日本歴史地名大系 「矢留村」の解説 矢留村やどみむら 福岡県:柳川市矢留村[現在地名]柳川市矢留本町(やどみほんまち)・矢留町柳川城下沖端南(おきのはたみなみ)町の南にあり、沖端川引込みの下流側に位置する。南西端は沖端川河口部。山門(やまと)郡に属する。柳川藩領。永正六年(一五〇九)正月二四日付大友義長所領安堵状(草野文書/福岡県史資料四)に草野太郎知行分として「一所矢留三町」とある。文禄四年(一五九五)の知行方目録には弥富(やどみ)村とみえ、高一八四石余。「よしかた」分には「屋とミ村」とみえ、高は吉富(よしとみ)村と合せて二一石余。慶長二年(一五九七)の柳川領村高附帳(立花家文書)では弥富村の反別は四六町余、村柄は上とある。元和七年(一六二一)の郡村帳には矢留村とあり、玄蕃高四一六石余・新田高六九石余、小物成は葭野年貢米二石余。 矢留村やどみむら 福岡県:行橋市矢留村[現在地名]行橋市矢留・南泉(みなみいずみ)一―二丁目今(いま)川東岸、矢留山(旧名志貴山)西麓の狭小な河岸を中心に集落が形成されている。東は竹並(たけなみ)村。「宇佐大鏡」に宇佐宮の国々散在常見名田として仲津(なかつ)郡仲北(なかほく)郷の内に「弥富」とみえ、国衙半不輸領で「宮召加地子定卅二丁」であったが、豊前のほかの常見名田とともに安元元年(一一七五)に宇佐宮の一円所領となっている。「京都郡誌」にはかつて東木下村と称したとあるが、不明。元和八年人畜改帳には矢富村とみえ、給人三人分の高五〇七石余、家数四八・人数一四四(うち庄屋一・百姓一四・鍛冶一・名子等二七)、牛一三・馬八。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報