相河
そうご
現相川町付近に比定される中世地名。「源平盛衰記」巻二八に、寿永二年(一一八三)五月、平維盛らの軍に追われた源氏方の退路の通過地点として「双河」がみえる。至徳二年(一三八五)四月二七日、室町幕府は相河加賀守跡の相河村西方と長屋村(現美川町)を京都東寺鎮守八幡宮料所として預け置いた(「将軍家御教書」東寺百合文書)。康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」に「弐貫八百五拾文 相河弥三郎殿 加賀国村東方并松成丸之段銭」とみえ、村東方とは前掲史料の相河村西方に照らして相河村にほぼ間違いなく、幕府奉公衆相河氏は当地に基盤をもちつつ、松任郷・成丸まで進出していた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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