日本歴史地名大系 「碑文谷村」の解説 碑文谷村ひもんやむら 東京都:目黒区碑文谷村[現在地名]目黒区目黒本町(めぐろほんちよう)一―六丁目・碑文谷一―六丁目・鷹番(たかばん)一―三丁目・中央町(ちゆうおうちよう)一―二丁目・洗足(せんぞく)一―二丁目・南(みなみ)一―三丁目・五本木(ごほんぎ)三丁目呑(のみ)川中流の北東岸、目黒台上に展開し、村中央を碑文谷池・清水(しみず)池を水源とする立会(たちあい)川が南流する。北は上目黒村・中目黒村。村内を丸子(まりこ)(現神奈川県川崎市中原区)への道、品川への道、二子(ふたこ)(現神奈川県川崎市高津区)への道が通る(風土記稿)。当地には古刹円融(えんゆう)寺があり、中世から近世後期まで法華(ほつけ)寺(法花寺)と称していた。応永三二年(一四二五)に日運が記した「門徒古事」に「武州碑文谷法華寺」とみえる。法華寺の木造金剛力士立像(円融寺蔵)の胎内銘および木札銘には永禄二年(一五五九)七月二日の年紀があり、「武州荏原大井之内碑文谷村妙光山法華寺」とあり、碑文谷村が大井(おおい)のうちに含まれていたことがわかる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by