相川村(読み)あいかわむら

日本歴史地名大系 「相川村」の解説

相川村
あいかわむら

[現在地名]一関市舞川まいかわ

狐禅寺こぜんじ村の東、北上川東岸にある。中央西寄りに秀麗な独立峰烏兎うどヶ森(三五〇・九メートル)がそびえ、東を番台ばんだい川が南流して北上川に注ぐ。北・西・東は三、四百メートルほどの丘陵に囲まれ、他村に通ずる道は東岳とうがく峠・狭山さやま峠・奈良坂ならざか峠・阿武あぶ峠・山伏やまぶし峠等を越える。中央をほぼ東西に今泉いまいずみ街道が通る。元亀二年(一五七一)七月一〇日の葛西晴信宛行状(折壁横沢文書)に相川村とみえ、亡父の譲状により一千五〇〇刈が横沢平九郎に安堵されている。寛永一九年(一六四二)の相川村検地帳(吉川文書)によれば、田三九町七反余・代四四貫二五七文、畑九一町余・代二一貫二一八文、茶畑一反余・代四〇七文、名請人数五一。この検地の際、布佐ふさ(現東磐井郡川崎村)のうち番台川に沿った南部の休石やすみいし荷掛場にかけば小戸おど小塚こづか夏虫なつむし・番台・根岸ねぎしが当村に入れられたという。


相川村
あいかわむら

[現在地名]海南町相川

浅川あさかわ浦の西方に位置する。南部に小谷こだに山・西にしヶ峯、中央部に瀬戸せと山、西部に貧田ひんでん丸などがあり、相川・穴瀬谷あなせだに川・笹無谷ささみだに川が東流して海部川に注ぐ。阿津あづの阿津神社は室比売むろひめ神社・安津明神などとも称し(「阿府志」など)、「延喜式」神名帳に記す那賀なか郡七座の一つ「室比売ムロヒメノ神社」に比定する説もある。永享元年(一四二九)銘の棟札(写)に社号がみえるという。慶長二年(一五九七)の分限帳に「藍川」とあるのは当地と考えられ、高二二七石余が益田宮内丞の知行分。慶長年間のものと推定される国絵図に「あい川」とみえ、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵国では村名の記載はなく、「さゝ草村」「中野村」「岡本村」「ひうら村」「室津村」「村山村」「大地かいつ村」など村内の地名が村号を付して記される。正保国絵図では「相川村」として高六五九石余で、相川のうちとして川股村・村山むらやま村・こうまえ村・室津むろつ村・江東村(江原か)岡本おかもと村・神野こうの村・細野ほその村とひめ(現海部町)が記載される。


相川村
あいかわむら

[現在地名]大和町落合おちあい 相川

大松沢おおまつざわ丘陵の南縁、西方からのぜん川・竹林たけばやし川・吉田川の三川が、南部の氾濫原で合流し東方に下る。東方報恩寺ほうおんじ村からの道が村の中央で北東松坂まつさか村、南方舞野まいの村・下草しもくさ村、西方奥田おくだ(現大衡村)へ分れる。南は吉田川を境に北目大崎きためおおさき村、西は蒜袋ひるぶくろ村。平姓八幡氏系譜(八幡恭助家文書)に、明応七年(一四九八)九月留守郡宗の命で高崎たかさき(現多賀城市)の高崎盛忠が黒川氏と相川で戦ったとしている。また「源姓黒川氏大衡家族譜」(大衡忠家蔵)に黒川氏一門の相川九郎右馬助・丹波・相川和泉・相川丹後などの名がみえ、当地ゆかりの者と思われる。


相川村
あいかわむら

[現在地名]湯沢市相川

雄物川とその支流高松たかまつ川の合流点の河岸段丘上にある。東は東鳥海ひがしちようかい山の尾根越しに宇留院内うるいんない村、南は高松川を隔てて桑崎くわがさき村(現雄勝おがち郡雄勝町)、西は雄物川を隔てて泉沢いずみさわ(現雄勝町)、北は上関かみせき村と接する。東鳥海山の西麓にあたり、村内の岩の沢いわのさわには、建武元年(一三三四)の板碑があり、須川田畑すかわたのはたの竜神堂には、貞和四年(一三四八)の板碑がある。

ふもとの河岸段丘上にある合川あいかわ城跡は、「柞山峯之嵐」に「合川村に在り。小野寺の臣小笠原能登守高恒楯籠る」と記される。「奥羽永慶軍記」によれば、小笠原氏は天正一〇年(一五八二)八月二八日、由利衆が小野寺氏を大沢おおさわ(現平鹿ひらか郡雄物川町)に攻めた時、由利衆と戦ったと伝える。


相川村
あいかわむら

[現在地名]雄和町相川

雄物川左岸にあり、東南に戸賀沢とがさわ村が隣接する。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に「七百六拾五石壱斗八升三合 鮎川村」とあり、慶長二年(一五九七)の免目録御蔵入御物成納口之帳(秋田家文書)には高は同額、物成は一三〇石、免一ツ七分と記される。

元和七年(一六二一)地頭の課税が厳しく蔵入地に編入してほしいとの要望が村人から出されている(「梅津政景日記」元和七年二月六日条)。「徳右衛門万覚日記帳」(戸米川村誌)によれば、宝暦八年(一七五八)には角館かくだて佐竹氏の給地となっているが、給人替の時期は不詳。


相川村
そうごむら

[現在地名]松任市相川町

徳光とくみつ村の北東、山島やまじま用水の分流きた川が流れる。中世には相河そうごと記した。正保郷帳では高一千七九三石余、田方一一五町五反余・畑方四町、新田高三九九石余(免二ツ九歩)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一千六五四石、免四ツ五歩、小物成は外海引網役二六匁(ほか二六匁退転)、猟船櫂役一二匁五分(ほか二二匁五分退転)、尻巻網役一〇匁、鳥役八五匁(ただし鷹場につき免除)、六歩口銭一匁(出来)であった(三箇国高物成帳)


相川村
そうがわむら

[現在地名]岸和田市相川町

河合かわい村の東、神於こうの村の南、神於山南方の津田つだ川上流域に位置する。津田川が村の中央を南から北へ流れ、塔原とのはら街道がこれに沿って南北に貫走している。またしん池から発するたに川もやがて河合村で津田川本流に合流する。近世初頭の実報院諸国旦那帳(熊野那智大社文書)に「惣川村」とみえる。古検高は一四〇石余(「岸和田御領分中古高今高仕出帳」鬼洞文庫蔵)。慶長九年(一六〇四)の伍箇畑相川村検地帳(東京大学史料編纂所蔵)でも同高、うち田方五七石余(田数四町九反余)・畑方八三石余(畑数一一町八反余)、四石池成・二四石余永荒・毛付高一一二石余。


相川村
あいかわむら

[現在地名]男鹿市北浦相川きたうらあいかわ

男鹿半島の北部、相川の川口に位置する。相川の東約五〇〇メートルを大増おおます川・小増こます川が流れ、両岸は小さな河岸段丘をなし水田が開かれる。上流は安善寺あんぜんじ村・真山しんざん村に至る。背後の丘陵上に縄文中期の竪穴住居跡があり、土器片・石鏃などが出土する。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「あい川村 福米沢村」として六三五石三升六合とある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に相川村二〇一石と記される。


相川村
あいこむら

[現在地名]上五島町相河郷あいこごう

青方あおかた村の南西に位置し、青方浦に臨む。東のたに岳・タリ山、南の長迫ながさこ山・三峰さんぽう山などの間を相河川が北流する。相河とも書かれ、アイカワともよばれ、鮎河あゆかわとも称された。神功皇后に従って朝鮮半島で戦った兵らの衣服を相河川で洗ったところ、血で赤く染まったと伝える。「肥前国風土記」にみえる相子田あいこだを相河に比定する説があり、遣唐使の寄港地であったとされる。中世は下浦目しもうらめのうちとして鮎河などとみえる。江戸時代は初め青方村(青方中)のうちで、青方掛であったが、のち魚目掛に属する。初め福江藩領で、寛文元年(一六六一)から富江五島領となる。


相川村
あいかわむら

[現在地名]富津市相川

花輪はなわ村の南方に位置し、みなと川支流の相川が流れる。天羽城あもじろの一帯を中世の城館跡として天羽あまは城とよび、天羽氏の居城ともいうが未詳。また柳糸やなぎいと堀之内ほりのうちなどの地区は服部氏の居館とされる。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高四六三石。寛文四年(一六六四)の松平重利領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、下野皆川藩領。元禄郷帳では高四九六石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数九八で、佐貫藩領。天保一三年(一八四二)からの支配領主の変遷は売津うるづ村と同様。寛政五年の田七町九反余・畑七町六反余で、人数二二二(椙山家文書)


相川村
あいかわむら

[現在地名]土佐町相川・樫山かしやま

大森おおもり(六五〇・八メートル)の北東に位置する山間の村。「土佐州郡志」は東西二〇町余、南北二五町で「其土赤」とし、小村に向常行・床鍋とこなべ両村を記す。もり郷の一。天正一五年(一五八七)の森村地検帳に「相川名」とみえ、近世の当村分は同地検帳の他地域も含まれたと考えられるが、不詳。相川名の検地面積八町三反余、うち田分五町五反余・畠分一町一反余・屋敷分一町六反余。


相川村
あいかわむら

[現在地名]川口町相川

信濃川と魚野うおの川の合流点の近く、川北の山際にある。正保国絵図に村名がみえ、高一二三石余。信濃川沿いの下流はひう(現小千谷市)。天和三年郷帳では高一五六石二斗余、ほかに同所新田高二石七斗余がある。宝暦七年(一七五七)の新田検地帳(町史編さん室蔵)では、この年四九石一斗余を高入れしている。文政八年(一八二五)の村明細帳(同室蔵)では家数五三、男一九一・女一九九。枝村天納てんのうの東方に相川城跡があった。


相川村
あいかわむら

[現在地名]会津本郷町氷玉ひだま

東は山、他の三方は開け、北は大八郷おおはちごう村、西は八重松やえまつ村。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に高二八九石余とある。橋爪組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高三九八石余。化政期の家数二一(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数一七(寺一)・人数八六(人員録)


相川村
あいがわむら

[現在地名]大子町相川

おし川の上流の支谷相川川一帯にあり、東は開田かいだ村。「新編常陸国誌」に「中世藤原小野崎氏ノ族、此村ニ居リ、相川氏トナル、近世斎藤次郎左衛門アリ、此村ノ人、気節ヲ以テ称セラル」とみえる。文禄四年(一五九五)八月一八日の佐竹義宣知行充行状写(水府志料所収文書)に「愛川内」とみえる。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「相川村」とみえる。天保二年(一八三一)の藤田東湖の「巡村日録」(水戸藤田家旧蔵書類)に村立は「不宜」とあり、「相川は上ほど田方不宜是は冷水のゆへなりとぞ此水開田山田至る」とあり、冷水について「古新田より流れ来る注水なり」と注記される。


相川村
あいかわむら

[現在地名]洲本市相川組あいかわぐみ

中津川なかつがわ村の西にあり、南は海に面する。津名つな郡に属する。正保国絵図には上灘かみなだ三ヵ村の内として相川村がみえ、高は三ヵ村合せて六六石余。享保元年(一七一六)郷村高辻帳(蜂須賀家文書)では高二四石余。天保郷帳では高三七石余。相川組に属した。反別戸数取調書によれば反別三町五反余、高二七石余、うち蔵入高二三石余、三石余が望月庄左衛門の給知。家数一〇七・人数四二七。


相川村
あいがわむら

[現在地名]八坂村相川

現八坂村の最西部標高九〇〇メートルの高所に位置する。

相川の名はこの村の開発の時点、すなわち「信府統記」の「新田開発時節改」にみえる「大町組相川村 寛永十二年開発」とあるのを初見とし、寛永一二年(一六三五)の開発により出現した村であることを伝えている。この開発を裏付ける史料として、同一六年に松本藩主堀田正盛がその臣浅田次兵衛らをして金熊かなくま庄屋北沢孫左衛門にあてた次の覚書(「土屋光忠等連署覚書」北沢文書)がある。


相川村
あいかわむら

[現在地名]大井川町相川

上泉かみいずみ村の南に位置し、大井川左岸の氾濫原に立地する。南西は同川を挟んで大幡おおはた(現吉田町)田沼たぬま街道が通る。中世には鮎川あいかわ郷などと記された。文禄二年検地高目録に鮎川村とみえ、高八六三石余、ほかに鮎川新田二六石余が記される。正保郷帳には鮎河村と記され、田方七五八石余・畑方七石余、幕府領。


相川村
そうごむら

[現在地名]村大字相河そうご

小山戸おやまと村の東南にある。「大和志」には「相川そふかふ」、元禄郷帳には「相川そうがう村」、貞治三年(一三六四)の染田天神宮文書には「サウカワ庄」と記す。応安元年(一三六八)正月の染田天神社沽券に「大和国山辺郡相川庄内 字相川口」とみえる。


相川村
あいかわむら

[現在地名]市原市相川

安須あず村の北、養老ようろう川右岸に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一一三石。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数二〇、旗本三島領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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