伏見の地を「九郷」とよばれる農村から最大の城下町に変えたのは、豊臣秀吉の権力・財力を駆使した都市建設である。秀吉はこの地に隠居所を造ろうと、天正二〇年(一五九二)八月普請を始めている(兼見卿記)。「多聞院日記」が、「伏見隠居ノ普請被上了、爰ニ在レハ京ノ執心ニ似故被打置云々、既二方ノ石垣ハ出来了」(天正二〇年九月二七日条)と記すように、石垣をめぐらし城構えであったことから隠居城ともよばれた。翌文禄二年閏九月二〇日には秀吉が伏見に居を据えたとあるから(時慶卿記)、着工後一年で隠居城もほぼ完成していたのであろう。
秀吉は同年暮には、この隠居城を本格的な城郭に造り変えることと、広大な城下町を建設することに着手している。「太閤記」は「文禄三年二月初比より廿五万人之着到にて、醍醐、山科、比叡山、雲母坂より大石を引出す事夥し。伏見には堀普請に勢を分て掘せけるに、奉行衆打かはり打かはり見舞しかば、ほかの行事中々申もおろかなり。其外材木は、木曾の谷々土佐の嶺々にて大木を伐置ければ、又の年の夏の洪水に、をのづから流出ぬ。誠に天公も助成し給ふや」と工事が順調に進んだことを記す。
文禄五年閏七月一三日、大地震が畿内を襲った。「義演准后日記」はその模様を「伏見事、御城・御門・殿以下大破、或転倒、大殿守悉崩テ倒了。男女御番衆数多死、未知其数、其外諸大名ノ屋形或転倒、或雖相残形也、其外在家為体、前代未聞、大山モ崩、大路モ破裂ス、非只事」と伝える。秀吉は余震まだなりやまぬ翌一四日、城郭の位置を指月から伏見山に移して再建するよう命じ、ただちに城と城下町の再建工事が始められ、伏見は以前の活況を取戻した。城下には全国大小名の武家屋敷が出現し、全国に類例のない巨大都市へと発展し、集住してくる武士団の需要を満たすための商人や職人たちが町人居住区を形成した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
《〈和〉doctor+yellow》新幹線の区間を走行しながら線路状態などを点検する車両。監視カメラやレーザー式センサーを備え、時速250キロ以上で走行することができる。名称は、車体が黄色(イエロー)...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新