デジタル大辞泉
「柳川市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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柳川市
やながわし
面積:三七・二三平方キロ
県南部筑後平野の南西隅に位置する。南と西は筑後川河口および有明海に面し、東は矢部川水系塩塚川を境に山門郡大和町と、二ッ川を境に同郡三橋町と接し、北は矢部川水系花宗川、太田川およびクリークを境に三潴郡大木町・大川市に接する。市のほぼ中央を北東から南西に沖端川が流れ、同川沿いに東部に三橋町域が食込んでいる。市域の大部分が干拓によって造成された土地で、総面積の約半分が田、宅地は約一七パーセント。縦横に走るクリークが当地方の景観を特徴づけている。国道三八五号が北東部蒲池地区を南北に貫通し、国道二〇八号も同地区西部をわずかにかすめる。
〔原始・古代〕
市域で本格的な発掘調査は行われていないが、西蒲池の本村付近には三島神社貝塚をはじめとする弥生時代の遺跡が確認され、土器や石器などが出ている。律令制下では北部が三潴郡、南部が山門郡に属していたとみられるが、郡界は不詳である。「和名抄」所載の下妻郡三郷のうち鹿待郷を市内東蒲池・西蒲池付近と考え、下妻・三潴両郡界の変更を想定する説が多い。市街地全域に巡らされている掘割や川、道路は条里区画に由来するものと考えられる。平安時代末期には三潴郡域に三潴庄、山門郡域に瀬高庄が成立。寿永元年(一一八二)八月一六日の瀬高下庄公文所下文(「鷹尾社祭礼関係文書写」鷹尾家文書/平安遺文一一)にみえる瀬高庄吉富名を市内吉富町付近と考える説がある。
〔中世〕
源平の争乱後、瀬高下庄では文治二年(一一八六)に鎮西奉行天野遠景が、また同五年には和田義盛が三潴庄の惣地頭に補任された。鎌倉時代には三潴庄の鎮守大善寺玉垂宮(現久留米市)の神事を蒲池村・浜武村武藤名・田脇村・間村などが勤めている。また田脇村など三潴庄内の数ヵ所がモンゴル合戦後恩賞地として配分された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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柳川〔市〕
やながわ
福岡県南西部,筑紫平野南部を占め,有明海に臨む市。 1951年柳河町と城内村,西宮永村,東宮永村,沖端村,両開村の5村が合体して柳川町となり,1952年市制。 1955年昭代村,蒲池村の2村を編入。 2005年大和町,三橋町と合体。中心市街地は筑後川河口左岸の三角州上に位置し,沖端川,塩塚川に囲まれ,水郷の町として知られる。江戸時代は柳川藩の城下町として発展。商業中心地,観光の町となっている。味噌,醤油醸造,農機具の生産も行なわれる。市街地には水路が縦横に走り,濠のヤナギと白壁の土蔵が水にはえる水郷風景は有名で,川下りができる。国の名勝の松濤園と戸島氏庭園,柳川温泉,北原白秋の生家などがある。新外町の旧立花家別邸には国宝の短刀 (銘吉光) ,国の重要文化財の剣 (銘長光) が所蔵されている。農村部はクリーク網が充実する水田地帯で,米作,イグサの栽培が盛ん。有明海沿岸部は干拓地が広く,貝類の漁獲,ノリ養殖が行なわれる。西日本鉄道大牟田線,国道 208号線,385号線,443号線が通じる。面積 77.15km2。人口 6万4475(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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