新町(読み)シンマチ

デジタル大辞泉 「新町」の意味・読み・例文・類語

しんまち【新町】

大阪市西区新町通り付近の称。寛永年間(1624~1644)に公許遊郭がつくられて繁栄し、江戸の吉原、京の島原と並び称せられた。

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精選版 日本国語大辞典 「新町」の意味・読み・例文・類語

しん‐まち【新町】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙 新しく開かれた町。
    1. [初出の実例]「当地におひて新町を立る」(出典:天正本狂言・酢辛皮(室町末‐近世初))
  2. [ 2 ]
    1. [ 一 ] 宮城県黒川郡富谷町にあった地名。江戸時代、奥州街道七北田(ななきた)と吉岡との間にあった宿駅。富谷新町。富谷。
    2. [ 二 ] 大阪市西区新町一丁目にあった遊郭。寛永年間(一六二四‐四四)大坂に散在していた遊女を集めて公許したもの。瓢箪(ひょうたん)町、佐渡島町(越後町)、新堀町、新京橋町、九軒町などからなる。京の島原、江戸の吉原とともに知られた。西。
      1. [初出の実例]「小町と思ふ新町の君 唐かさをうつりにけりな徒に〈百切〉」(出典:俳諧・物種集(1678))

しん‐ちょう‥チャウ【新町】

  1. 江戸の遊里、新吉原の五町の一つ、京町二丁目の異称。元吉原時代、京町一丁目より二、三年おくれて上方系の遊女屋が移って町を開いたところからの称。

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日本歴史地名大系 「新町」の解説

新町
しんちよう

[現在地名]白河市一番町いちばんちよう二番町にばんちよう三番町さんばんちよう七番町しちばんちよう九番町くばんちよう四ッ谷よつや石切場いしきりば焔硝蔵山えんしようくらやま花見坂はなみざか西大沼にしおおぬま和尚壇おしようだん和尚壇山おしようだんやま大坂山おおさかやま大暮矢見山おおくれやみやま米山越よねやまごえ鶴芝つるしば中山下なかやました中山東なかやまひがし中山南なかやまみなみ中山なかやま南湖なんこ中野山なかのやま松並まつなみ九番町西裏くばんちようにしうら真舟まぶね的石前まといしまえ風神下ふうじんした風神山ふうじんやま風神山東ふうじんやまひがし古池ふるいけ古高山ふるたかやま転坂ころびざか左久保さくぼ五郎窪ごろうくぼ五郎窪山ごろうくぼやま五郎窪北ごろうくぼきた三本松さんぼんまつ三本松山さんぼんまつやま北堀川端きたほりかわばた北真舟きたまぶね南堀川端みなみほりかわばた北堀切きたほりきり南真舟みなみまぶね南登みなみのぼまち南堀切みなみほりきり塩路山しおじやま白井掛しらいがけ新池しんいけ白井掛下しらいがけした東大沼ひがしおおぬま登町のぼりまち北登町きたのぼりまち日影ひかげ日向ひなた

小峰こみね城の南西、谷津田やんた川両岸の丘陵に位置する。郷帳類には新町・新町村などとして高付される。奥州道中沿いの両側町で南北に連なり、北は天神てんじん町に続く。江戸方面から白河城下への入口にあたる。


新町
しんまち

和歌山城下東部の町人町の地域呼称。北から西を鈴丸すずまる(大門川)・和歌川が流れ、川を隔てて北は北新町きたしんまち地区、西は広瀬ひろせ地区。東と南はみや郷の諸村で、北東に中野島なかのしま村、東に新内あろち村がある。浅野氏の雑記録である諸事覚書(浅野家蔵)にみえる浅野氏時代の城下町の範囲に新町地区は入っておらず、町化は元和五年(一六一九)の徳川氏入部以後と考えられる。在中作方諸事覚書(土屋家蔵)には享保一一年(一七二六)の時点で大部分に町方支配ではあるが高付地が残っている。


新町
しんまち

[現在地名]三春町新町・山中さんちゆう清水しみず師範場しはんば八十内やそうち大平おおだいら小滝こたき栗林くりばやし永作ながさく弓町ゆみまち四軒町しけんちよう番組ばんぐみ赤坂あかさか庚申坂こうしんざか化粧坂けはいざか番組頭ばんぐみがしら恵下越えげのこしさくらおか

三春城下六町の一つ新町を中心とする行政地区。新町は磐城への街道沿いの両側町で、山中東ノ橋の木戸から新町上ノ木戸まで三町四九間、道幅四間の急な坂町。町の端を流れるさくら川はしばしば溢水した。秋田氏入封後の正保三年(一六四六)もとのみなみ町を家中屋敷とし、そこにあった町屋を足軽町だった現在地に移して新南しんみなみ町と称し、のち新町と改めた。以来新町の町人には藩から納屋米取引の特権が与えられ、城下へ流入する米穀はすべて当町穀屋が扱い、俵掛り銭を徴収し、藩の流通統制の一翼を担った。また新町には藩営の馬の糶場が設けられ、駒の糶に集まる博労の駒宿を業とした。元禄一一年(一六九八)の藩政改革で産馬振興策が採用され、当町は藩営の駒糶で活況を呈した。


新町
あらまち

[現在地名]高崎市新町

新田しんでん町の北に延びる中山道の両側町。北は連雀れんじやく町、東は砂賀すなが町・職人しよくにん町、西は檜物ひもの町・下横しもよこ町など。町の長さ三町二二間三尺(高崎寿奈子)。町の成立は古く、「高崎志」に「和田氏ノ時ヨリ民家アリ、地ノ旧名未詳」とある。伝承によれば、和田氏時代の金井かない宿・馬上ばじよう宿のほかに新しく集落ができたので町名が付けられたといわれる。

町・もと町とともに高崎宿の伝馬役を勤めるため慶長年中(一五九六―一六一五)から地子免で(文化年間「高崎藩町方式」西尾市立図書館蔵)、免許地は二町九反余であった(嘉永五年「宿明細帳」安中市教育委員会蔵)。寛永九年(一六三二)からは田町同様問屋継立を勤めることになり、旧来から勤めていた本町と三町で一ヵ月を三分して継立を行っている(高崎志)。前掲宿明細帳によると当町は下番で月の二三日から晦日まで。家数一〇〇・人数二五一、馬五〇疋のうち一六疋を負担した。元禄一六年(一七〇三)往還絵図によると作人が二一軒と多く、塩屋六、旅籠・小間物各五、荒物屋四、たばこ・紺屋各三、豆腐・飴玉・八百屋・造酒屋・石屋・清酒屋・茶屋各二、籠屋・材木屋・薬屋・提灯屋・饅頭屋・穀屋・指物各一で、兼業は清酒・茶・荒物一、清酒・米屋一、八百屋・篩張替一、穀屋・塩屋一、油・荒物一、塩・荒物一、塩・肴三、造酒・米問屋・荒物二、穀屋・米問屋二、旅籠・荒物一、ほかに絵師が一軒ある。


新町
しんまち

[現在地名]鹿本町来民くたみ

内田うちだ川・迫間はざま川・合志こうし川などが菊池川に合流する北方に位置し、北は上御宇田かみみうた村・下御宇田村、東は玉名たまな小島おしま村、南は藤井ふじい(現山鹿市)、西は日置へき(現同上)に接し、(現同上)隈府わいふ(現菊池市)を結ぶ菊池往還の要衝にある。「和名抄」山鹿やまが郡の来民郷は一説では当地一帯に比定される。寛文七年(一六六七)の「一統志」に町名がみえ、宝暦七年(一七五七)藩主細川重賢の命で新町横目役善四郎・庄屋兵右衛門・別当兵蔵が山鹿郡郡代に提出した口上覚(大光寺蔵)によると、寛永一六年(一六三九)頃に細川忠利によって上御宇田村の枝村から独立し在町に取立てられたとあり、以前は「黒土町くろつちまち」と称していたという。「国誌」所載の肥後国絵図に収める山鹿郡之図には新町の場所に「クロツチマチ」と記されている。しも町には中村手永会所が置かれ、跡には加藤清正が植樹したと伝承する樹齢三五〇年以上、根回り一五メートルの大銀杏がそびえる。

戸数は前掲の口上覚によると慶安―承応(一六四八―五五)頃四〇余、元禄期(一六八八―一七〇四)一二〇余、宝暦五年(一七五五)一三〇余とあり、同一三年の新町絵図(大光寺蔵)には一五七が描かれている。


新町
しんまち

山の山裾に配置されたてら町・北山路きたやまじとの境から、東方新町川までの町屋街の総称。徳島城総構えの内に設けられたうち町に対して、同町に次いでほどなく新しく開かれた町の意からその名がある。一帯は新町川の舟運を利用して阿波特産の葉藍やをはじめとする産物の集散や内外の諸物資の流通の場として繁栄した、川沿いの東船場片ひがしせんばかた町・西船場片町を中心として開けた。

貞享二年(一六八五)の市中町数並家数(民政資料)によると、新町は新町橋筋、鍛冶屋かじや(東新町)筋、富田とみだ町筋・紺屋こうや町片町・桶屋おけや町・新魚しんうお町・湯屋ゆや町・きざみ町・新町東船場片町・新町西船場片町・大工だいく町筋、新小橋しんこばし(古物町)下代げだい町、法花寺ほつけじ(寺町)、西新町筋・西新町山路片町からなる。


新町
しんまち

[現在地名]長崎市興善町こうぜんまち

本興善ほんこうぜん町の南にある長崎うち町の一ヵ町で、陸手に属した。町並は東西に形成され、西はほり町に接し、東は引地ひきち町に通じる。天正年間(一五七三―九二)長崎に来て金屋かなや町辺りに借宅していた村山等安は、慶長二年(一五九七)豊臣秀吉から長崎を預けられ(長崎拾芥)、文禄元年(一五九二)から元和元年(一六一五)までは新町に屋敷を構えていたという(長崎古今集)。同五年長崎の富豪とよばれる村山等安が、末次政直(平蔵)により法および裁判に拠らず日本人一六、七人を殺戮したとして告訴されたという(イギリス商館長日記)。同八年のドミニコ会宛の長崎ロザリオ組中連判書付に「新町」の「時庵」「またれいな」が署名している。寛永長崎港図では内町として新町とある。寛永一九年(一六四二)の平戸町人別生所糺によれば、平戸町の長野藤四郎の奉公人こまつの母は諫早いさはや生れで、慶長五年頃当町に来てキリシタンとなったが、寛永六年から同九年まで在勤の長崎奉行竹中采女正のときに転び、一向宗大光だいこう寺を請寺としたという。


新町
しんまち

[現在地名]大多喜町新丁しんまち

桜台さくらだい町の南西、大多喜往還に沿う両側町。城下七町の一。同往還は当町で西に折れ、南西端で夷隅川に接する。当地はもと銭神松ぜにかみまつと称する郷村であったが、近世城下町創設時に大部分が往還沿いに移住して当町を建設したといい、旧地も当町に含まれた。慶安二年(一六四九)の大田喜根小屋地詰帳(小高家文書)では新町の田畑屋敷反別一二町七反余、銭神松は八町四反余。元禄郷帳では新町の高一三五石余、銭神松の高五四石余。享保期(一七一六―三六)の軒数九七、屋敷表間口六間以内八一(うち三間のもの三九)、弥兵衛屋敷は城下一の広さで表間口二五間半・奥行二二間。


新町
あらまち

[現在地名]猪苗代町 新町・東町裏ひがしまちうら寺後てらご弁才天西べんざいてんにし窪南くぼみなみ小黒川おぐろがわ町東まちひがしいかずち塚田つかだつつみ坂下さかしたなど

もと町の北に続く二本松街道の両側町。本町に続いて市店が開かれたのが町名の由来という(新編会津風土記)。二本松街道は当町北端で西に折れ、この東西路に沿う堤町は当町の内で、堤町の西になか町が続いた。当町の北部で二本松街道から東に分岐する福島街道に沿う九軒くけん町、当町南部から西に延びる道(西に折れた二本松街道の南の東西路)に沿うふる町も堤町と同じく当町の内であった。なお二本松街道の東側を南北に並行する小路沿いにうら町がある。


新町
しんまち

[現在地名]高梁市新町

備中国奉行小堀作助支配時代の元和二年(一六一六)にできた町人町で、城下六町の一(「松山御城主暦代記」高梁市立図書館蔵)。町の長さ三町一八間余、道幅二間五尺余、東は横丁三通りによって片原かたはら丁・中之なかの丁、西は横丁五通りによってほん町に続き、南は下谷しもだに(現紺屋町川)を隔てて鍛冶かじ町、北は上谷かみだに(現小高下谷川)を隔てて本丁に続く。地子・公役免除の町。

元禄(一六八八―一七〇四)初年改では家数九六(御家内之記「水谷史」芳賀家蔵)。藩主石川総慶時代には家数八九、うち間口一・五―二間が二七、同二・五―三間が二五、同三・五―五間が二一、同六―一〇間が一一、同一一―一四間が四、同一八間が一(「松山城下絵図」三重県亀山市立図書館蔵)。延享元年(一七四四)には竈数一五六、うち本家五六・借家一〇〇。


新町
しんまち

[現在地名]富谷町富谷 町

北流する富谷川の東岸にあり、富谷村と志戸田しとだ村を南北に縦断する奥州街道(現国道四号)のほぼ中央に位置する街村。吉岡よしおか(現大和町)まで一里二二町、七北田ななきた(現泉市)まで二里一九町。当地を通過する街道は元和四年(一六一八)着工し同九年に開通。これにともなって七北田と吉岡との間の宿場として新たに取立てられたのが新町で、富谷町ともいう(富谷町誌)。伊達政宗は、新町を新設するにあたり、かつての鶴館つるだて(現大和町)城主黒川晴氏の家老職で幕柳まくやなぎ(現同上)に帰農していた内ヶ崎筑後をとくに召出して検断に任じた(富谷村安永風土記)。元和六年の鈴木因幡宛伊達政宗黒印状(内ヶ崎文書)によると「黒川之内とみやの伝馬町」設置のため近郷より人を集め、移住した者には諸役免許とし、かつ引料として一歩判一切宛の金銭を与えて伝馬継にあたるよう奨励している。


新町
しんまち

[現在地名]大垣市新町

大垣城の南東部に位置する町家地域。享保城下絵図に新町とみえ、牛屋うしや川対岸の西はほん町、北はなか町など。もと南頬みなみのかわ村・高橋たかはし町のうちで、寛永一九年(一六四二)赤坂あかさか村の者が取立て町家となったという出来町(大垣城主歴代記)。大垣藩は有事の際の藩士の集合場所として利用するため多くの寺院を当地に移転。金蔵こんぞう院・長光ちようこう院・大運だいうん寺・等覚とうがく坊・徳秀とくしゆう寺・長勝ちようしよう寺・浄覚じようかく寺・浄円じようえん寺があり、俗に寺町ともいう(新修大垣市史)。明暦三年(一六五七)の無役家数は年寄二・町代一・帳付一・惣町会所一・天神守一・寺一・研屋一・その他六(「大垣町無役家数覚」林文書)


新町
しんまち

[現在地名]佐倉市新町

よこ町の東に位置し、東西に延びる両側町。成田道の間宿で佐倉六町の一(佐倉風土記)。土井利勝時代の佐倉城絵図(鷹見家蔵)に町名がみえる。当時はさらに三町に分れ、堀田正愛時代の佐倉城絵図(佐倉市史付図)には西からかみ町・二番にばん町・なか町、嘉永元年(一八四八)の佐倉新町分間絵図(佐倉市史付図)には上町・上二番町・仲町がみえる。「古今佐倉真佐子」には横町ふだつじから約二町を上町、その先約二町を中町、さらに先のさかな町取付までを下町と称するとある。佐倉城下における町屋の中心地で、横町・肴町・間之あいの町も含め単に新町のほか、城下新町・佐倉新町と称された。広義の新町は佐倉城下で唯一の純然たる町方で、城下で当町にのみ町役人として取締役が置かれた。


新町
あらまち

[現在地名]弘前市新町

城の西側に位置し、新町坂(現古坂)の橋(現夕陽橋)から西へ向かい、北に曲がって誓願せいがん寺門前に至る道筋の町並。北は鷹匠たかじよう町、西は西大工にしだいく町に接する。

正保三年(一六四六)津軽弘前城之絵図(内閣文庫蔵)には、町屋として町割されている。慶安二年(一六四九)の弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)には、あら町とあり、誓願寺に至る道路の途中、岩木川へ向かう細道付近までが町域。それより北は「是より紺屋町」とある。町内には商家一五軒、山師五軒、居鯖三軒、檜物屋二軒、金穿三軒、酒屋・煙草屋などがあった。寛文一三年(一六七三)の弘前中惣屋敷絵図(同館蔵)でも、町域は前図と変化はなく、新町と記され町屋が六六軒。


新町
しんまち

[現在地名]出石町谷山たにやま

谷山町の東に続く町人町。端町で庄屋を置き、中級・下級武士や百姓も混住していた。出石封内明細帳や文化七年(一八一〇)の城下絵図などによると、西流する谷山川の右岸を道が通る。この道は谷山町境から東の松畷まで長さ九五間半・幅二間(両側に幅一尺余の溝)、西部は道の両側に、東部では道の南側に町家が並んでいた。道は松畷をさらに東に進み、一九一間で谷山川に架かる源太橋に至り、同橋から川の左岸に出て三七間で鰺山あじやまの集落に至った。同所で八坂はつさか集落(水上村枝村)へ向かう八坂道を北に分け、鰺山峠(頂上までは四町四七間)を越えて寺坂てらさか村に通じていた。この峠越えの道(出石・福知山道)は出石藩主の参勤交代路に用いられ、京街道ともよばれた。


新町
しんまち

[現在地名]都城市八幡町はちまんちよう西町にしまち

都城領主館の西、大淀川河岸にある。元和元年(一六一五)の一国一城令後、新たに領主館が造営されて町割が行われた際、本之原もとのばい三町のうちもと町は楼門口北方に町立てされた。三重みえ町・うしろ町も倉之くらん馬場筋に移ることとなって屋割が行われて屋作りもあらかたすみ、部当も移り住んだところで、新地は元の城を見通す場所であるとして城山が繁茂するまで両町の移転は中止され、旧地に留められた。元禄五年(一六九二)三重町・後町の町人たちは新市街への移住を出願して許され、領主館西方の東側に三重町、西側に後町が引移った。移転に伴い両町は新町と称したが、三重町・後町の名は通称として残された(庄内地理志)。元禄国絵図には宮丸みやまる村之内として三重町がみえている。なお年代不明の午七月二六日付の口上覚(同書)によると、前年の冬後町と三重町は中尾なかお口へ属するよう命じられたが、両町はそうすると百姓同前となるので承服しがたいと断っている。


新町
しんまち

[現在地名]青森市新町一―二丁目・長島ながしま一丁目の各一部

青森町の西南端にあり、やなぎ町・鍛冶かち町・大工だいく町と同じく寛文一一年(一六七一)に町割され、八年間屋敷一坪につき米五勺ずつ畑年貢を上納し、九年目から地質銀屋敷一軒につき一〇匁ずつ上納する定めでつくられた(青森市沿革史)。寛文年間の絵図(市立弘前図書館蔵)には百姓町とある。柳町通から続く御倉おくら之通までを下新しもしん町、大手おおて通までを中新町、その西を上新町ともよんだ。寛文一三年に新町に月六度の市が設けられた(青森市沿革史)

<資料は省略されています>

明治初年の「新撰陸奥国誌」では月六度の市の開始を寛文三年とし、「此町の中頃御倉通弘小路に(中略)月に六度の市立たる時この所に市神を祀れりと云ふ。


新町
しんまち

[現在地名]鶴岡市新海町しんかいまち

鍛冶かじ町の北西にあり、東の上肴かみさかな町からさかうえを経て西へ延びる道に沿って町並が続き、ほぼ中央を青竜寺しようりゆうじ川が北流する。町人町の西端に位置し、西は新町村。西端で北へ折れる道は大山おおやま街道へ連なる。酒井氏入部後郭内拡張に伴いのちの馬場ばば町付近から移転したともされ(大泉紀年)、また寛永元年(一六二四)新町村の一部が町割されて城下に組入れられたとされる(大泉掌故)。延宝六年(一六七八)の城下絵図に新町九〇間・八五間とある。天和三年(一六八三)の町割は四町半、家数一〇七、男三四六・女二九七(「鶴ヶ岡町割家数人数書上」鶏肋編)


新町
しんまち

[現在地名]遠野市新町

横田よこた五町の一町。もと妙泉みようせん寺・善応ぜんのう寺の寺地であったが、東の一日市ひといち町と西の六日むいか町を連続するために両寺を鍋倉なべくら城の東方に移して町立てした(遠野史叢)。遠野街道が通り、一日市町との間を来内らいない川が流れる。市日は一日・六日(「検断勤方記写」鈴木文書)。延宝九年(一六八一)の家数三八(うち借家一〇)・人数四一九、馬八六(「巡見使御答書上帳」遠野市立図書館蔵)、安永九年(一七八〇)には家数九〇で(邦内郷村志)、約三倍に増加している。


新町
しんまち

[現在地名]生野町新町

猪野々いのの町の東に位置し、いち川と支流の白口しらくち川が合流する。猪野々町と結ぶ道はこの合流域で出水のたびに通行不能となり、下箒したぼうきとよばれ、路端に供養塔が建つ。銀山廻七町の一。「銀山旧記」天正一五年(一五八七)条に「新町、奥銀屋」はまだ人家がないとし、慶長五年(一六〇〇)条には「奥銀屋町、新町」に人家ができてしだいに繁昌してきたと記され、谷の狭い所へ京・大坂より商人が集まり、寸分の空地を争って紺屋・扇屋や諸商人が軒を連ねて居住し、すべて板葺・瓦葺で藁屋などはなかったという。


新町
しんまち

[現在地名]浜田市新町・錦町にしきまち

浜田八町の一。東は紺屋こんや町、西は片庭かたにわ町に続く東西の町並で、町西寄りを南西に折れると蛭子えびす町に続く。南は日用ひよう(紺屋町のうち)に接する。北は浜田川に面し、同川に架けられたおお橋によって浜田城郭内に通じる。元和六年(一六二〇)の浜田城築城・城下町建設の際、原井はらい村のうちを分けて新しく設けられた町といわれる(郡村誌)。また当初は諸士屋敷が置かれていたが、寛文元年(一六六一)に紺屋町内の一町田いつちようだに移して商人町とし、新町とよんだともいう(寛政一〇年「浜田古事書抜」浜田市立図書館蔵)


新町
しんまち

[現在地名]近江八幡市新町

小幡町おばたちよう通の一筋東、東から数え七筋目の新町通に沿う縦町で、両側町。北は八幡堀に面し、南は宇津呂うつろ村。北から新町元しんまちもと(一丁目にあたる)・新町二丁目・新町三丁目・新町四丁目の四町に割られ、元禄町絵図では二丁目に宝積ほうしやく(浄土宗)が描かれる。「輿地志略」に新町三町とあるのは四丁目が浅小井あさごい町ともよばれたためか。八幡城下形成時に安土城下新町や浅小井村の住民を移転させて成立した町と伝える(八幡町史)。元禄二年(一六八九)に、それまでの八幡町検地帳から当町にかかわる部分を抜き写したと思われる覚書(新町一丁目共有文書)によれば、慶長七年(一六〇二)の検地時には屋敷三軒分、計一反余を所持する九左衛門を筆頭に家数は二七。


新町
しんまち

[現在地名]島原市新町

島原城の南、よろず町の南に位置する。有馬ありま町とも称する場合があった。宝永四年(一七〇七)検地とある島原領内村明細帳に「新町分」として四四九軒とあるが、これは当町の別当(町年寄)が管轄する万町・風呂屋ふろや町・魚屋うおや町・船津ふなつ町・有馬町を含む。享保四年(一七一九)二六〇軒余の延焼、同一〇年に五〇〇余軒の延焼、天明三年(一七八三)には町がほぼ全焼したという(「深溝世紀」など)。寛政四年(一七九二)島原惣町之図(長崎市立博物館蔵)では「新町本町」は長さ一六一間・幅二間一尺。同年の島原大変によるまゆ山の崩壊で「新町掛り残らず押し流し、過半は小山の下に埋まる」という有様で(島原大変聞録)、流死者数二一三(晴雲寺過去帳・快光寺過去帳など)


新町
しんまち

[現在地名]鳥取市新町・戎町えびすまち

元魚もとうお町一丁目の南東に続く。二階にかい町一丁目の南西に並行する通りに沿った両側町。南東端は若桜わかさ往来に面する。元和五年(一六一九)城下町拡張のとき、人家を建てがたい理由があったらしく、当町の北西の地を元魚町一丁目とした。町名はその後わずかに遅れて新たに町となったことに由来して名付けられたという。「鳥府志」は川端かわばた一丁目から当町付近が古川筋にあたっていたことによるかと推測している。宝暦(一七五一―六四)頃までおきしん町ともいった。


新町
しんまち

[現在地名]久留米市日吉町ひよしまち

南側に紺屋町こんやまち通、北側の通町とおりまち通が並行し、西は三本松町さんぼんまつまち通、東は十間屋敷じつけんやしきと接する。町並は東西に続く。通町を本町とも称し、当町はなか町ともいう。元和八年(一六二二)城郭になった祇園ぎおん小路(寛文十年寺社開基)京隈きようのくま村の百姓・町人を移転させて成立した町で、祇園小路をもと町と称していたことから新町とされたという(石原家記)。「古代日記書抜」寛文七年(一六六七)七月条になが町の火事で新町が類焼、寛文十年寺社開基では新町一丁目・新町二丁目・新町三丁目とみえる。


新町
しんまち

[現在地名]三田市中央町ちゆうおうちよう

きた町の北東、武庫むこ(大川)から北の丹波への街道の両側に町屋が並ぶ町人町。三田十丁町の一つ。福井ふくい町ともいう。三輪みわ村のうちが町場化して成立したもので、慶長国絵図でも武庫川左岸に町場が描かれており、この頃には成立していたとみられる。安政二年(一八五五)模写の寛文(一六六一―七三)初期の古図(児玉家蔵)に新町とみえ、町の長さ八二間、北東端に一乗いちじよう寺があり、その北の桶屋おけや町との境に一乗池(蓮池堀)があり、万年まんねん橋が架かる。


新町
しんちよう

[現在地名]金沢市尾張町おわりちよう二丁目

尾張町の北に並行して東西に延びる。北は西内総構堀、西は博労ばくろう町、東は東内総構堀を経て橋場はしば町。両側町で本町。西半が上新かみしん町、東半が下新町と通称され、のち西北部がかぎ町として町立てされた。町名は、尾張町の拡大に伴って割出地として町立てされたことに由来するという(金沢古蹟志)。政隣記(加越能文庫)に載る寛永一二年(一六三五)の金沢町大火の記録に町名がみえる。慶安四年(一六五一)の金沢町年寄の一人として当町金屋次兵衛の名がみえる(国事雑抄)


新町
しんまち

[現在地名]城端町 新町

大工だいく町から南に延びる五箇山の西赤尾町ごかやまのにしあかおまち(現上平村)への道に面する。元和五年(一六一九)の家高新帳では「せと与」に属し、役屋数一三で、当時はまだ城端町には含まれていなかった。慶長一〇年(一六〇五)の検地目録(川合家文書)によれば、城端は本町と新町に区分して記してある。寛文九年(一六六九)には大工町と当町の住民が連署して七日市を開設したいと町役人へ願出ている(「城端古文書」石川県金沢市立図書館蔵)


新町
しんまち

[現在地名]松阪市新町

伊勢参宮街道日野ひの町と交差し和歌山に向かう和歌山街道沿いの町で、白粉おしろい町・かや町・かわら町と並行する。明治一六年(一八八三)の「飯高郡松坂地誌」(松阪市立図書館蔵)には、「人家稠密ノ所ニシテ、西ハ字殿町・新坐町及魚町等ニ連接シ、北ハ字日野町ニ沿ヒ、東ハ字白粉町ニ接シ、南ハ本郡大黒田村ニ界ス、東西百間、南北弐百弐十間、但シ旧字桜屋町・大工町・黒田町ヲ合シテ本称ニ改ム」とみえる。「権輿雑集」には「天正十六子年松ケ島より移、丁役全歩、川俣谷にて製し来煎茶、関東に運送の問屋多、宝永七寅年町中の茶荷八千七百五拾駄余と記」とある。


新町
しんまち

[現在地名]菊陽町原水はらみず

南方みなみがた村の西に集落がある。大津おおづ街道沿いに立地し、熊本より四里、大津まで一里。白川右岸の段丘で、東西に細長い窪地の中にあって、ほり川懸りの灌漑水路による水田が開かれている。「一統志」に「新町 阿蘇三宮」とみえる。「熊本藩年表稿」によると、寛永年間(一六二四―四四)中尾なかお村・南方村・馬場ばば村・北方きたがた村とともに細川忠利の代に仕立てられた町。元禄国絵図に「上津久連村之内新町」とある。


新町
しんまち

[現在地名]伏見区深草北ふかくさきた新町

藤森玄蕃ふじのもりげんば町の南に位置し、古絵図類には、多く「京通新町」と記される。きよう通とは、伏見から京へ行く道という意味で、新町を北行すれば直違橋すじかいばし筋を通って稲荷いなり社前、東福とうふく(現東山区)前を経て、本町ほんまち通に通じる一本道。「豊公伏見城ノ図」はじめ伏見城下町時代の絵図によれば、この新町を南下してすぐに外堀に突当たる道路が描かれるが、江戸時代の絵図類には、南下する道はなく、新町の南端から西へ直角に折れ、墨染遊郭すみぞめゆうかくを突っ切って京町きようまち通に出て伏見市中に入る道のみが描かれる。新町東側の家並の北端に東へ折れる道があり、藤森社前の鳥居崎とりいさき町を経て、大亀谷おおかめだにを経、山科やましな大津おおつまたは六地蔵ろくじぞう宇治うじへのいわゆる大亀谷越となる。


新町
しんまち

[現在地名]会津若松市川原町かわらまち材木町ざいもくまち一丁目

郭外の西、川を隔てて数条の通りがあり、すべてしん町と称する。河原町かわらまち通および材木町ざいもくまち通に面した商家を除き、河原町の南側および材木町の東側一帯は士屋敷の町であった。寛永一二年(一六三五)加藤明成が新しく町を置いたので、この名がついた。河原町大橋の西端から湯川の左岸に沿って、南の方石塚いしづかに行く通りを湯川端ゆがわばた通といい、長さ一町四二間余・幅五間、家数五で、西側のみに住んでいた。


新町
あらまち

[現在地名]鰺ヶ沢町新町

西はつり町、東ははま町に接し、南に折れてほん町一丁目の角に至る。

「平山日記」元和二年(一六一六)の項に「鰺ケ沢堀切之城成就仕候ニ付、新町派立成立之為、地子銀御免被仰付候」とあり、これは「去年春立し也」と注されているので、新町の成立は元和元年と思われる。また梅田日記(青森県租税誌)の元和元年一二月に鰺ヶ沢新町派立が取立てられたとある。寛永八年(一六三一)天童てんどう山を崩して新たに町づくりをしたので新町というとある(鰺ヶ沢町史)

寛文一一年(一六七一)塩商売の町となった。


新町
しんまち

[現在地名]三島市出町でちよう

三島町の東端、かん(新町川とも。現大場川)を渡って最初の町。寛文八年(一六六八)の拝借米渡帳(三島市誌)に町名がみえ、町の長さ一三〇間。東海道を挟む町並で、防備のための枡形などの諸施設が設けられていた。枡形は西端のかや町にも設けられていて、明け六つと暮れ六つに木戸が開閉された(三島市誌)。神川に架かる新町橋は三島町中唯一の板橋で、長さ一八間・幅三間半、寛文一二年には架替えがあり、入用銀一〇貫八五四匁余(三島町外万覚帳)。橋のたもと南側には処刑された罪人の首をさらす場所があった(前田甲龍手記)。貞享五年(一六八八)の家数三九(家持二六・借家一三)、町の長さ一三〇間(前掲万覚帳)


新町
しんまち

[現在地名]桑名市新町

一色いつしき町の東の堀を隔てて、その東にあり、東海道筋の南北一条の町屋敷地。この付近は江戸時代以前は泡州崎あわすざきとよばれていた。「久波奈名所図会」に「慶長年中町割の時新に開発の地故新町と言なるべし」とある。町割の際に、隣接する伝馬てんま町とともに寺院が集められた。当町の西側には光徳こうとく(浄土宗)がある。また光明こうみよう(浄土宗)があった。同寺は町割以前は桑名宗社の近くにあったが移建されたもので、春日明神の氏寺であった。元和五年(一六一九)に奉納された神面の証文(久波奈名所図会)には「光明寺昔日春日氏寺而秋十八日祭礼之会所也、故尋旧儀以奉宝納」とある。


新町
しんまち

[現在地名]笠間市笠間

城下の中央に位置し、南は高橋たかはし町、東はおお町、北は鉄砲てつぽう町、西は鷹匠たかじよう町。上の木戸から下の木戸まで四町一三間(「里数改帳」茨城県歴史館蔵)。南北に通る道の両側に商家が並んでいた。寛永一七年(一六四〇)藩主浅野長綱の代に田を埋めて作られ、町名は五つの商人町のうち最も新しいので付けられた(笠間城記)

宝永二年(一七〇五)の笠間町町方軒別改帳(笠間稲荷神社蔵)によれば、屋敷数八四(三軒口一、二軒口三、一軒半口一、一軒口二九、半軒口四八、寺屋敷二)・人数四三三、馬七。職業別には、地作三四、家中奉公人二〇、日雇九、大工四、茶売三、指物屋三、酒売三、紺屋三、鐘つき三、菓子売三、定夫二、鍛冶屋二、桶屋二、仕立屋二、たばこ屋二、肴売二、綿打二、畳指二、塩屋二、鞘師・絵師・畳屋・細物売・あめ屋・餅屋・果物屋・木挽・金具屋・綿売・研師・鳴子番・瓦屋・座頭・火縄売各一のほかに寺二、名主二である。


新町
しんまち

[現在地名]滝野町新町

多井田おいだ村の南、加古川中流の東岸に位置する。新町村とも称する。加古川舟運のため慶長九年(一六〇四)に姫路藩主池田輝政が多井田・北野きたの両村の一部をさいて町立てした河岸の町(「阿江家由緒書」阿江家文書)。慶長国絵図に新町とみえる。正保郷帳では高一〇石(畠方のみ)、幕府領。宝永五年(一七〇八)大坂城代土岐頼殷領(「土岐頼殷知行目録」土岐家文書)


新町
あらまち

[現在地名]行田市行田

かみ町の南に続く南北の両側町で、町の長さ約三町ほど(忍藩領町村名鑑)。「風土記稿」は「シンマチ」と振仮名を付しているが、地元では古くから「アラマチ」と称する。天保元年(一八三〇)忍藩江戸詰の右筆で歌人でもあった加藤古風が初めて本領の城を訪れたとき、「佐間村より天満宮の前を過、橋をわたりて三丁ばかり(天満組屋敷)行て又橋をわたり、八軒口とかいへる所の御門に入り、あら町を過て札の辻より左におれ、行田の本町より大手の御門に入り」(忍の道の記)と、その道筋を細かに記している。


新町
しんまち

[現在地名]岐阜市加納新町かのうしんまち

中山道に沿い、東西に延びる両側町。加納二六町の一。寛延二年(一七四九)の加納宿絵図によれば、町南側を清水しみず川が東流。西は南広江みなみひろえ町の南端に続き、南に折れ板橋を渡ると七軒しちけん町に至る。東はやなぎ町。町並北側から二本の畑道が延びる。元禄八年(一六九五)頃の町絵図(太田家蔵)には町名はみえない。貞享五年(一六八八)の間口裏行覚帳(三宅文書)に町名がみえ、町の長さ一〇一間半、家数三九、ほかに借家一。寛延三年の改帳(徳川林政史研究所蔵)では町の長さ北九七間余・南一一四間、道幅三間一尺。家数は北側一九、うち役家一三・鍵役六、南側二一、うち役家一四・鍵役五。北側に自身番所・番水桶一ヵ所、南側に専福せんぷく寺、番水桶一ヵ所・石橋二ヵ所があった。


新町
しんまち

[現在地名]相良町相良

萩間はぎま川の河口右岸に位置し、南東は福岡ふくおか町、北東は前浜まえばま町、南西は波津はづ村。文禄四年(一五九五)とく村芝原に町割が行われ、家数二六軒であったという。前浜町・市場いちんば町とともに相良町三町を構成し、安永八年(一七七九)相良城が建設されると福岡町も合せて相良城下四町と称された(相良史)。延享四年(一七四七)の家数四三・人数一六〇(樋田家文書)。宝永四年(一七〇七)一〇月四日の大地震・大津波により当町は潰地となった。享保四年(一七一九)四月一九日、前浜町から出火した火事で当町も一部類焼している。


新町
しんまち

[現在地名]鈴鹿市神戸かんべ二丁目

伊勢参宮街道を札の辻ふだのつじで曲がらず、まっすぐ南へ下ると新町で、北新町・南新町とに分けている。この町も古くからの神戸四町の一つで、新町とはいうものの町の成立の古いことがわかる。享保一七年(一七三二)町の長さ四町一間、戸数九一(九皐抄)、文政八年(一八二五)戸数九三(高野家家譜)、明治二年(一八六九)戸数九六(伊藤家文書)。享保六年(一説には寛永二〇年)北新町信濃屋より出火、新町・十日市とおかいち町家数一六一を炎焼、神戸別院・願行がんぎよう寺なども焼失した神戸最大の火事(いわゆる信濃屋火事)があった(高野家家譜)


新町
しんまち

[現在地名]大牟田市新町

三池町みいけまち村の南に位置する三池藩立花氏の陣屋町。三池街道が通る。元和七年(一六二一)、立花種次は父直次の旧領三池郡のうちで一五ヵ村一万石を与えられて大名となった。種次は筑後下向後伯父である柳川藩主立花宗茂の計らいで柳川城下沖端おきのはたに屋敷を置いていたが、寛永四年(一六二七)今山いまやま村の田地八町八反一畝を召上げて同地に陣屋を設けるとともに町立てを行った(「覚書」中島家文書)


新町
しんまち

面積:四・二三平方キロ

多野郡の北東端に位置し、西境付近を北東流する温井ぬくい川をからす川が合流して北部を東流する。標高六〇メートル前後の平坦地で、烏川と神流かんな川の合流地に近く、両河川の氾濫原域である。東は埼玉県児玉こだま上里かみさと町、北は佐波さわ玉村たまむら町、西から南は藤岡市に接する。町央を東西に国鉄高崎線が通り新町駅が開設されている。同線に並行して国道一七号が通り、旧中山道の県道中島―新町線が市街地を東西に走る。これらの諸道と交差して県道藤岡―大胡線が南北に縦貫、また南端を関越自動車道が東西に走る。人口密度は三千二〇〇人を超え、県内屈指の密集地となっている。新町の地名は、承応年間(一六五二―五五)に中山道が当地を通ることになったのに伴い、江戸より一一番目、上野国最初の宿場が設けられ、元文年間(一七三六―四一)には道中奉行の達しで公式に定められた新町宿に由来する。


新町
しんちよう

[現在地名]台東区今戸いまど一―二丁目

山谷さんや堀の北岸にあり、東は長昌ちようしよう寺・浅草今戸町、西は源寿げんじゆ院・瑞泉ずいせん寺・安盛あんせい寺・遍照へんじよう寺に囲まれた地域の通称。弾左衛門の居所があった。弾左衛門の居所はかつては日本橋室にほんばしむろ(現中央区)辺りにあり、徳川家康の江戸入府後浅草に移されたという(御府内備考)。弾左衛門は江戸市中と周辺関東一二ヵ国の賤民身分の人々を統轄したえた頭。江戸時代初めに幕府から賤民身分取締の特権を付与されたと推定され、のちしだいに支配領域を広げた。寛政年間(一七八九―一八〇一)の支配数はえた五千六六四軒・非人一千九九五小屋・猿飼六一軒(弾左衛門書上)


新町
しんまち

[現在地名]掛川市掛川 新町

掛川宿一三町の一つで、東海道往還の両側町。掛川城下の東の入口で、防衛のため往還に七曲りの屈折が設けられている。東は増田ますだ村の大鋸おおが町に接し、ここに木戸口が設けられていた。北西は総構えの堀を境に町、南は上張あげはり村、北はさか川を境として仁藤にとう村に接する。木戸口から当町北側の逆川に沿う近道を御早耳おはやみみ道といい、木町東端の東町番所への通報に用いた(山本家文書)。元和五年(一六一九)掛川宿より続く上張・増田両村の町並を村高を免じて新町とした(掛川誌稿)。明治五年(一八七二)の掛川宿明細帳(鈴木家文書)はこれを元和六年のこととする。


新町
しんまち

[現在地名]宇土市新町・船場せんば町・石小路いしこうじ

宇土町ほん町筋に並行し、その西側に南西から新一丁目・新二丁目、北西に新三丁目、北に新四丁目・四丁目小路しちようめこうじ、北東に船場・石瀬いしのせの各町が続く。近世は松山手永に属した。新三丁目には宿場横丁があり、駅馬は享保(一七一六―三六)の頃二四疋、安永(一七七二―八一)の頃三一疋、文化(一八〇四―一八)の頃四〇疋と定められていた(宇土市史)。「郡村誌」宇土町に旅籠屋一六戸がみえるのはこの地域である。


新町
しんまち

[現在地名]狭山町池尻・半田など

慶長一三年(一六〇八)片桐且元が奉行となって狭山池の改修工事が行われたのち、片桐家の家臣を当地に置き、在地の有力土豪とともに樋役人として三〇名を定め、池守の指揮のもとに池水の分配、樋門の開閉などに当たらせた。諸役は免除され、狭山池東除ひがしよけ口に居住させてこの地を新町・狭山新宿などと称したという(狭山町史)。樋役人には一人につき間口六―一〇間に奥行六〇間ずつの無年貢屋敷を与え、別に米二石の引料があった。除地の北側一五人分は池尻いけじり村、南側一五人分は半田はんだ村に属し(享和二年「池尻村明細帳」沢田家文書)、北側を狭山新町、南側を半田新町ともよんだ(河内志)。のち七人を岩室いわむろ村西除口北西に増置して同待遇を与え、先の新町を東新ひがししん町と称し、同地を西新町と称したという。


新町
しんちよう

[現在地名]加賀市大聖寺新町だいしようじしんちよう

相生あいおい町・まつ町に直角に交わる町で、大聖寺川に架かる福田ふくだ橋北詰から北に延びて藩領北方の村に至る北浜きたばま往来に面し、その基点となっている。安永二年(一七七三)頃には福田新町とも称し(「清水長勅日記」大聖寺藩史)、もとは上福田村に含まれたと考えられる。天明六年(一七八六)の大聖寺絵図によるとおおかたは町家で南東部に徒士などの屋敷が若干あり、北西端には正知流槍術・北条流兵学師範児玉左源太の居宅があった。左源太の弟は頼山陽に師事した児玉旗山である。宝暦七年(一七五七)町年寄となった福田屋の初代は当町で米商いを始めた安兵衛であった。


新町
しんまち

[現在地名]東区いずみ二―三丁目

きよう町筋、鍋屋なべや町の東、九十軒くじつけん町の西にあり、石垣屋横いしがきやよこ町と天道てんどう町との間をいう(府城志)。開府の頃は町並は鍋屋町までで、この辺りは野原が広がっていた。元和二年(一六一六)に町屋ができて、東新ひがししん町一丁目と称した。のち「東」の字を除いた(金鱗九十九之塵、尾張城南陌名由緒)。新町の南裏の東西の道を新町裏という。その教順きようじゆん寺裏門のほとりには、おかねの田甫たんぼの旧跡があった。


新町
しんまち

[現在地名]柳川市新町

細工さいく町三丁目から東へ延びる通りに沿った両側町。東端には瀬高上庄せたかかみのしよう(現瀬高町)方面へ行く道に通じる瀬高門がある。同門の外は藤吉ふじよし(現三橋町)。近世初期、瀬高門が瀬高町東端からここへ移設された際、新たに設置された町とされる(柳河明証図会)。享保八年(一七二三)から同一一年の状況を示すとみられる町小路等絵図によれば竈数七六。道幅二間余・長さ一〇二間余。中ほどから南下する横丁があり、新町南裏の堀に架かる橋から南の光善こうぜん寺に突き当る角までの長さは四一間余であった(柳川惣町図)。瀬高門内には番所があり、北側にはふたッ川の水を城下に引込むための水門が設けられていた(柳河明証図会)


新町
あらまち

[現在地名]伊勢崎市大手町おおてまち

伊勢崎城の東側を南北に通り、本町ほんまち通の中央やや東寄りで丁字形に交わる両側町。稲垣氏時代からの町。寛永一九年(一六四二)の検地帳および書継文書である屋敷寸間帳(いずれも伊勢崎市立図書館蔵)によれば、町並は西側の北が一番屋敷となる。二番屋敷の星野家には「伊勢崎町新古日記」をはじめ多くの古文書があった。


新町
しんまち

[現在地名]鹿児島市新町・松原町まつばらちよう

しも町一二町の南端に位置。「鹿児島県地誌」によれば、北は大黒だいこく町、東は堀江ほりえ町、南は松原通まつばらどおり町。天保城下絵図では菩薩堂ぼさど通の南方に新町とみえ、その南方に大門口だいもんぐち番所、南西方に南林なんりん寺、同寺門前に馬乗馬場が描かれている。明治二一年(一八八八)頃の戸数六七八(うち士族四七)、職業調べによれば雑業二九三・商二三・工一八・無職一二、農業・大工各四、芸妓三など(「市民動態調」鹿児島市史)。真宗大谷派鹿児島別院がある。京都東本願寺も西本願寺と同様に明治七年頃から鹿児島に僧侶を派遣して布教に着手した。


新町
しんまち

[現在地名]村上市新町

臥牛がぎゆう山の北東にあり、北西から南東に延びる二筋の町並。内郭寄りの町並が四〇〇間で表新おもてしん町、外郭寄りの町並が三一一間で裏新うらしん町と称されていた。西隅のふくろ門・秋葉あきば門を経て東隅の青木あおき門に達し、そこから南へ折曲して耕林寺こうりんじ門を経て臥牛山の東山麓の市内いちない門に達する堀と土塁に囲まれた町。元和四年(一六一八)堀直寄が城下町づくりを行った際、侍屋敷として設けられたのが始まりとされる(宝永二年「村上城主歴代譜」)。宝永七年からの松平輝貞在城の頃は、毎年九月二六日に流鏑馬が行われ、表新町の大梁寺(廃絶)の前に的を結び駆馬をしていた(宝暦一〇年「鶴牛山下録」村上城跡保存育英会蔵)


新町
しんまち

[現在地名]川之江市川之江町

川之江村のうち、町方の中心をなす町。金生きんせい川の旧川筋(現国道一一号)の東側を占める。西側はふる町。享保六年(一七二一)の川之江村明細帳によれば、町の長さ三町一五間。明和六年(一七六九)の「役用記」では上下に分れている。文久三年(一八六三)の戸口は、新町上一五〇軒四八三人、新町下四三軒一九八人であった。

新町上には大庄屋猪川家、郷士で浦手役・本陣を勤めた長野家があり、近藤篤山の家塾は長野家で開かれていた。宝暦(一七五一―六四)頃の創業と伝える土州御用柴田菓子舗もこの町にあり、伊予聖人近藤篤山が「白賁堂はくひどう」という堂号を贈っている。


新町
しんまち

[現在地名]豊岡市城南町じようなんちよう

小尾崎こおざき町の南に位置し、南は京口きようぐち町、西は小尾崎村、東は大磯おおぞ村に接する。天正一〇年(一五八二)に始まる豊岡町(城下)五町外の端町の一として大磯村の村域に食込んで成立した。一七世紀前期―中期とされる国絵図(石川家蔵)では町屋の形成は認めにくいが、元禄一五年(一七〇二)の豊岡城下図(京極家蔵)では京口町を含めて町屋が完成している。天明五年(一七八五)の家数七〇・人数三〇六(「公私之日記」鳥井家文書)。文政八年(一八二五)の経済不安による豊岡騒動では打毀の全被害商家約五〇軒中、二軒の被害で終わっている(「豊岡騒動記」由利家文書)


新町
しんまち

[現在地名]能代市大手おおて

能代町の西部、東は稲荷いなり町、西は盤若はんにや町。

享保一三年(一七二八)能代町絵図(能代市役所蔵)に新町とあり、「代邑聞見録」には寛文年間(一六六一―七三)の建置とある。享保一五年の「六郡郡邑記」の家数は六七軒。享保一三年の能代町絵図では奉行御役屋の西脇を北へ通ずる小玉こだま小路の所に「新町」とあるが、正しくは後町の中ほどよりやや東側から南へ延びて鍛冶町と交差するまでをいう。文化年間(一八〇四―一八)の能代町絵図(県立秋田図書館蔵)には正しく描かれている。南北一一六間のうち新町分の町屋は真ん中部分の七五―七七間で、道幅は南端が二間四尺、北端が四間四尺。寛保三年―延享元年(一七四三―四四)成立の「能代町屋舗改正旧記」(笹森家文書)に、寛保三年の大火直後新町の道幅は三間になったが、翌年に三間三尺五寸にすることになったとある。


新町
しんちよう

[現在地名]八王子市新町・元横山町もとよこやまちよう一丁目・明神町みようじんちよう一―四丁目

八王子横山十五はちおうじよこやまじゆうご宿のうちで、宿の東の入口に位置する。横山・八日市両宿の伝馬役を助ける加宿で、町内を走る甲州道中はあさ川右岸から宿の惣門前まで続き、沿道の左右には家並が連なっていた(分間延絵図)。町内に十王堂といわれる閻魔堂があり、古くは十王堂じゆうおうどう宿とよばれた。元禄一五年(一七〇二)の八王子横山宿村鑑(新野家文書)によれば、高一七石余、家数三七のうち本百姓二八・水呑九、人数一六〇、馬一〇、肴商売六・大工一・鎌鍬鍛冶渡世一・千人同心二、農間渡世(沓草履造)二七。


新町
しんまち

[現在地名]敦賀市栄新さかえしん町・あけぼの町・かなさき

川向かわむこ六ヶ町の一。北は丁持ちよもち町の枝町三ツ屋みつや、西は同森屋敷もりやしき六軒ろつけん町南西裏の塩入田を寛文元年(一六六一)より埋立て、同一〇年に町立(敦賀志)。敦賀町中では新立の町に属する。川向花街四町の一で、天和二年(一六八二)の「遠目鏡」は敦賀三六町の一とし、また当町の揚屋を七軒載せ、さらに「芝居 新町ニ有、太夫村井吉弥・金本上氏金重・太夫本惣兵衛、但シ役者四拾人余」とするが、「敦賀志」は「戯場ハ此町の南の突当也、丁持町に属す、百年前ハ常芝居二軒也、天保十五年御改革後ハ芝居ハなし」とし、寛政末年頃の敦賀町絵図には、シン町の突当りに「芝居小屋」が描かれる。


新町
しんまち

[現在地名]大館市新町

外町西南端部の町人町。東西に走る道路に沿い、西はおお町と丁字形に交わって足軽あしがる町に連なる。東は武家町のむかい町と隣接。元禄一七年(一七〇四)の大館城下絵図に「新町」とみえる。「郷村史略」に「新町鍛冶町之内大工町、柳町之内支配、風呂屋町同断」とある。

延宝三年(一六七五)の大館町市日相定之事(大館肝煎文書)では、大町と交互に二の三斎市を立て「大町、新町両処、太物細物茶紙繰綿致売買間敷候、其外何共勝手次第ニ可致商売」とある。


新町
しんまち

[現在地名]北上市本通り一丁目・大通り三丁目

ほん町の南に隣接し、奥州街道の両側にまたがる。街道の東側は黒沢尻くろさわじり里分さとぶん、西側は黒沢尻村町分まちぶん。貞享二年(一六八五)三月奥寺八左衛門によって町割され、翌三年同人が没すると弟作右衛門がこれを引継ぎ、二口合せて四四軒の新田しんでん町が成立した。奥寺おくでら堰工事関係者を住居させた町で、のちに新町と称した。元禄一〇年(一六九七)には本町とともで毎日伝馬一〇疋・歩行夫一〇人を用意することとなり、月のうち二一日から晦日まで当町で勤めた。脇本陣は三浦屋であった。市日は当初五の日の三斎市であったが、元禄七年花巻からの訴えで二五日だけの一日市となった(「万留帳」竹村文書、「本町検断諸用留帳」小沢文書)


新町
しんまち

[現在地名]丸岡町ほん

丸岡城の西、外堀外に南北に走る丸岡街道沿いの町。北はむろ町、南はたに町・富田とみた町に接する。慶長一八年(一六一三)の丸岡城下図には「新町通り」とみえ、寛永年間(一六二四―四四)と推定される丸岡町絵図(佐久見家文書)によると家数は三九。また天保七年(一八三六)八月の円陵輿地略図によれば家数三七。

新町通の北端と南端は屈折してそれぞれ室町通と谷町通と接続するが、これは軍事的配慮によるものである。


新町
しんまち

[現在地名]長野市長野 新町

元禄五年(一六九二)の善光寺惣目録(丸山史料)善光ぜんこう寺総町数一五町の内に北之門きたのもん町をあげていて、旧善光寺本堂(現元善町)の北の駒返橋から北に向かって北之門町があった。元禄七年現在の善光寺本堂の敷地を定めるにあたって、湯福ゆぶく川を改修するとともに、北之門町を城山じようやま南下に移し、新町とした(長野市史)。同時にその西にあった河原崎かわらさき町を伊勢いせ町と改め、両町は一庄屋の下に町政が行われた。


新町
しんまち

[現在地名]新南陽市大字富田

古市ふるいち町の北西方に位置する山陽道沿いの町。「地下上申」に「古市より以後ニ出来申たる哉、其故にか新町と申ならハし候、最前廉は月並五日市、十三日市、廿四日市立申候処ニ、徳山市三度宛之分、其後六度宛ニ相成、市繁昌仕故か、新町市唯今ニてハ五月五日市、七月十三日市、十二月廿四日市計市立申候、尤新町之内ニて五日市、十三日市、廿四日市と町内ニて分り居申候」と記される。

古くから開けた富田市とんだいちに対して、街道沿いに開けた新しい町で、元和八年(一六二二)の富田保打渡坪付(徳山毛利家文書)に新市の市屋敷は九三軒とある。

その後さらに発展、寛保元年(一七四一)の徳山藩御領内町方目安(徳山毛利家文書)には、町の長さ東西六町三二間五寸、家数一二九(瓦屋九、茅屋一二〇)で北側に六三、南側に六六。


新町
あらまち

[現在地名]宮古市新町

もと町の西にあって、山口やまぐち川河岸から山手よこ町までの間にほぼ本町に並行して延びる。本町に続いてつくられた町で、小本家記録(小笠原文書)によれば寛永九年(一六三二)三月、黒田くろた村の百姓式部の保有地のうち四石余、先達同一石余、肝入内蔵助同六石余、九郎右衛門同一斗余、計一三石余を屋敷地に引いて町割が行われた。元禄五年(一六九二)の町屋鋪表口改帳(伊香文書)によると道幅三間四尺三寸、町の長さ一〇七間七寸(ただし一間は六尺五寸)で、屋敷数は五三。


新町
しんまち

[現在地名]山口市米屋こめや町・道場門前どうじようもんぜん一丁目の各一部

石州街道沿いの米屋町(晦日市)の西端、道場門前(十日市)との間を北へ入る小路で、いちさか川沿いの中河原なかがわら町に抜ける。川を渡って北は早間田はやまだ町。この小路の南は今市いまいち町に続く。早間田町への橋は新町橋(現千歳橋)とよぶが、山口古図にはこの場所に橋はない。町の西側は道場とよばれた時宗善福ぜんぷく寺の境内であった。

文禄五年(一五九六)正月二〇日付の善福寺文書に「新町替之畠」に関するものがあるが、それによると善福寺隣接の新町の替畠として「はやまた」「柿木ノもと」など五ヵ所が「右之前為新町替畠打渡如件」とされている。


新町
しんまち

[現在地名]浜松市新町・松江町まつえちよう板屋町いたやまち北寺島町きたてらじまちよう

板屋町の東、東西に延びる東海道に沿う。下新町とも称された。東は馬込まごめ橋を挟み馬込村で、同村境には番所が置かれ木戸が設置されていた。井上氏時代城下絵図には馬込川に沿って土居が描かれている。馬込村を分けて町立てされたともいう(浜松市史)。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳によれば町の長さ三町一五間、家数八一。浜松各町書上によると町並は南側一八〇間二尺余・北側二〇七間五尺余、町幅四間。本役家屋敷六五、総家数一〇九、うち借屋一五。なお寛文四年(一六六四)の太田資宗領知目録(寛文朱印留)に新町村がみえ、元禄郷帳・天保郷帳では新町一六石余が高付されている。


新町
しんまち

[現在地名]唐津市新町

うち町の西端に位置する。旧城下町内にあるが唐津城築城以後にできたので、藩政期はそう(内町・外町)の惣行事・惣町事務を処理する月番を受け持たぬ町として取り扱われた。初めはゆみ町・鷹匠たかじよう町・平野ひらの町とともに下級武士の町であったが、職人の住着きが多くなり、町人町になったもので、宝暦年中(一七五一―六四)の唐津城絵図に町名が出ている。


新町
しんまち

[現在地名]松山市高砂町たかさごまち一丁目・木屋きや町一丁目・清水町しみずまち一丁目

松山城下町の北部に位置し、紺屋こんや町・鍛冶屋かじや町に平行する東西の町筋。東は上之棚うえのたな町、西は木屋町、南は傘屋かさや町、北は道後どうご町・鍛冶屋町に接する。町名の初見は、寛永一二年(一六三五)の松山城下町図(伊予史談会蔵)で、寛文―天和年間(一六六一―八四)と推定される松山秘図(同会蔵)のなかにも町名がみえる。


新町
しんちよう

[現在地名]日野町村井むらい 新町

ほん町の西に位置し、日野村井町のほぼ中央にあたる。城下町割でも位置は変わらず、本町通九ヵ町の一。江戸時代の家役銀は全戸本役。日野三町が伊予松山藩蒲生氏領であった寛永四年(一六二七)から同一〇年まで当町の西田家に陣屋が置かれた(池内記録)。西田家は関ヶ原の戦の際に日野三町が日野鉄砲三〇〇挺を徳川家康に差出した時に下された朱印状を保持し、代々三町惣名代を勤め苗字帯刀が許された。同家と蒲生氏の関係は深く、関ヶ原の戦後から元和九年(一六二三)まで、事に備えて蒲生氏が鉄砲火薬二九二貫七〇〇匁を同家に保管(西田文書)。寛保三年(一七四三)には合薬屋が三軒、延享五年(一七四八)には配置売薬用の薬箱を作る指物屋三軒があった。


新町
しんまち

[現在地名]八幡町新町

橋本はしもと町との四辻から吉田よしだ川南岸に沿って西に延びる。寛文年間(一六六一―七三)の町絵図に「シンマチ」とみえる。対岸には正保三年(一六四六)二千石で分知された遠藤常昭(小普請旗本)の屋敷がある。寛文四年の遠藤常友大坂御加番の人足書(郡上郡史)には新足軽として当町下島茂作・水野嘉兵衛、新中間として太郎兵衛・仙太郎・作蔵・与次兵衛・半三郎・与三兵衛・次郎作・久蔵、余分新足軽として宇野彦左衛門・野口七兵衛などが載る。元禄五年(一六九二)の家数五二・反別一町余、内訳は豆腐屋二・紺屋六・酒屋二・畳屋一・茶屋一・郷通商人五・郷通二・木挽一・大工二・鍛冶屋一・医師二・材木山師一・耕作人一九・越中屋二・塗師屋一・白木屋一・職不明二など(「城下町家帳」郡上郡史)


新町
しんまち

[現在地名]人吉市新町

球磨川とむね川の合流点に位置し、東は胸川を挟み人吉城内ふもと、北は球磨川を挟み九日ここのか町、西は老神馬場おいがみばば、南は寺馬場てらばばに接する。明治時代の「熊風土記」によれば「新町、元畠田有侍屋敷ナリ、其間ニ借屋アリ、文化ノ頃ヨリ少々町人店ヲ出ス、天保ノ初ヨリ町家トナル」とあり、武士と町人の共住地であったが、寛政元年(一七八九)の私領御巡見教令(相良家近世文書)では町人町に含まれ、「新町壱町拾五間、道幅三間半、下水道加へ、但屋敷数三拾八軒」とあり、うち借屋が一三軒もあった。したがって、「熊風土記」のいう時期より、もう少し前の段階で町人と武士が混住したと考えてよかろう。


新町
しんまち

[現在地名]福山市昭和しようわ町・ふな町・住吉すみよし

はま(入江)に架かる新橋(木綿橋)以東の南岸沿いに位置し、東は新橋から南行する通り、西は住吉神社・五穀ごこく神社東側の通りで限られる(安政時代福山城下地図)。水野時代福山城下地図をみると、新橋から南行する通りの一筋東の通りに「上新町」とあり、町域東部の浜川沿いには「リョシ町」とみえる。「リョシ町」には猟師三八とあり、その南側に「古八幡宮跡」と記す。「備陽六郡志」には「古宮之前、浜の方に空地有。水野家の御代より藁蔵有けるが、享保十九年二月四日類焼し、当時小役人屋敷也」とあり、間数二五三間一尺八寸、坪数二千四五四坪九合、本家四四軒、表借屋九一軒、裏借屋二三一軒となっている。


新町
しんまち

[現在地名]野辺地町 野辺地・新町裏しんまちうら浜掛はまがけなど

通称新町。野辺地村の町方の北のほぼ中ほどに位置し、奥州街道に沿う。享和三年(一八〇三)の仮名付帳に野辺地町七町の一として町名がみえる。藩政末期の北奥路程記(岩手県盛岡市中央公民館蔵)の絵図によると奥州街道はほん町と金沢かねざわ町との境、すなわち当町の東端で西に折れて直進し、当町の西端で北へ折れて八幡はちまん町に入る。


新町
しんまち

[現在地名]洲本市本町ほんまち七丁目

鍛冶屋かじや町の西に続く東西の通り。山下さんか一八町の一でそと町のうち。元禄三年(一六九〇)一二月、願いにより通路が通され、商家一九軒が建てられて町立てされた。通幅は二間半。町人町は南側のみで北側は武家地となっていた。東方鍛冶屋町との間には南北の小路塩屋しおや(塩屋橋通)があり、西方なか町との間には南北の下代げだい(江国寺通)がある。


新町
しんまち

[現在地名]御宿町新町

六軒ろつけん町の西、南は網代あじろ(御宿浦)に接する。六軒町同様に御宿浦の漁業の発達に伴い漁業関係者の後背集落として成立したとみられ、江戸時代を通して御宿村四ヵ村(浜・須賀・久保・高山田)の入会地であった。元禄二年(一六八九)の御宿浦浦方割合帳(鶴岡家文書)に、間口表六間・裏五間の三郎兵衛など一〇軒の屋敷地一反三畝余は「舟引場之上より古歩之替りニ新町え出分」とある。第二次世界大戦後、地内の急速な宅地化により昭和二五年(一九五〇)御宿町の大字として独立。



しんうつぼちよう

[現在地名]西区靭本うつぼほん町一丁目

瀬戸物せともの町の西、新天満しんてんま町の南にあり、相生あいおい橋の通りに沿って東西に延びる両側町。西は永代えいたい浜。靭三町の一町で、北船場きたせんばの靭町(のちの本靭町、現東区)の塩干魚商人が移住してできた(→新天満町。大坂三郷北組に属し、元禄一三年(一七〇〇)の三郷水帳寄帳では屋敷数六六・役数八四役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。


新町
しんまち

[現在地名]岩槻市本町ほんちよう二丁目・同四丁目

市宿いちじゆく町の南側、ほぼ東西に延びる道の両側に町屋が並び、東は横町に至る。当町一帯はもと田畑であったが、岩槻藩主阿部重次の時代(寛永一五年―慶安四年)に、もと岩付城主太田氏家臣の勝田九郎左衛門や平野文左衛門ら地主七名が町屋取立てを願出、許可されて開いた町と伝える(元文五年「岩槻宿古事新来之覚書」勝田家文書)。宝永六年(一七〇九)の岩槻各町宗門人別惣高(同文書)によると男一七八・女一六五。


新町
しんまち

[現在地名]三木市本町ほんまち二―三丁目

かみ町の南に位置する。三木町の町方町の一町で、しも五ヵ町に属する。慶長国絵図にみえる三木町の一部。文化元年(一八〇四)の三木町家別人数並諸商売書上写(三木市有文書)によれば家数五四・人数二二〇。弘化二年(一八四五)の家数取調帳(同文書)では家数五八、うち四〇軒は地方町の前田まえだ町にある。天保四年(一八三三)の剃刀鍛冶仲間控(黒田家文書)には鍛冶仲間四九人の一人として新町の米屋治兵衛が連署している。


新町
しんまち

[現在地名]今治市常盤ときわ町一丁目

初代藩主松平定房の時、今治町のほん町・風早かざはや町・中浜なかばま町・片原かたはら町各町の南部、湾頭の広場を利用して新しくできた町。今治八町の一つ。元禄一二年(一六九九)の新町寸間改帳によると、下ノ町・中ノ町・上ノ町は奥行八間―八間三尺、浜手新地は六間三尺六寸、各戸の間口は三間前後のものが多い。惣合間口二〇三間のうち、風早町と本町の町役を各一五間ずつ負担し、残り一七三間は御年貢地であった。


新町
しんまち

[現在地名]むつ市新町の一部

田名部たなぶ川の下流左岸、田名部町の南端に位置し、川を隔てて北東に横迎よこむかえ町、北にほん町がある。野辺地のへじ(現上北郡野辺地町)方面への街道の入口にあたり、田名部大橋をもって本町方面へ通じる。藩政初期の頃からみえる田名部五町の一。享和三年(一八〇三)の仮名付帳に新町とあり、家数五五。大橋下には海産物の囲蔵が数棟あって、川舟で大平おおだいら湊へ下げたものという(下北半嶋史)

明治初年の「新撰陸奥国誌」に「新町上・中・下に分つ。


新町
しんまち

[現在地名]平戸市新町

平戸城の南西にあり、魚の棚うおのたな町の東、戸石といし川右岸に位置する。本町ほんちよう通六ヵ町の一つで、富江とみえ町・大吉だいきち町・富之とみの町の三ヵ町を総称して新町という。慶長年間(一五九六―一六一五)には本町などとともに「新町」が成立していたという(「御判物拝領之者書出」松浦史料博物館蔵)


新町
しんまち

[現在地名]前橋市朝日町あさひちよう一―四丁目

近世の町人町天川新あまがわしん町を明治九年(一八七六)新町と改称した。西の中川なかがわ町から続く主要な通筋で、この道は広瀬ひろせ川に沿って南へ折れ、天川村のうち近世後期に天川町とよばれた街村部へ続く。貞享元年(一六八四)の「前橋風土記」に「南は天川村なり。五料に至る道路なり」とある。寛政二年(一七九〇)の家数五三・竈数五九(うち家主五三・借家二・尻付四)、男一二九・女一一五、寺社一、持馬一四(「家数人別書上帳」前橋市立図書館蔵)


新町
しんまち

[現在地名]上野市新町

三筋みすじ町の東端を南北に通る道の東片側二町ほどと、上野天神(現菅原神社)の裏から東へ一町ほどの一区画を町域とする。「永保記事略」によれば、藤堂高虎の時代、寛永年間(一六二四―四四)に成立した町とある。町内に福田彦左衛門家(家号鍋屋、酒造業)や菅屋(酒造業)らの豪商がおり、菊岡沾涼の「故郷の水」(沖森直三郎氏蔵)によれば、菅屋某は土芳門人の俳人であった。当初は天神祭供奉の練物の印を片原かたはら町と共同で出していたが、宝暦五年(一七五五)から新町独自で出すようになり(上野町旧記目録)、現在の印は白楽天。


新町
しんまち

[現在地名]諫早市八坂町やさかまち

諫早市中の南部、かみ町の北に位置する。しも町別当の管轄下で、天保一〇年(一八三九)以前の諫早旧城下図(「諫早市史」所載)では町名の記載はなく、上町とうお町の間に記される祇園社(現八坂神社)の辺りが当地であろう。同一三年以降の佐賀領郷村帳では諫早下町のもとに新町と記されるが、新町与しんまちくみともよばれ、商人・職人らが居住していた。


新町
しんまち

[現在地名]赤穂市加里屋かりや

うえ町の南から西に続く町で、東西二町四六間の町筋(宝永元年加里屋町絵図)。浅野氏時代に町家の増加のためなが池を埋立て新しく造った町で(「赤穂由来記」吉栖家蔵)した町とも称した(赤穂市史)


新町
しんまち

[現在地名]刈谷市新栄しんさかえ

すそ町の先に新たに開けた町であるので新町とよんだ。末町のはずれにあった番所は新町のはずれに移された。新町から先は八町畷はつちようなわてとなり、町はずれに作られた枡形は八町枡形とよばれ、百叩きされて追放されるところであった。末町にあった牢屋は、文政三年(一八二〇)新町出口に移され、八町牢屋とよばれた。天明八年(一七八八)町々より願出て六斎市を始めたが、その後中絶、天保九年(一八三八)に至って「此度町内繁昌且ハ為増加青物・干物・其外何ニ不依諸所ヨリ持出、月六斎市取立仕度奉存候、尤直段成丈下直ニ仕リ現金売仕度奉存候」と願出て六斎市が始まる。


新町
しんまち

[現在地名]福江市栄町さかえまち

福江城の北に位置し、北東部は浦に臨み、川口かわぐち番所がある。寛永一一年(一六三四)の福江直りに伴って町割が行われた町人町の一つであるが、同年の屋敷数は三戸で、武家屋敷もあった(五島編年史)。寛文九年(一六六九)新町から出火、家一五軒を全焼する事態となり、罹災者に久賀ひさか山・奥浦おくうら山、奈留なる(現奈留町)などで勝手に材木をとることが許されている(「江戸御留守中覚書」同書)


新町
しんまち

[現在地名]八代市とおり

城の北東部にあり、東西に町屋を形成する。町に通ずる外濠内にあり、東口には松江口勢溜があり、番所が設けられていた。北は鷹匠たかじよう小路、南はみやの町・ふくろ町、西はなが丁に接する。


新町
しんまち

[現在地名]福井市つくも二丁目・足羽あすわ一丁目

三ツ屋みつや町から南、中立屋なかたちや町に至る町。当町より西方に延びる小路は新片しんかた町で、いずれも新しい地方町。正徳三年(一七一三)頃の御城下惣町間数帳に「地方新町 七拾九間、中立屋町ヨリ三ツ家町迄、但道幅二間二尺」とある。


新町
しんまち

しも町の東北部、横堀の外側に寛永一三年(一六三六)新たに開かれた町。古くは「御小人潮田」と称されていた。町の開発は、それより先の同八年、吾川あがわ芳原よしはら(現春野町)の住人島崎藤右衛門が来住したのに始まるという。のちにこの新町地区には南から田淵たぶち南新みなみしん町・中新町・北新町・鉄砲てつぽう町の五町が成立した。



しんこうがいちよう

[現在地名]港区南麻布みなみあざぶ五丁目

明治五年(一八七二)こうがい川の谷に臨む傾斜地に成立した町。東は麻布三軒家あざぶさんげんや町・同盛岡もりおか町、南は同広尾ひろお町、西は渋谷村、北は麻布笄町。幕末には美濃苗木藩遠山家・河内狭山藩北条家・豊後府内藩松平(大給)家の各下屋敷と幕臣邸地であった。


新町
しんまち

[現在地名]大津市中央ちゆうおう二丁目

坂本さかもと町・米屋こめや町の南にあり、南はなか町通のやなぎ町。文禄五年(一五九六)一〇月の山上村検地帳写(山上町共有文書)に「新町」と記され、当地の者が名請人として一四石余の入作をしていた。


新町
しんまち

[現在地名]臼杵市臼杵 新町

城下の中央から東寄りに位置する。北を唐人とうじん町、南をほん町に挟まれ、長さ一町二七間余の通りに細長い両側町をつくる。東は大手口の辻に接し、町の入口に木戸が設けられた(幕末頃「臼杵城下絵図」臼杵図書館蔵)。臼杵博識誌(臼杵藩政史料)によると慶長二年(一五九七)の成立というが、同一一年の惣御高頭御帳に町名はみえない。


新町
しんまち

[現在地名]厳原町国分こくぶ

はま町の西、奥里おくざとより久田道くたみち町に通じる裏道に町並を形成。延宝四年(一六七六)の屋敷帳(宗家文庫文書)に「新町」「新上町」「新下町」とみえ、御船手の串崎吉兵衛らの屋敷がある。同九年の年行司町人返答書(同文書)に町名がみえ、乙名は串崎勘右衛門で、本家・借家合せて四〇、人数一六四、大工七、八人、木挽三、四人、糀屋一軒、また廻船があり、鯨組がある。


新町
あたらしちよう

[現在地名]東山区本町十四丁目

二之橋にのはし(現本町十三丁目)の南、本町ほんまち(伏見街道)五条より一四町目に位置(明治二年本町十四丁目と改称)

「坊目誌」に「天正以来東福寺領に属し、新し町と称す」とみえるが、典拠が明示されていない。承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図に、「新町」とみえるのが早く、延宝二年(一六七四)四方洛外町続之町々小名之覚(荻野家文書)にも「新町」と記し、正徳四年(一七一四)洛外町続町数小名家数改帳(同文書)に「一、拾弐軒 同(東福寺門前)新町」とある。


新町
しんまち

[現在地名]大畑町大畑 新町

大畑川の河口右岸に位置し、南はほん町に接する。延宝二年(一六七四)に屋敷割が行われている(大畑町誌)。「原始謾筆風土年表」の天明六年(一七八六)の項に同年の洪水の際の模様を「新町より役所前へ舟にて通し、下た新町番屋流れ、或は大石に繋有し、七八十石船も汐逆強古道川迄押上」と記す。享和三年(一八〇三)の仮名付帳には家数一〇四とある。


新町
しんまち

[現在地名]六郷町六郷 新町

羽州街道より分岐する角館かくだて街道に沿い、北はこめ町、西はうら町と接する。

天明三年(一七八三)の六郷高野村絵図(六郷町役場蔵)に町名があり、一八世紀後半に成立したと考えられる。


新町
しんまち

[現在地名]能代市檜山字霧山下きりやました

かみ町の南端少し手前から西に折れて新町に入る。町は馬場ばば町を中に挟んで多賀谷氏居館を取り囲むように北へ曲がる。天保二年(一八三一)の檜山絵図(秋田県庁蔵)によれば、東西に通る家並が六八間、北へ曲がって南北に通る家並が二〇四間。


新町
しんまち

[現在地名]七戸町 七戸・上町野うわまちの

通称新町。七戸村の町方で、その北東端にあたり、奥州街道に沿ってほぼ東西に延びる。藩政期末の北奥路程記(岩手県盛岡市中央公民館蔵)の絵図でみると南はよこ町に接し、西にうしろ小路が延びる。


新町
しんまち

[現在地名]五戸町 新町

五戸町の南東に位置する。奥州街道筋にあたり、おお町の中央から南東に街路が走る。享和三年(一八〇三)の仮名付帳に新町とあり、家数は四七、駅場が置かれていた。藩政初期には川原かわら町に駅場が置かれていたとされ(五戸町誌)、後期の開設とみられる。


新町
しんまち

昭和一三年(一九三八)大字網走村の一部を割いて設置された。網走川右岸と天都てんと山下の山下やました通の間にある東西に狭長な地域。現国道三九号が東西に走り、東へ現主要道道網走停車場線が分岐する。昭和七年には当地を東西に通る国鉄網走本線(現JR石北本線)と国鉄釧網せんもう(現JR釧網本線)を結ぶ網走駅が西寄りの当地に移転新設され、以後駅前商店街が形成された。


新町
しんまち

[現在地名]鹿角市花輪 新町

花輪はなわの町並の中央部に位置し、寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に「三十七軒新町」とある。鹿角街道沿いに形成され、北は今泉いまいずみ


新町
しんまち

[現在地名]米沢市南原新町みなみはらしんまち

笹野ささの町の南に位置する下級家臣(原方衆)屋敷町。笹野町から続く南北の道に沿う両側町。南原五町の一。妙覚みようがく寺があったので寺町とも称したという。明和六年(一七六九)の原方屋敷絵図(市立米沢図書館蔵)によれば家数四八。


新町
しんまち

[現在地名]相馬市中村なかむら 新町

馬場ばばに並行する東西一二六間の通りで、西は御徒士おかち町、東は泉田いずみた町に接する。明暦年間(一六五五―五八)に下士の屋敷を置くために設定された。


新町
しんまち

[現在地名]鳥栖市田代新町たしろしんまち

田代たじろ五町の一つ。かみ町から東へ、小坂の下に続いている。文字どおりの新町であるが、当町東の昌元寺しようげんじ町の承応二年(一六五三)よりも早く建てられた町であると思われる。


新町
しんまち

[現在地名]伊丹市伊丹二―三丁目

伊丹町を構成する二七ヵ町の一つ。中之なかの町と材木ざいもく町の東にあり、有岡ありおか城跡へ向かう東西道の両側町。文禄伊丹之図に町名がみえる。会所入用割の間数は一五〇間半(「正心調法記」武田家文書)


新町
しんまち

[現在地名]小松市新町

松任まつとう町・どろ町の東に並行する南北通りで、長さ六町一二間・幅一間(皇国地誌)。町名の由来は松任町や泥町の裏町として新しく町立てされたことによるという。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一八石余、免七ツ七分(三箇国高物成帳)


新町
しんまち

[現在地名]石狩市新町

明治四年(一八七一)から同三五年までの町。石狩郡のうち近世末期に形成された石狩市街の一町で、市街の北東側にあって石狩川河畔から日本海岸に通ずる狭い町域。「石狩国地誌提要」に「川西」として「新町」がみえる。金龍きんりゆう寺があり、鮭料理店などもある賑やかな町並であった(石狩町沿革史)


新町
しんちよう

[現在地名]高崎市真町しんちよう

とおり町の北にある侍町。西と北は羅漢らかん町、東は遠堀。高崎藩の組屋敷があった所で、遠堀に沿って南北に細長く、東西には数条の路地がある。「高崎志」に「新町ハ羅漢町東小路ヨリ南ニ入、左右皆組屋舗ニシテ、町家ナシ」とある。


新町
しんまち

[現在地名]松江市新町

雑賀さいか町の南西に位置し、南は床几しようぎ山を境に乃木のぎ村、西は松江分。松江城下の最南端にあたり、町名は城下成立後に新しく町立てされたことに由来するとみられる。


新町
しんまち

[現在地名]兵庫区中之島なかのしま二丁目

磯之いその町の南、勤番所東側の堀に沿って延びた岡方の町。慶長七年(一六〇二)の兵庫屋地子帳(兵庫岡方文書)に町名がみえ、屋敷地二八筆。


新町
にいまち

[現在地名]白石市西益岡町・城北町・大川町

短ヶ町みじかまちの西に続く六町の一で、六町のうち最後にできた宿場町であろう。寛文一〇年(一六七〇)の書上(「白石市史」所収)では町の長さ一二七間、奥州街道南側に二七軒、北側に三〇軒、検断屋敷一軒、明屋敷二軒。


新町
しんまち

[現在地名]松本市北深志きたふかし一丁目

松本城の城外武家屋敷町。三の丸の北門、北の馬出しから北にのぼる南傾斜の地にある。中級武士が住んだ。


新町
しんまち

[現在地名]亀岡市新町

大手門おおてもん前通り南北の町で、京街道筋にある。町並の長さは四二間。町場は下矢田しもやだ村分で、築城に際し下矢田村住民を移住させた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「新町」の意味・わかりやすい解説

新町(大坂の遊廓)
しんまち

大坂にあった遊廓(ゆうかく)の地名。大坂の遊廓は、1585年(天正13)に豊臣(とよとみ)秀吉が市中に散在した遊女屋を集めたのに始まると伝えられるが、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)には伏見呉服(ふしみごふく)町から道頓堀(どうとんぼり)へと移っていたものが、元和(げんな)~寛永(かんえい)初年(1620前後)に現在の西区新町1丁目付近へ移転して定着した。そのときにできたのは瓢箪(ひょうたん)町であり、その後に市内各所から引っ越してきて、隣接地に佐渡島町、新京橋町、新堀町、吉原町を形成した。これらの町の正確な移転年代は確定できないが、全容が整うまでには約30年かかっている。新町の名称は、瓢箪町をつくるときに新しく開いた町という意味で命名したともいうが、前記の町々のほかに佐渡屋町や九軒町などを総合した町名として用いられた。新町は当時の遊廓形式に従って、周囲を溝で囲み通行を一方口にして、一般市域から隔離した特別区画になっていた。通行口は大門(おおもん)とよび、1657年(明暦3)にそれまでの西側中央のほかに東側にも新設された。新町遊廓は、最大の商業都市大坂における唯一の公認遊里として発展し、ことに九軒町を中心に集まっていた揚屋(あげや)は建築や庭園などの設備がよく、遊興方式としての揚屋制度の発達に伴い、揚屋遊びでは全国一の評判が高かった。廓内には揚屋のほか、小天神(こてんじん)以下の中・下級妓(ぎ)や芸子との遊興場所であった茶屋があり、他の遊里の茶屋より優れていた。近世前半の隆盛に対し、中期以後は市中に続出する私娼(ししょう)街のため低落傾向をたどった。

[原島陽一]



新町(群馬県)
しんまち

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改訂新版 世界大百科事典 「新町」の意味・わかりやすい解説

新町 (しんまち)

大阪市西区の町名。江戸時代の初め,伏見浪人木村又次郎が島之内の傾城町を移転して瓢簞町を開発。1626年(寛永3)の立売堀(いたちぼり)川完成によりしだいに発展して,問屋などが雑居していたが,大坂三郷唯一の遊女町として公認され,35年ころから周辺の遊廓が逐次移転。瓢簞町を中心に佐渡島町,葭原(吉原)町,新京橋町,新堀町が形成されて五曲輪(ごくるわ)といい,ややおくれてできた九軒町,佐渡屋町を加えて新町と総称した。72年(寛文12)廓繁盛のため新町大門と島之内順慶町とを結ぶ新町橋(瓢簞橋)を南横堀川に架設。遊客らを相手に順慶町の夜店が開かれ,大坂名物となったが,76年(延宝4)新町の夜店も許可され,86年(貞享3)には茶屋株18株が公認された。問屋らが来坂の得意客を接待する場として利用され,1702年(元禄15)には揚屋28軒,茶屋49軒,遊女829人を数え,商都大坂の繁栄に深いつながりをもった。
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新町(群馬) (しんまち)

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百科事典マイペディア 「新町」の意味・わかりやすい解説

新町[町]【しんまち】

群馬県南部,多野郡の旧町。利根川の支流烏川と神流(かんな)川にはさまれた低地を占め,埼玉県に接する。中心市街は江戸時代,中山道の宿場町として発達,高崎線が通じる。繊維,自動車部品,食品など多くの工場が集中する。陸上自衛隊駐屯地。2006年1月群馬郡箕郷町,群馬町,倉渕村と高崎市へ編入。3.74km2。1万2351人(2003)。
→関連項目新町屑糸紡績所

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事典・日本の観光資源 「新町」の解説

新町

(群馬県高崎市)
中山道六十九次」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の新町の言及

【信州新町[町]】より

…筑摩山地にあって,犀(さい)川沿岸に低地がみられるほかは山林・原野が広い面積を占める。中心集落の新町は江戸時代には松本と結ぶ犀川通船の起点であり,物資の集散地としてにぎわい,2・6・9の日の九斎市が開かれていた。山間傾斜地を利用した農業が主産業で,養蚕,酪農,果樹栽培が盛ん。…

【大西[町]】より

…半島の中心にある山地の支脈が南部を占め,北東部に低地が開ける。中心集落の新町は今治街道に沿い,江戸時代は馬継ぎ駅で,街村をなし,短冊形の町割を残す。町中央にある大庄屋井手家の屋敷は1975年まで町役場として使われた。…

【新地】より

…とくに江戸時代の都市の,17世紀後半以降の拡大再編過程で,河川の改修工事や海辺の埋立て,また土地の割替えなどの結果,新たに造成され居住地となった部分を,従来からある土地に対して新地という。新町,新屋敷も同様の意味で用いることが多い。大坂では17世紀末の元禄期に河村瑞賢により安治川の開削,堂島川,曾根崎川の浚渫(しゆんせつ)など大規模な河川改修工事が行われ,安治川新地9町,堂島新地11町,堀江新地24町などの新たな町が成立している。…

【難波鉦】より

…1680年(延宝8)3月撰の序,後序があり,本書の返答書(批判書)の出版時期から1680年刊行と推定される。大坂新町の遊女の名寄せ(名簿)を兼ねて色道の諸分(しよわけ)(遊女が客に対応する仕方)を述べた書。〈初冠〉〈釣針〉以下,〈恋手引(こいのてびき)〉〈雲井月(くもいのつき)〉まで100章に分け,それぞれに章名と太夫,天神の名とを掲げて,遊女が客の質問に答えるという構成をとる。…

【遊郭(遊廓)】より


[沿革と制度]
 厳密な意味における公娼集娼を目的とした遊郭は,豊臣秀吉によって1585年(天正13)に始められ,徳川氏がこの政策を継承して整備していった。85年の許可は大坂の島之内辺であったといい,慶長年間(1596‐1615)に道頓堀へ移った後,17世紀初頭の元和~寛永初年に新町(しんまち)(現,西区新町1丁目付近)へ移転して定着した。しかしそのときに建設されたのは瓢簞町(ひようたんまち)で,後に市内各所から次々に移住して,佐渡島町,新京橋町,新堀町,吉原町などが追加されており,全体の完成に約30年を要したのは,発足時における集娼制の不徹底さを露呈している。…

※「新町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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