日本歴史地名大系 「松任市」の解説 松任市まつとうし 面積:五九・九三平方キロ県の中央部やや南寄りに位置し、北は金沢市、東は野々市(ののいち)町・鶴来(つるぎ)町、南は川北(かわきた)町・美川(みかわ)町、西は美川町と日本海。手取川北岸の同川扇状地の東部沖積地に立地し、七ヶ用水の郷(ごう)用水・中村(なかむら)用水・山島(やまじま)用水・大慶寺(だいぎようじ)用水・中島(なかじま)用水が流れ、流末は安原(やすはら)川・倉部(くらべ)川・御手洗(みたらし)川・野本(のもと)川・大(おお)川・相川(そうご)川・大慶寺川・北(きた)川などとなって、一部は犀川へ、大部分は直接日本海に流れ込んでいる。陸上交通路は主として南北に発達、現在、JR北陸本線のほか北陸自動車道・石川広域農道、国道八号(北陸街道の後身)・加賀産業道路(川北大橋有料道路)などがある。東西は現在建設中の市道末松(すえまつ)―徳光(とくみつ)線(一部開通)が基幹道路となる予定。古代以来、市域の大部分は石川郡に属したが、同郡と能美(のみ)郡の境である手取川の河道の変遷に伴って郡界は移動しており、古代・中世には能美郡であった地域をも含んでいる。江戸時代の村では出合島(であいじま)村一村のみが能美郡所属であった。市名は市成立以前に当地域の中心都市であった松任町に由来。松任の地名は室町時代から史料に登場し、その頃からマットウとよばれていた(冷泉為広「越後下向日記」)。〔原始・古代〕市域には主として弥生時代以降の集落遺跡が分布する。縄文集落には後・晩期に属するものが多く、八田中(はつたなか)ヒエモンダ遺跡・一塚(いちづか)遺跡・長竹(ながたけ)遺跡などが知られている。弥生時代に入ると、地下水に恵まれた海岸付近の低地帯に集落が出現、県内でも最も早く水田耕作を開始している。この時期(柴山出村式期)の遺跡として八田中遺跡がある。弥生中・後期の集落遺跡は横江(よこえ)・一塚を中心に分布、弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけての遺跡として、土坑墓・方形周溝墓・小型前方後方墳などとともに、山陰系首長墓として知られる四隅突出形墳丘墓が検出された一塚遺跡が著名である。古墳時代前期には石釧や管玉などを製作した玉作集落が現れるが、とくに竹松(たけまつ)遺跡では、工房家屋を含む竪穴住居跡群が検出され重要である。古墳は終末期様式の横穴式石室が発見された田地(たち)古墳が知られており、多量の須恵器や銀環・鉄鏃・刀子などが出土。ほかに一塚・中相川などに後期古墳があったが、初期の耕地整理で消滅した。奈良・平安時代では、計画的に配された掘立柱建物跡群や墨書土器を検出した横江庄庄家(よこえのしようしようか)跡(国指定史跡)が著名で、近年行われた周辺部での発掘では、かなりの倉庫群や祭祀的遺構・遺物(呪詛木簡・人形)も発見され注目されている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by