長舟を準備する御用も勤めた(高岡市史)。寛永二年(一六二五)当町は梶原淵かじわらふち町へ材木を直送した鴨島かもじま町市右衛門をとがめ、高岡町に対する材木・薪商売の権利を守った(「木町古文書書上帳」木町文書)


木町
きまち

[現在地名]七尾市木町・常盤町ときわちよう

東西に走る通りの両側町で、東はこん町・たけ町、西は白銀しろがね町、南の通りは阿良あら町、北側は海岸(所口地図)。元和二年(一六一六)の所之口町絵図に「かわや町どをり」とみえ、慶安二年(一六四九)に木町となったというが(七尾市史)、寛永一八年(一六四一)の四十物船独占由来申上書(府中町文書)革屋かわや町とあり、天和年間(一六八一―八四)の手記に木町とあったという(鹿島郡誌)


木町
きまち

[現在地名]掛川市喜町きまち

掛川宿一三町の一つで、東海道往還の両側町。北西は仁藤にとう町、東はしん町、南は総構えの堀を隔てて上張あげはり村、西はしお町に接する。材木を扱う業者を集住させたのが町名の由来という(掛川誌稿)。文政六年(一八二三)から天保一三年(一八四二)までの間に町内で三度も火災があったため、同一五年に町民が掛川藩主に願出て喜町と改称したという(同書附記)。正保城絵図では町屋としてみえ、東海道は東端で南に折れ、さらに東に折れ、再び南に折れて境堀を渡るが、堀の内側に番所(東町番所)が描かれている。


木町
いばらぎちよう

[現在地名]東区博労ばくろう町二―三丁目

金田かなだ町の西に続く両側町で、難波橋なにわばし筋から中橋なかばし筋を経て栴檀木せんだんのき筋まで。明暦元年(一六五五)の水帳奥書写(安政三年「水帳」大阪市立中央図書館蔵)には博労中之ばくろうなかの町とみえるが、延宝八年(一六八〇)茨木町となった(同上)。大坂三郷南組に属し、元禄一三年(一七〇〇)三郷水帳寄帳では屋敷数四二・役数五一役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。年寄は井筒屋吉左衛門。


木町
きまち

[現在地名]結城市結城 木町

おお町の西に位置。御朱印ごしゆいん堀内にあり、文禄年間(一五九二―九六)結城秀康によって建設された町とみられ、かつては材木商が集住していたようである。元禄四年(一六九一)の結城町町中間数・家数・屋敷町歩書上帳(赤荻和弥文書)によると、地子免除地で、町中間数は四六間半。宝永五年(一七〇八)の結城町明細帳之控(田宮家文書)によれば、店借り八・寺門前一を含む計三一軒の家と、番屋一、多門たもん寺があった。


木町
きまち

[現在地名]三島市西本町にしほんちよう栄町さかえちよう西若町にしわかちよう

東海道沿いにちや町の西に続く町。宝暦七年(一七五七)新宿しんしゆく町から中之石橋を境に東西に分離して成立(「三島宿新宿町分町請文」三島市郷土資料館蔵)。寛政一〇年(一七九八)の三島宿明細帳(秋山家文書)によると木町・茶町は二町一緒に扱われていて東西の長さ一五八間。慶応三年(一八六七)の高一三六石余、家数四二(本家三二・地借二・店借八)・人数二〇八(「宗門人別取調書」三島市誌)


木町
いばらきちよう

[現在地名]金沢市茨木町・本多町ほんだまち三丁目

柿木畠かきのきばたけの南西にあり、南西はうろこ町・油車あぶらぐるまに続き、北東に延びる通りは安房殿あわどの町へ続く。町名は藩士茨木氏の居屋敷があったことによる。茨木氏は寛永五年(一六二八)頃の元祖源五左衛門(知行高二千五五〇石)以来堂形前どうがたまえに居屋敷があったが、宝暦九年(一七五九)の城下大火ののち居屋敷地が火除地となり、同一〇年代替地として本多氏下屋敷地のうち九〇〇坪余を拝領した(金沢古蹟志)


木町
きまち

[現在地名]上田市中央ちゆうおう四丁目

仙石氏時代の寛文九年(一六六九)頃の古地図(「成沢史料」「緑川史料」上田市立博物館蔵)によると、北国脇往還の通るはら町の北端が西に折れて木町となり、往還はおよそ半町で再び北に折れるが、折れずになお西へ向かい蛭沢ひるさわ川にかかる橋(現木町橋)を渡った町筋も木町である。橋を渡った木町分は仙石氏の家老荒木頼母(一千七〇〇石)をはじめ多くの家臣の侍屋敷であった。


木町
きまち

[現在地名]福井市照手てるて一丁目

きよう町南詰を西に折れたところにあり、東西に延びる町で、西は八幡はちまん町、北はしお町、南裏側は足羽あすわ川河岸である。慶長年間北庄四ツ割図に町名がみえ、家数は三二。正徳三年(一七一三)頃の御城下惣町間数帳には「木町 七拾間、往還ヨリ八幡町迄、但道幅三間半」と記す。



きつじちよう

[現在地名]奈良市東木辻町

鳴川なるかわ町の南に所在。木辻村のうちに発達した傾城町で、「奈良曝」に「上郎町。町役廿軒。此町ニ上屋七軒、くつわ七軒有。此所も花薗とおなしく豊成卿の花薗の内にて、名木ありし跡なり。又異名に入て山せう(椒)にあらす、出てこせう(胡椒)にあらす、唯夕顔をのそむによりてひようたん町共いふ」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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