紙子屋町(読み)かみこやちよう

日本歴史地名大系 「紙子屋町」の解説

紙子屋町
かみこやちよう

現在は、丹波橋たんばばし通の北、ほり川の東に位置し、東は新町しんまち通から一筋西の通りまで、北は濠川の南にある堀詰町が紙子屋町に侵入したような形状を呈す。丹波橋東詰の辺りは、江戸時代から明治初年までは風呂屋ふろや町と称したようであるが、明治八年(一八七五)に丹波橋通から北は紙子屋町へ、南は板橋二丁目へ分割合併された。

「豊公伏見城ノ図」によれば、丹波橋通の北に山田五郎兵衛屋敷があり、その北に佐久間河内守の屋敷がある。同時代の復元図伏見城下総絵図によると、山田五郎兵衛屋敷はあるが、その北は空地となっている。寛文一〇年(一六七〇)山城国伏見街衢並近郊図では、西方また北方に回り込む濠川の土手際は、松らしい並木が丹波橋東詰のたもとから北東へ生茂ったように描かれており、丹波橋通の「かミこや町」の表記のすぐ北に、丹波橋通に沿って一列にわずかの民家が並んで描かれているが、町といっても、極めて人家まばらな地域であったことがうかがえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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