行橋市(読み)ユクハシシ

デジタル大辞泉 「行橋市」の意味・読み・例文・類語

ゆくはし‐し【行橋市】

行橋

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日本歴史地名大系 「行橋市」の解説

行橋市
ゆくはしし

面積:六九・八三平方キロ

県の東部に位置し、北は京都みやこ苅田かんだ町、西は北九州市小倉南区、南は京都郡勝山かつやま町・犀川さいがわ町・豊津とよつ町および築上ちくじよう築城ついき町・椎田しいだ町に接し、東は周防灘に面する。市域を長峡ながお川・いま川・はらい川が北流して周防灘に注ぎ、中央部から周防灘にかけて平野が開けている。中央東寄りをJR日豊本線が通り、行橋駅・南行橋駅・新田原しんでんばる駅がある。行橋駅から田川市と結ぶ平成筑豊鉄道田川線があり、美夜古泉みやこいずみ今川河童いまがわかつぱ・豊津の三駅がある。日豊本線にほぼ並走して国道一〇号および同道から分岐する行橋バイパス(椎田道路)が通る。また国道二〇一号が勝山町方面に、国道四九六号が豊津町方面に延びている。

〔古代・中世〕

市域の考古遺跡の特徴は京都郡の項を参照。大字津積つつみと京都郡勝山町・犀川町にまたがる御所ごしよたに神籠石(国指定史跡)は門跡・列石・土塁が約三キロにわたって築かれ、七世紀代の朝鮮式山城と考えられる。古代には豊前国京都郡・仲津なかつ郡に属し、「和名抄」の京都郡高来たかく郷、仲津郡蒭野くさの郷・中臣なかとみ郷・仲津郷が市域に比定されている。豊前国府を大字草場くさば上津熊かみづくま須磨園すまぞの周辺に比定する説もあるが、現在は京都郡豊津町国作こくさくに比定する説が有力である。津積にはつぼさんつぼなど条里制の名残の小字名が残る。天平一二年(七四〇)藤原広嗣の乱では、京都郡鎮長小長谷常人が追討軍に殺害され、京都郡大領田勢麻呂・仲津郡擬少領膳東人は追討軍に帰順した(「続日本紀」同年九月二五日条など)。広嗣軍にくみして鎮圧された京都郡鎮は大字草野くさの近辺に所在したと推定される。同一八年には草野津などから官人・百姓・商旅の徒が勝手に国物を摂津難波なにわ津などへ漕送することが禁止されたが、延暦一五年(七九六)には大宰府発行の過所によりそれぞれの湊で勘過を受け、門司もじ(現北九州市門司区)の勘過を経ずに難波津と往来することが許可された。大字福丸の椿市ふくまるのつばきいち廃寺からは新羅・百済・高句麗系古瓦が出土し、四天王寺式伽藍配置をとる七世紀後半頃建立の寺院と考えられる。

平家の滅亡、鎌倉幕府の成立によって豊前一帯に力を保っていた板井氏が滅び、豊前国在庁職や仲津郡伝法寺でんぼうじ庄などを御家人宇都宮信房が継承する。文治三年(一一八七)に九州へ下向したと推定される信房が稲童いなどうから上陸したとの伝承があり、当市域にも影響力をもっていたことがうかがわれる。ほかに鎌倉時代には大野井おおのい庄田所職の都氏、稲童名の高瀬氏および武藤氏、天生田あもうだ庄公文職の天生田氏らの御家人が確認される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「行橋市」の意味・わかりやすい解説

行橋〔市〕
ゆくはし

福岡県北東部,周防灘に面する市。長峡川(ながおがわ),祓川(はらいがわ),今川が貫流する沖積平野にある。1954年行橋町と蓑島村,今元村,仲津村,泉村,椿市村,今川村,稗田村,延永村の 8村が合体して市制。1955年祓郷村の一部を編入。中心市街地は江戸時代に中津街道の宿場町,市場町として発展。今日では北九州工業地域衛星都市としての性格が強く,住宅地化が著しい。農村部では米作,野菜,果樹の栽培が行なわれ,酪農も盛ん。新田原(しんでんばる)は明治中期に開拓された地でブドウ,ナシ,モモの産地。沿岸部ではノリの養殖が行なわれる。西部のカルスト地形平尾台北九州国定公園に,また付近は筑豊県立自然公園にも属する。南部に国指定史跡の御所ヶ谷神籠石がある。JR日豊本線が通り,平成筑豊鉄道田川線の起点。国道10号線,201号線,496号線が通じる。面積 70.06km2。人口 7万1426(2020)。

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