日本歴史地名大系 「堀詰町」の解説 堀詰町ほりづめちよう 愛知県:名古屋市西区堀詰町[現在地名]西区小舟(こぶな)町・堀詰町堀(ほり)川西岸、納屋(なや)町筋の小船(こぶな)町地内から西へ延びる町。堀詰町筋にあり、東は小船町に接する。町並は南鷹匠(みなみたかじよう)町の辻までは北側ばかり。以西は両側。次に戸田(とだ)町筋を北に折れて約半丁、戸田町へ続く。「府城志」によれば二丁、「尾張志」によれば、一丁半を町域とする。清須(きよす)越しではない(蓬左遷府記稿)。遷府前は堀川の堀留(ほりどめ)(現塩町)より北、鷹部屋(たかべや)(現樋の口町)付近までの間にあった。御蔵も同所に置かれて、堀詰御蔵とよばれた(名府予録)。伝承によれば、築城のさいには米・餅・酒などを売ったという(尾張志)。 堀詰町ほりづめちよう 高知県:高知市高知城下郭中堀詰町[現在地名]高知市本(ほん)町一丁目本町の東部北側にあり、郭中(かちゆう)の区画内であるが、外堀に架かる堀詰橋を挟んで東側にある下(しも)町地区堺(さかい)町の枝町で、町人町であった。東西五〇間、南北二二間、家数二一軒(高知風土記)。寛文五年(一六六五)の「土陽顕秘録」には町名がみえるが、元禄年中(一六八八―一七〇四)の城下町図(皆山集)は同地に西屋敷地(にしやしきじ)・西横詰(にしよこづめ)町会所を記す。 堀詰町ほりづめちよう 京都市:下京区皆山学区堀詰町下京区間之町通七条上ル南北に通る間之町(あいのまち)通を挟む両側町。平安京の条坊では、左京七条四坊二保四町の地。町の形成は、寛永一八年(一六四一)以降の市街地化によるものであろう。承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図に、「ほりつめ丁」と記される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by