朝日日本歴史人物事典 「益田兼尭」の解説
益田兼尭
生年:生年不詳
室町時代の武将。父は兼理,母は馬田某の娘。幼名松寿丸,通称孫次郎。左馬助,越中守と称した。永享3(1431)年に父,翌年兄藤次郎と相次いで没したため,急遽家督を相続。同7年,一族・扶持人ら105名が神文を捧げ,松寿丸を惣領として支えていくことを誓約。同10年以後,室町幕府の命に従い連年のように畿内,中国,九州,四国各地を転戦。これらの功により,寛正1(1460)年ごろ幕府引付衆の一員に列せられる。翌2年家督を嫡子貞兼に譲り,以後は貞兼と連携しつつ勢力の拡大と権力の安定に努めた。応仁の乱では,貞兼が大内政弘,陶弘護と結んで山名宗全方の西軍に属す一方,兼尭は足利義政の命に従って細川勝元方の東軍に属することで乱後の一族の安定を図り,石見国人連合の盟主たる地位の獲得に努めた。晩年は七尾城麓の大雄庵に住み,雪舟とも交友があった。益田市雪舟記念館には,現在も雪舟筆の益田兼尭画像が保管されている。<参考文献>広田八穂『中世益田氏の遺跡』
(井上寛司)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報