日本歴史地名大系 「勝山市」の解説 勝山市かつやまし 面積:二五三・三二平方キロ福井県北東部に位置し、北は石川県、東および南は大野市、西は吉田郡、南西は足羽(あすわ)郡。市域の南部を南から北西に流れる九頭竜(くずりゆう)川と、その支流滝波(たきなみ)川・女神(おながみ)川などの流域を含む勝山盆地を中心に発達した。周囲は、東部の標高一六七一・四メートルの大長(だいちよう)山をはじめ、法恩寺(ほうおんじ)山・取立(とりたて)山、北部の大日(だいにち)山などに囲まれ、総面積の七四パーセントが山地である。古くは加賀国とは谷(たに)峠・大日峠などを越えて交流し、大野城下へは筥(はこ)の渡、福井城下へは小舟渡(こぶなと)の渡によって往来した。現在は国道一五七号が大野市から勝山市ほぼ中央を北上し、谷峠の隧道を通って石川県石川郡白峰(しらみね)村へ通り、勝山市街から福井市へ九頭竜川沿いに県道が通る。市名は市成立の中心となった勝山城下によるが、勝山の名は天正二年(一五七四)村岡山(むろこやま)城に拠った一向一揆の勢力が、平泉(へいせん)寺と戦ってこれを焼亡させた時、村岡山を勝山と名付けたことに始まると伝える(平泉寺落ヨリ以来地頭様歳代記)。現存文書では元和二年(一六一六)の奉公人請状(室屋文書)に「勝山袋田町」とあるのが初見である。〔原始〕縄文時代の遺跡は比較的多く分布する。早期と中期に属するものに破入(はにゆう)・幕根(まくね)・古宮(ふるみや)の三遺跡があるが、とくに早期の破入遺跡からは多数の回転押型文土器が出土した。中期に属するものには伊波(いなみ)・志田(しだ)・東遅羽口(ひがしおそわぐち)・堂山(どうやま)の四遺跡、中期と後期に属するものには刀清水(かたなしようず)・三室(みむろ)・志比原(しひわら)の三遺跡、後期以降に属するものには本郷(ほんごう)・浄土寺出村(じようどじでむら)の二遺跡がある。なかでも中期には遺跡数が増大し、その初頭に畿内・瀬戸内地方の影響を受け、その後漸次中部地方の影響を受けたと推定される土器が多く出土している。弥生時代遺跡としては堂山遺跡から中期土器片が出土しているのみである。古墳時代遺跡としては発坂(ほつさか)に前山一号、保田(ほた)に城山一―三号の方形台状墓、ほかに別所(べつしよ)に円墳数基が確認されている。〔古代〕崎(ほうき)の三室遺跡は縄文中期の遺跡として著名であるが、遺跡内ともいえる所に祭祀跡と推定される石が点在し、その東側に九頭竜川に面して標高一七六メートルの三室山がある。この山はその円錐形の美しい姿と併せ、神奈備山として信仰されたと思われる。「和名抄」に記された大野郡内の郷のうち勝山市域と思われるものには毛屋(けや)郷がある。これは下毛屋・猪野毛屋(いのけや)の辺りと推定されるが、傍証史料はない。白山を開いた泰澄は足羽郡麻生津(あそうづ)(現福井市)の人というが、養老元年(七一七)現白山神社にある林泉が白山天霊の中居であるとの夢告を受け、以後この林泉の地が白山登拝の越前馬場平泉寺として栄えることになった(泰澄和尚伝記)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「勝山市」の意味・わかりやすい解説 勝山〔市〕かつやま 福井県北東部,九頭竜川に沿う大野盆地の北半と白山火山群の山地を占める市。 1954年勝山町と平泉寺村,村岡村,野向村,北谷村,荒土村,北郷村,鹿谷村,遅羽村の8村が合体,市制施行。市名は近世以来の町名で,平泉寺を落とした一向一揆が拠点の村岡山を勝山 (かちやま) と呼んだことに由来するという。経ヶ岳山麓の平泉寺白山神社は奈良時代の開基で,白山信仰の中心地。市街地は九頭竜川右岸の河岸段丘上に立地する。柴田勝家の養子勝安が築城し,近世に入り小笠原貞信が入拠して城下町を形成した。九頭竜川舟運の終点で,福井市,大野市,また谷峠を越えて白山市 (石川県) へも通じる交通の要地であった。明治末期から大規模の機業が興り,県の繊維工業の一中心地となった。史跡に白山平泉寺城跡,名勝に旧玄成院庭園がある。市域を流れる九頭竜川は国の天然記念物「アラレガコ (カジカ科の魚) 生息地」。市内北山町杉山の手取層から,勝山恐竜群と呼ばれる十数種の化石が発見されている。白山国立公園,奥越高原県立自然公園に属する。えちぜん鉄道勝山永平寺線が市の西部を通り,国道 157号線,416号線が通じる。面積 253.88km2。人口 2万2150(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by