日本大百科全書(ニッポニカ) 「福野正勝」の意味・わかりやすい解説
福野正勝
ふくのまさかつ
近世初頭の武術家、良移心当和(りょういしんとうやわら)の開祖。通称七郎右衛門、友善(ゆうぜん)また尚両(しょうりょう)と号した。正勝の伝は明らかではないが、丹後(たんご)(京都府)の浪人とも摂津大坂の出身とも伝え、初め相撲(すもう)の名手として知られたが、やがて柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)に師事して、新陰流の心法(しんぽう)と無刀捕(むとうど)りを教授されて自得するところがあり、和術(やわら)を創案。1622年(元和8)3月、親交のあった石川丈山(いしかわじょうざん)に序文の作成を頼み、流名を良移心当和と名づけ、その目録案を恩師石舟斎に上呈したことが、十兵衛三厳(みつよし)の『月之抄(つきのしょう)』に載せられている。後年は京都粟田口(あわたぐち)に住んで和術の教授にあたったといい、門人のうち寺田平左衛門(へいざえもん)定安(さだやす)(貞心(ていしん)流和(やわら))、茨木専斎(いばらきせんさい)(起倒(きとう)流乱(みだれ))、長浜仁左衛門(ながはまにざえもん)(心当和(しんとうやわら))らが傑出していた。
[渡邉一郎]