弥富村(読み)やどみむら

日本歴史地名大系 「弥富村」の解説

弥富村
やどみむら

[現在地名]須佐町大字弥富上やどみかみ・大字弥富下やどみしも

現須佐町の中央に位置し、村の北、須佐村惣郷そうごう(現阿武町)との境の山中より発して村内を貫流する田万たま川とその支流域に集落が散在する。奥阿武宰判所属。

建武四年(一三三七)五月日付の虫追四郎左衛門尉政国申状案(益田家什書)に「今月十一日打出阿武郡内、追落小河関所、焼払弥富・福田・生賀以下」とあり、南北朝の争乱の折、石見の南朝軍によって焼き払われた。文和元年(一三五二)八月一三日付の大井おおい八幡宮(現萩市)の宮座文書「御祭礼郷々社頭座敷本帳之事」には左座の六番に「弥富郷」とみえる。正平一九年(一三六四)二月一日付の足利直冬御判物(「閥閲録」所収周布吉兵衛家文書)によれば、内掃部助(兼成)なる者を「勲功之賞所宛行也」として「長門国阿武郡内弥富郷半分、同国井上郷等」の地頭職に補している。また、文明一〇年(一四七八)大内政弘豊前筑前を平定した折、老臣相良正任が記した「正任記」の同年一〇月一五日条には、「野田彦太郎弘資、自阿武郡弥富城御太刀三百疋進上之、御入国御礼也、被成書之、弘郷(青景)申次之」とあり、弥富城があったことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報