チューダー朝(読み)チューダーちょう(英語表記)Tudor

翻訳|Tudor

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チューダー朝」の意味・わかりやすい解説

チューダー朝
チューダーちょう
Tudor Dynasty

イギリス王朝(1485~1603)。北ウェールズ君主の家宰であったエドニフェド(1246没)が家祖。その子孫オーウェンチューダー(1400頃~61)と国王ヘンリー5世の妃で,王没後結婚したカサリンとの間に生まれた長男エドマンド(1430頃~56)は,1453年リッチモンド伯(→リッチモンド〈伯・公家〉)に叙せられ,1455年王家の遠縁にあたるボーフォート家のマーガレットと結婚し,ヘンリー(のちのヘンリー7世)をもうけた。オーウェンの次子ジャスパー(1431頃~95)はペンブルック伯になり,ウェールズ地方のランカスター派の指導者であったが,1471年テュークスベリーの戦いでランカスター派が最終的に敗北したのち,甥ヘンリーを連れてブルターニュ亡命。1485年8月ヘンリーは叔父とともに南ウェールズに上陸し,ボズワースの戦いリチャード3世を敗死させ,ヘンリー7世(在位 1485~1509)として即位,王朝を開いた(→バラ戦争)。その次男ヘンリー8世(在位 1509~47)ののち,3人の子,エドワード6世(在位 1547~53),メアリー1世(在位 1553~58),エリザベス1世(在位 1558~1603)が相次いで王位を継承したが,いずれも嗣子がなく,スチュアート朝成立となった。なお,エドワード6世の死後,レディー・ジェーン・グレー(在位 1553.7.)が陰謀により王位についたが,9日間で廃位された。チューダー朝の時代はイギリスの絶対主義時代にあたり,中世を脱して近代国家に発展する基礎が固められた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「チューダー朝」の意味・わかりやすい解説

チューダー朝
ちゅーだーちょう
Tudor

絶対主義の成立期および極盛期に君臨したイギリス王朝。ヘンリー7世(在位1485~1509)に始まり、ヘンリー8世(在位1509~1547)、エドワード6世(在位1547~1553)、メアリー1世(在位1553~1558)を経て、エリザベス1世(在位1558~1603)に至る。したがって、ヘンリー7世がボスワースの野でリチャード3世を破って王冠を獲得した1485年から、エリザベスの死去した1603年に及ぶ、120年近くの支配であった。本来はウェールズの領主、オーエン・チューダーOwen Tudorのときからランカスター王家と緊密な関係を生じ、ばら戦争では同王家のために戦う。さらにその孫のヘンリー・チューダーはジョン・オブ・ゴーント(エドワード3世の第4子)の曽孫(そうそん)を母としたから、ヨーク家に対し王位継承権を主張しえた。内乱の平定によって成立した王朝であったため、王位の尊厳を維持し王権を強化することにはとくに意を用い、またそれに成功している。だが大陸風の絶対主義とは異なって議会の招集が継続されており、むしろ「議会における国王」が最高の統治者とみなされる。ヘンリー8世のごときは、議会の成長を促進した王である。社会の主勢力はジェントリで、貴族の勢力はやや衰えたとみられる。この王朝の成就(じょうじゅ)した大事業は、イギリス国教会の成立と、それに伴う修道院の解散である。重商主義政策をとって商工業を奨励、また海外発展を支援し、新航路の探検にも関心を示した。16世紀の後半には強国スペインと対抗してたじろがず、1588年にはアルマダ(無敵艦隊)を破る。イギリスのルネサンス期にあたり文運の興隆がみられたが、王朝はその推進者であった。

[植村雅彦]


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