発坂村(読み)ほつさかむら

日本歴史地名大系 「発坂村」の解説

発坂村
ほつさかむら

[現在地名]東伯町三保みほ

あらい川を挟んで晩田ばんだ村の西に位置する。拝領高は一一六石余。元禄六年(一六九三)の地平帳(山形家文書)によれば田畝数七町八反余・高一〇四石余(上田六反余・高一一石余、中田一町六反余・高二五石余、下田三町八反余・高四九石余、下々田一町五反余・高一七石余)、畑畝数六反余・高二石余。本免は四ツ六分。藪役銀二匁を課されており(藩史)、佐分利氏の給地であった(給人所付帳)幕末の六郡郷村生高竈付によれば生高一五〇石余、竈数七。文久二年(一八六二)の八橋郡村々諸事書上帳(峰地家文書)では家数七・人数三五、林野畝数四町一反余、元治二年(一八六五)の八橋郡村々余業取調帳(河本家文書)では家数七で、うち余業一(庭木造)


発坂村
ほつさかむら

[現在地名]勝山市鹿谷しかだに町発坂

鹿谷の北端にあり、九頭竜くずりゆう川左岸にある。東は比島ひしま村、西は保田ほた村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「四ケ村下郷」(高一八九一・二九五石)の中に含まれていたと推定される。村名は正保郷帳にみえ、田方一七〇石余・畠方七八石余。慶長五年から福井藩領、寛永元年(一六二四)大野藩領、天和二年(一六八二)幕府領で福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府直轄地、元禄五年(一六九二)以降美濃国郡上藩領となった。元禄一一年の明細帳之写(島田家文書)によれば、家数は本百姓一一・水呑一三、人数は九一人であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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