日本歴史地名大系 「給黎院」の解説
給黎院
きいれいん
鎌倉時代から室町時代にみえる院名。現喜入町に比定され、給黎の地名は室町期以降には喜入とも記される。薩摩国建久図田帳によると、「給黎院四十町」は島津庄寄郡で、郡司は小太夫兼保、地頭の記載はないが、喜入肝付家本では「給黎郡四十丁」とあり、郡司兼保のほかに地頭は右衛門兵衛尉(島津忠久)と記される。兼保は前掲図田帳に
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
鎌倉時代から室町時代にみえる院名。現喜入町に比定され、給黎の地名は室町期以降には喜入とも記される。薩摩国建久図田帳によると、「給黎院四十町」は島津庄寄郡で、郡司は小太夫兼保、地頭の記載はないが、喜入肝付家本では「給黎郡四十丁」とあり、郡司兼保のほかに地頭は右衛門兵衛尉(島津忠久)と記される。兼保は前掲図田帳に
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