( 1 )①の意味で江戸で用いられはじめた語と思われるが、西日本の周辺部にも同形の方言が存在するので、遡って上代に用例の見られる「かし(戕)」(水中に立てる杭の意)の転義として用いられるようになったものか。
( 2 )川岸の船着き場は物流の要であるところから、②の意が生じるが、特に魚類の商いが行なわれたので「うおがし(魚河岸)」とも呼ばれた。
( 3 )③の用法は、江戸ではさらに一般化して、「河岸狂い」「河岸女郎」などの語も生まれた。
江戸時代に河川や湖沼の沿岸にできた川船の湊。古代~中世には船をつなぐために水中に立てる杭・棹を〈かし〉といい,牱または杵と表記した。船に用意しておき,停泊地で水中に突き立てて用いた(《万葉集》1190)。古代には〈かし〉が一種の呪力を有しており,停泊地の海底に穴をあけて清水を噴出させたり(《肥前国風土記》杵島郡の地名説話),海の向こうから国引きしてきた土地を固め立てたり(《出雲国風土記》)したという〈かし〉立て説話がある。杖の有する同じような呪力は,杖が古代的土地占有のシンボルとして大地に立てられたことに起因するが,〈かし〉も,船に乗って海辺の土地を占定していく際のシンボルであった。中世の特権漁民として有名な賀茂社神人(じにん)は〈櫓(ろ)棹(さお)杵(かし)の通路の浜〉に対する漁場占有を主張したが,その際の〈杵〉にも同様の意味が込められている。また,〈海のかし立てを限る〉という中世荘園の境界・四至表示は,〈かし〉の届く水深の水域の領有を示している。以上のように〈かし〉はもと船具を意味したが,船着場に固定された舫杭(もやいぐい)も〈かし〉といわれ(〈建久7年造大輪田泊太政官符〉《東大寺文書》),そこから船の荷揚場を〈かし〉というようになったのである。〈かし〉を河岸と表記するようになったのは近世に属する。
執筆者:保立 道久 河岸は江戸初期に年貢米や領主荷物輸送のために,大名,旗本,幕府代官等によって新設された場合が多いが,中世の〈津〉の系譜をもつもの,寺社参詣の旅人の乗降によってできたもの,後には通船の利益を目的に商人等によって設けられたものもある。領主階級によって設けられた河岸でも,商品流通が発展してくると,河岸問屋ができて一般商荷物輸送も扱うようになり,輸送量は増大する。関東の場合,幕府は1689-90年(元禄2-3)に各地の代官を動員して支配領域を越えた河岸の調査を行ったが,そのときの対象河岸は80余に及んだ。1771-74年(明和8-安永3)に再び幕府は元禄調査をはるかに上回る多数の河岸を対象に厳密な吟味を実施し,河岸の公認,河岸問屋株の設定を行い,運上金徴収の代償として,新道・新河岸・新問屋禁止の特権を与えた。河川・湖沼交通の拠点である河岸は,その性格から一般農村とは異なる様相を示したが,行政的には町・村であり,一般と同じ町・村役人がおり,これを河岸問屋が兼ねる場合が多かった。河岸問屋は河岸の中心的な職業で,荷物の船積み,船揚げ,保管等や送状の発行を行って口銭・庭銭(手数料)を受け取ったが,自身で数艘の川船(問屋手船)や馬を所有する者もあり,大量の荷物を扱う関係から,これを買い取り,商問屋としての営業を兼ねる者もあった。このほか,河岸には多くの船持がおり,船持に雇われて船を動かす船頭・水主(かこ)等の船乗り,積荷を揚げ下げする小揚・軽子・日雇人足等の労働者,陸揚げされた荷を運ぶ馬持,馬子等が住んでいた。この交通労働者の中には農村をはじき出された帳はずれ,無宿者も多く,過酷な労働と最低の生活の中でけんかとばくちに明け暮れ,関東取締出役の取締りの対象とされる者もあった。また,荷主・宰領や旅人休泊のための茶屋・旅籠屋もあり,医師・座頭もおり,経師屋・仕立屋等の職人もいた。また大量の荷物が一時滞留するため,市場ができ多くの商人が集まってきたが,小売商より問屋商人が多く,その扱い商品は近隣の村々へ,あるいは遠隔都市へと売られていった。このような物資の移動は河岸近隣の商業・産業の発達を刺激した。利根川・江戸川沿岸の銚子・野田のしょうゆ,流山のみりん醸造業等の発展はその例である。河岸は荷船の湊であるばかりでなく,乗合船・遊山船の発着所でもあり,寺社参詣や遊山の旅人でにぎわい,遊郭が発達した所もあった。人や物資の移動は目に見えない文化をも運び,文人・墨客の来遊は河岸の問屋・商人の内から学者・文人を育てた。佐原河岸の伊能忠敬,《利根川図志》の著者赤松宗旦等がその例である。このように盛況だった河岸も,明治以後は河川改修工事や鉄道の発達,その後の自動車輸送の普及によって,河川・湖沼交通が衰退するとともに,その機能を失ってほとんど消滅してしまった。
執筆者:川名 登
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川岸とも。河川の岸で人や荷物の揚げ下ろしをする場所。中世の津から発展したものもあるが,近世初頭の慶長年間に領主の年貢米輸送を目的として創設されたものが多い。その後,年貢米輸送だけでなく一般商荷物も扱うようになった。1689年(元禄2)の幕府取調べの結果,関東8カ国および伊豆・駿河の計10カ国で124カ所,関東諸水系には88カ所あった。利根川筋のおもな河岸で大きなものに倉賀野・境・木下(きおろし),淀川筋に伏見・淀などがあった。明治期になると鉄道やトラック輸送の普及により河川水運は衰退し,それにともなってほとんど消滅した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…明治期以前の日本では河川が重要な輸送路になり,奥地からは米や薪炭などが平底の小さい川船で下航し,海岸からは塩や塩乾魚などが上航していた。各河川沿岸には多数の船着場が散在し河岸(かし)と呼ばれていたが,流域が狭く河谷勾配の急な河川には大型の川船を通すものがなく,河港の荷役量はいずれもわずかであった。例外的に発展したのは近世の伏見港で,淀川航路によって大坂との間に貨物や旅客がさかんに往来し,明治期には小汽船がこの航路に導入された。…
…とくに内陸水運(河川・湖沼水運)の開発は盛んで,仙台藩による北上川改流や幕府による利根川水系改流は,その代表的なものである。水運路の開発と並んで,内陸水運の湊である河岸(かし)の創設も行われた。利根川中流の八町河岸や権現堂河岸は幕府代官の手によって年貢米輸送のために取り立てられた。…
…砂浜を指すことばとしては,ウタ,ナゴ,ヨリアゲ,ユリアゲ,それに関東から東北にかけてスカなどが,古来より使われている。なお,大阪では河岸(かし)のことを浜とよんだ。磯浦浦・浜【高桑 守史】。…
※「河岸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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