朝日日本歴史人物事典 「島津忠国」の解説
島津忠国
生年:応永10.5.2(1403.5.22)
室町時代の薩摩(鹿児島県)・大隅(同)・日向国(宮崎県)守護。久豊の嫡子。修理大夫,陸奥守。奥州家の家督として応永28(1421)年以降,薩摩守護系総州家の島津忠朝・守久を攻略して追放し,奥州家の地位を安定させた。その後,薩摩国守護代の弟用久と対立する。このころ将軍足利義教の弟大覚寺義昭が日向に下向するが,嘉吉1(1441)年,忠国は日向国櫛間院(串間市)で義昭を暗殺し,室町幕府から認知を獲得,用久らの勢力を弱体化させ,文安5(1448)年和解に持ち込んだ。近世初期,大覚寺義昭事件は,幕府から琉球を付庸する権限の裏付けとされ(「嘉吉付庸」),薩摩藩の琉球支配の根拠とされるに至った。<参考文献>福島金治『戦国大名島津氏の領国形成』
(福島金治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報