三保村(読み)みほむら

日本歴史地名大系 「三保村」の解説

三保村
みほむら

[現在地名]清水市三保

折戸おりど湾を挟んで清水湊の北東、有度山うどさん丘陵南東麓から北東に突き出した分岐砂嘴三保半島の北東部を占める。東・南は駿河湾に面し、西は折戸村。地内に三保松原御穂みほ神社(三保大明神)がある。古くは廬原いおはら郡に属したが、中世には有度郡・庵原いはら郡の郡境となり、三保神社社地は有度郡、民家は庵原郡に属したという(駿河志料)。天正五年(一五七七)九月一一日武田氏は太田喜三郎を三保神社神主職に補任して「大明神御供免松原浦以下」を安堵している。同年一一月六日「於三保浦船三艘之分」の諸役を免許して武運長久・国家安泰の祈念を命じ、同八年四月一九日には三二竈の塩釜支配を太田氏に命じている(明治大学刑事博物館蔵旧太田家文書)

慶長七年(一六〇二)徳川家康は三保大明神に三保・折戸別符べつぷの三ヵ村、高一〇六石を寄進、当村はその一部である。また塩畑二九ヵ所・船三艘役・山林竹木等の諸役を免許している。

三保村
みほむら

[現在地名]山東町三保

溝黒みぞくろ村の南東、粟鹿あわが山北麓にあり、三保川が流れる。一七世紀前期・中期の国絵図(石川家蔵)および正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図にも村名の記載がある。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高三二四石余。中島なかじま大明神と山貝やまかい大明神が鎮座。伝承ではかつて東西の二つの集落の二人の子供の争いから両家の反目となり、母親同士が刺違えて死んでしまった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報