雪舟(読み)セッシュウ

デジタル大辞泉 「雪舟」の意味・読み・例文・類語

せっしゅう〔セツシウ〕【雪舟】

[1420~1506]室町後期の画僧。備中の人。いみな等楊とうよう。京都の相国寺に入り、画技を周文に学んだ。山口に画房、雲谷庵うんこくあんを開設。渡明を挟んで宋元画を広く学び、のち大分に天開図画楼てんかいとがろうを開設。自然に対する深い観照のもとに個性豊かな水墨山水画様式を完成し、後世に多大な影響を与えた。作「天橋立図」「山水長巻」など。

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共同通信ニュース用語解説 「雪舟」の解説

雪舟

室町時代水墨画家。1420年に岡山で生まれ、16世紀初頭に死去した。京都の相国寺で絵の修業を積んだ後、山口へ移り、守護大名大内氏の下で画僧として活躍する。遣明使に随行して67年から2年ほど明に滞在。帰国後には、大分や岐阜など西日本を旅して回り、長さ約16メートルに及ぶ「四季山水図(山水長巻)」を描いた。抽象的な空間感覚が特徴で、中国でも認められた。少年期、お堂の柱に縛り付けられたまま、涙を墨のようにして足の指でネズミを描いたという逸話が残る。

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精選版 日本国語大辞典 「雪舟」の意味・読み・例文・類語

せっしゅうセッシウ【雪舟】

  1. 室町時代の画僧。備中(岡山県)生まれ。相国寺にはいって春林周藤に師事、等楊と名づけられる。また、同寺で周文に水墨画を学ぶ。のち周防の山口に行き遣明船で入明。帰国後、山口の雲谷庵を生活の本拠として、全国を行脚した。中国および日本の自然に対する深い観照と、宋元水墨画のすぐれた伝統を融合させて、個性豊かな水墨画を完成。代表作「山水長巻」「破墨山水図」「天橋立図」など。そのほか、道釈人物花鳥画もある。応永二七~永正三年(一四二〇‐一五〇六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「雪舟」の意味・わかりやすい解説

雪舟
せっしゅう
(1420―1506)

室町時代の禅僧、画僧。僧位は知客(しか)。中国から渡来した水墨画の技法を自己のものとし、山水画を大成した画人として、日本美術史上の巨匠の一人。諱(いみな)は等楊(とうよう)。備中(びっちゅう)国(岡山県)赤浜(総社(そうじゃ)市)に生まれ、幼少にして上洛(じょうらく)、相国寺(しょうこくじ)に入り、春林周籐(しゅんりんしゅうとう)についたといわれる。ここで禅僧としての修行を積むかたわら、画を周文に学んだと考えられるが、40歳以前の画歴にはなお不明の点が多い。ほぼ同時代に水墨画の遺作をもつ拙宗等揚をその前身とする説があるが、いまだ確定をみていない。「雪舟」の号は、愛蔵していた元(げん)の名僧楚石梵琦(そせきぼんき)の墨跡「雪舟」の二大字にちなみ、1462年(寛正3)ごろに友僧龍崗真圭(りゅうこうしんけい)が雪舟二字説をつくっていることから、これ以降この号を用いたとみられる。その後とびとびながらもその事績をたどることができるが、1464年にはすでに京を離れて山口に住んでいたらしく、周防(すおう)国(山口県)の守護大名大内教弘(おおうちのりひろ)の庇護(ひご)を受けて、雲谷庵(うんこくあん)とよぶ画室を営んでいる。雪舟が山口に下った理由は、おそらく、日ごろあこがれていた中国宋(そう)・元の水墨画を自分の目で見たいがために、当時明(みん)との往来が盛んであった大内氏の領下に身を置き、中国へ渡る機会をうかがったためと考えられる。

 1467年(応仁1)48歳の春、ついに遣明船「寺丸」に便乗して入明、寧波(ニンポー)を経て北京(ペキン)に上った。この間かの地の名家の真跡を学び、自然と風物を観察、北京では皇帝の命により礼部院の壁画に筆をとり、広く賞賛を得た。また禅僧としても高い評価を与えられ、四明天童山の第一座に推された。この称号に雪舟は生涯誇りを抱いていたようで、晩年までその落款(らっかん)に「四明天童第一座」と加えている。滞明は3年に及び、1469年(文明1)に寧波経由で帰国した。当時の中国画壇、とくに自らも述べているように長有声(ちょうゆうせい)、李在(りざい)、高彦敬(こうがんけい)などから影響を受けたようで、彼らに就いて設色と破墨の法を学んだといい、入明体験はその後の雪舟に大きな成果をもたらすことになった。『四季山水図』(東京国立博物館)は、款記に「日本禅人等楊」とあるところから在明中の制作と考えられ、そうした彼の学習の跡をうかがううえで貴重な作である。

 1476年には大分にあったようで、ここで天開図画楼(てんかいとがろう)という画房を開き、以後、美濃(みの)(岐阜県)、出羽(でわ)(山形県)など各地を漂泊、『鎮田瀑(ちんだばく)図』(大分県)や『山寺図』(山形県)などの真景図を描いた(これらの作品は模本が残されている)。1486年67歳のとき、畢生(ひっせい)の名作『四季山水図(山水長巻)』(国宝、山口県・防府毛利(ほうふもうり)報公会)を制作し、さらに1495年(明応4)には、76歳で弟子宗淵(そうえん)に画法伝授の印(しるし)として与えた『破墨山水図』(国宝、東京国立博物館)を描き、翌1496年にも大作『慧可断臂(えかだんぴ)図』(愛知県・斎年寺)に筆をふるっていることから、晩年に至るまで旺盛(おうせい)な制作意欲を失わなかったことがわかる。また『天橋立(あまのはしだて)図』(国宝、京都国立博物館)は描かれた図様から1501年(文亀1)以降の景観を写したと考証される。この年雪舟は実に82歳で、おそらく当地を訪れたと考えられ、驚嘆すべき強靭(きょうじん)な意志と壮健な肉体とをもった画家であった。

 その作風は、如拙(じょせつ)、周文の系統を引きながら、これに馬遠(ばえん)、夏珪(かけい)、李唐(りとう)、梁楷(りょうかい)、牧谿(もっけい)、玉澗(ぎょくかん)ら宋・元画家たちの画風を取り入れ、さらに自己の入明体験をもとに樹立されたもので、禿筆(とくひつ)を使ったきびきびした描線と、奥行のある強固に構築された構図法に真骨頂をみることができる。その端的な作例がいくつかの水墨山水画で、それは従来の禅僧の余技的な域を遠く乗り越えて、強い自己表出性をもった、厳しい芸術作品にまで高められている。日本の山水水墨画史上雪舟の果たした功績は、まことに偉大であったというべきだろう。

 代表作として、前記の作品以外には、『秋冬山水図』(国宝、東京国立博物館)、『四季山水図』(東京・ブリヂストン美術館)、図中に牧松周省(ぼくしょうしゅうせい)、および了庵桂悟(りょうあんけいご)賛のある『山水図』(国宝、京都大原家)、『山水図巻』(山口県立美術館)などがあり、庭園にも雪舟作庭と伝えるものがある。

 なお雪舟の肖像画は、71歳のときの自画像(寿像)があったとされるが、残念ながら伝存せず、雲谷等益(うんこくとうえき)筆の模本(山口県常栄寺)や大阪・藤田美術館所蔵の模本などで、その風貌(ふうぼう)や人となりをしのぶことができる。

[榊原 悟]

『熊谷宣夫著『雪舟等楊』(1958・東京大学出版会)』『蓮実重康著『雪舟等楊論 その人間像と作品』(1961・筑摩書房)』『松下隆章著『日本の美術100 雪舟』(1974・至文堂)』『中村溪男著『日本美術絵画全集4 雪舟』(1980・集英社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「雪舟」の意味・わかりやすい解説

雪舟 (せっしゅう)
生没年:1420-1506ころ(応永27-永正3ころ)

室町時代の画僧。日本中世における水墨画の大成者。備中に生まれる。一説に赤浜(総社市)の人で小田氏の出身という。少年期に上京,相国寺に入り,春林周藤に仕え等楊の諱(いみな)をもらい,画事を周文に習った。30歳代まで相国寺で修業,僧位は知客(しか)であったが,この間の作品は伝わらず,一部は周文筆と伝承される掛幅の中に混入している可能性もある。周文流詩画軸の伝統の中で,繊細な余情趣味の山水画風を学びとったが,一方,その観念化と矮小化に抗して,より本格的に南宋院体画の構成筆意を求め,より強固な筆致を身につけたのが前半生の立場と思われる。40歳以前に相国寺を出,当時対明勘合貿易を主宰するほどの勢力をもった周防の大内氏の庇護を受けたと推定される。1464年(寛正5)には,山口の雲谷庵に住し,すでに画僧として高名であった。雲谷の庵名,晦庵の別号ともに,当時禅林の宋学趣味に沿ったもので,朱熹の言葉からとったもの。雪舟号もこのころ自分でつけた法号で,雪の純浄と舟の自在を求めるとともに,水墨山水のイメージを重ね,画家としての本格的出発を意図した。

 67年(応仁1)遣明船に陪乗して入明,天童山景徳寺で禅班第一座に任ぜられ,北上して北京にいたる。北京滞在中,礼部院中堂に壁画(竜図)を描き,また,《四季山水図》(東京国立博物館)を描く。途上,各地に立ち寄り,大陸の自然や風俗を実地に観察,スケッチし,つとめて宋・元・明の古典を模写したことが,後の画風形成に決定的な影響を及ぼした。

 69年(文明1)帰国後,しばらく北九州に滞在,大分に天開図画楼(とがろう)なる画房を営みながら,宋・元の古典に対する研鑽をいっそう深めた。《山水小巻》(京都国立博物館),《四季山水図》(ブリヂストン美術館),《倣李唐牧牛図》(山口県立美術館)など宋元院体画,とくに夏珪,李唐,梁楷(りようかい),牧谿(もつけい),玉などの模倣的様式の作例はこの研鑽期に作られたといわれるが,年代の確かな例として74年弟子の雲峰等悦に与えた高彦敬(高克恭)様《山水図巻》(山口県立美術館)がある。やがて周防に戻り,79年には石見で《益田兼尭(ますだかねたか)像》を描き,81年には美濃に至り《金山寺図》や潑墨(はつぼく)風の山水図を描くなど,日本各地を旅し,自然風物に触れながら画囊(がのう)を肥やした。一説に出羽立石寺にまでいたり,奥州からの帰途鎌倉にも立ち寄ったというが定かでない。遅くとも86年までには山口へ戻り,大内政弘によって再興された雲谷庵に入り,ここに再び天開図画楼を営んだ。《山水長巻》(毛利報公会)は86年,天開図画楼で描かれ,大内氏に献じたものと推定される。これは67歳の雪舟が長い宋元画研鑽と中国・日本の山水自然への渉猟・観照を集約したもので,独自の画境を展開している。宋元画の亜流にとどまらない日本的な水墨山水を確立した点では,《秋冬山水図》(東京国立博物館)とともに記念碑的大作である。以後,世事に拘泥しない自由と,画三昧の生活を保障され,自在な画法を深めたが,95年(明応4)弟子宗淵に与えた《破墨山水図》(東京国立博物館),96年の《恵可断臂図》(斎年寺)等は晩年の傑作といえる。晩年には破墨,潑墨などの草体の画風も多く記録され,現実的な山水構成とともに,真行草の筆墨法についても,宋元画をよく祖述した独特の日本的典型に達したものと見られる。

 1501年(文亀1)ころにもまだ旅をやめず,現地へおもむき《天橋立図》(京都国立博物館)を描くなど驚くべき生命力を発揮したが,06年(永正3)ころ,山口または石見地方で没した(1502年(文亀2)とする説もある)。弟子には雲峰等悦,秋月等観,如水宗淵らがあり,1490年(延徳2)雪舟が秋月に描き与えた自画像の模本(藤田美術館)が残る。また,花鳥画も手がけ,20点内外の《花鳥図屛風》(小坂家,前田育徳会等)が残る。雪舟は狩野派の装飾画態に先がけた障屛画の開拓者としても注目されており,中世水墨画と近世の濃彩画との過渡期に当たる有力な画人として位置づけることができる。(図参照)
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百科事典マイペディア 「雪舟」の意味・わかりやすい解説

雪舟【せっしゅう】

室町時代の画僧で,日本水墨画の大成者。諱(いみな)を等楊といい,雪舟は号。備中(びっちゅう)に生まれ,俗姓は小田氏と伝える。幼少で出家して上洛(じょうらく),相国寺の春林周藤に師事,この間画法を周文に習った。寛正年間に対明貿易の拠点であった大内教弘治下の山口で雲谷庵という画房を営む。1467年大内政弘の勘合船に便乗して渡明,1469年帰国。当地ではすぐれた師を見いだせなかったが,大陸の自然に直接接触し,宋元以来の名作に触れる機会をもったことが,後の画業形成に大きく寄与した。帰国後は大分に画房を開き,また山口の雲谷庵も再興して旺盛(おうせい)な作画活動を続け,ときおり旅行して各地の真景を写し,多くの傑作を生んだ。画風は,宋元明の筆法を意欲的に吸収し,特に南宋の夏珪李唐梁楷など謹厳な北宗画的筆法に倣(なら)ったもの,および玉澗などの破墨を摂取したものが目だつ。弟子に秋月等観,如水宗淵らがあり,桃山時代に雲谷等顔が出て以来,雲谷派が形式技法を継承した。狩野派・長谷川派に与えた影響は絶大。代表作《四季山水図》《山水長巻》《秋冬山水図》《天橋立図》。
→関連項目岡山県立美術館虎渓三笑山水画秋月等観雪村禅宗美術長谷川等伯万福寺山口県立美術館李在

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「雪舟」の意味・わかりやすい解説

雪舟
せっしゅう

[生]応永27(1420).備中,赤浜
[没]永正3(1506).周防,山口?
室町時代後期の禅僧,水墨画家。幼少時に出家し上京して相国寺に入り,春林周藤に師事して禅僧となる。諱 (いみな) を等楊 (等揚) といい,知客 (しか) の職をつとめるかたわら,周文に画法を学んだと推定される。 34~35歳頃周防,山口に移り,大内氏の庇護下に画房雲谷庵を営み,ようやく画僧として高名となる。元の禅僧楚石梵 琦の墨跡「雪舟」の二大字を得て雪舟と号した。応仁1 (1467) 年室町幕府の遣明船で入明,天童山景徳寺を訪れて禅の修行をし,第一座の位を与えられた。のち北京において礼部院中堂の壁画を描いて名声を博したと伝える。文明1 (69) 年帰朝。初め大分に天開図画楼を構え,のち山口に雲谷庵を再興し,以後ここを本拠として死没までの間に美濃,京都,丹後などへ旅した。遺作には『山水長巻』 (86,国宝,毛利博物館) ,弟子如水宗淵に与えた『破墨山水図』 (95,国宝,東京国立博物館) などの山水画,『鎮田瀑布図』 (76,焼失) ,『山寺図』 (模本) ,『天橋立図』 (国宝,京都国立博物館) などの風景画,『寿老人図』,『益田兼堯像』 (79) ,『慧可断臂図』 (96,斎年寺) などの人物,道釈画などがある。雪舟の画風は従来の日本画の抒情性を離れて,構図や広大な空間表現の巧みさなど,自然に対する写実的表現を特色とし,そこに禅僧のもつ真摯なきびしさが表出される。弟子に雲峰等悦,秋月等観,如水宗淵らがいる。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「雪舟」の解説

雪舟
せっしゅう

1420~1502/06

室町中期~戦国期の画僧。雪舟は道号,諱(いみな)を等楊(とうよう)。備中国生れ。幼くして京都相国寺に入り,参禅のかたわら画を周文(しゅうぶん)に学ぶ。1464年(寛正5)以前に山口に下り,大内氏の庇護のもとで作画。67年(応仁元)入明し浙(せつ)派の画家李在(りざい)らに学び,69年(文明元)帰国。76年以前は大分で活動。以後山口を拠点とし,美濃・丹後をはじめ諸国を訪ねて真景図を描くなど,晩年まで健筆をふるう。作風は宋元画に学んで幅広く,在来の室町水墨画にない構築的空間表現や激しい筆致などに特色がある。代表作に「山水長巻」「破墨山水図」「秋冬山水図」「天橋立図」(いずれも国宝)。

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旺文社日本史事典 三訂版 「雪舟」の解説

雪舟
せっしゅう

1420〜1506
室町中期の禅僧。日本水墨画の大成者
備中(岡山県)の人。相国寺に入り周文に画を学ぶ。1467年大内氏の便船で入明,画法を学び '69年帰朝。以後主として山口雲谷庵に住す。宋元画の様式を脱し雄大で安定感のある独自の山水画を完成した。代表作に『山水長巻』『秋冬山水図』『天橋立図』など。ほかに花鳥画も描き,装飾画に大きな影響を与えた。

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防府市歴史用語集 「雪舟」の解説

雪舟

 室町時代後半の画僧です。一度、山口を訪れた後、大内[おおうち]氏の貿易船で中国にわたって絵を学び、日本に帰ってしばらくして再び山口を訪れ、それ以後は山口を拠点に活動していました。山口で描いた『山水長巻[さんすいちょうかん]』が代表作です。

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世界大百科事典(旧版)内の雪舟の言及

【備中国】より

…臨済宗を日本に伝えた栄西は,吉備津宮の神主賀陽(かや)氏の出身である。画僧雪舟は大井荘赤浜(現,総社市)の出身で,年少のころ近くの井山(いやま)宝福寺で小僧生活を送ったという。宝福寺は臨済宗東福寺派の名刹として知られる。…

【宝福寺】より

…鎌倉前期に創建,はじめ天台宗,まもなく慧聡禅師により臨済宗に転じた。近郷の生れだった雪舟は,少年時代当寺で修行し,あまり絵ばかりをかいているので,和尚がこらしめようと本堂の柱にくくりつけたところ,足もとに涙でネズミの絵をえがき,和尚があやうく本物のネズミと見誤るところだったという有名な話は,当寺で生まれたものである。近世の寺領100石。…

【室町時代美術】より

…周文はまた,水墨の障屛画の分野でも活躍した。周文の画風は,彼のあとを襲って将軍家の御用絵師となった小栗宗湛や,雪舟,阿弥派,岳翁蔵丘,祥啓らに幅広く受け継がれている。
[対明交易,能・狂言面]
 1368年(正平23∥応安1)の明の建国は,日本と大陸との交易に新しい局面をもたらした。…

【李在】より

…一時,雲南に移ったといわれるが,のちに画院に入って仁智殿に出仕した。日本の雪舟は,入明したとき,李在に設色と破墨の法を学んだと記している。代表作に《山水図》(東京国立博物館)がある。…

※「雪舟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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